(2)
「いい、尚子。お店の経営に慣れるまでは、何でも私に相談するのよ」
「ええ、お母さま。お母さまが育て上げたお店ですもの。けっして間違った方向には持っていかないわ」
みんなが屋敷から引き上げたあと、京子は自室に長女だけを呼んでいた。
「あなたなら、大丈夫ね。でも、これから少なくとも一年間、決め事はすべて私に相談するのよ」
「わかってるわ。お母さまも心配性ね」
尚子は安心させるように微笑むと、ちょっと顔を曇らせた。「でも、なんで早紀の勤め先を、銀座のお店からメディア21に変えたの?」
京子は窓のほうに歩み寄ると、腕組みした。次女の早紀が執事の蓮池と、庭の草花の手入れをしている姿が見えた。彼女が見ていると、早紀が種を植え、そのあとを、蓮池がかいがいしく水をかけていた。
京子はふと、葬儀に参列していた神山一郎のことを思い浮かべた。言葉を交わしたのはほんのわずかだが、彼女は自分の気持ちを隠すのに苦労した。年相応に肉のついた容貌と重厚な肉体。それでも昔、彼女が胸をときめかしたダンディーな雰囲気は失っていなかった。どうやら彼は、理想的な歳の取り方をしてきたようだ。
神山一郎への想いを断ち切るように、京子は長女のほうへ振り返った。
「早紀は、私の手元に置いていたいの。あなたのように、しっかり者じゃないし。それに――欲がなさ過ぎるわ」
尚子は、母親の気持ちが理解できたが、あえて反論した。
「でも、早紀だって、いつまでも子供じゃないわ。そろそろ、彼女を自由にしてやったらどうなの?」
「私はいつだって、彼女の行動を束縛していないわ」
京子はきっぱりと言った。「ただ、あの子には、誰かの目配りが必要なの。あまりにも世間を知らなすぎる」
尚子はにんまりと微笑んだ。
「なんだか私が、世間慣れしたあばずれのようね」
「あらっ、そんなふうに聞こえた?」
京子も娘の笑顔につられて微笑んだ。そして真顔にもどった。
「ところで、支配人の梅林は、ちょっと風変わりな男だと感じてるでしょうが、なかなかの商売人だから、大切にしなさい。そういえば彼は、うちの会長になる藤田社長の甥だったわね」
「あの支配人、たしかに風変わりな人ね。歳をとってる割に、独身で、若作りの格好をして――ひょっとして、へんな趣味でもあるのかしら」
「そんなことは、深く詮索しないの。お店に影響なければ、彼が裏で何をやっていようと関係ないことよ」
尚子はケラケラと笑った。
「大丈夫よ。私は平気。だって、私の亭主で慣れてるわ」
「あなた、そんなことを言って――」
京子は娘をにらんだ。
尚子はなんでもないというように、肩をすくめた。
「薫は、いつまでたっても、盛りのついた猫のようなものよ。相手が誰であろうと見境いなしだわ」
彼女は、驚く母の顔を見て、ふたたび笑った。
「だから、あの人と別居したのよ。いまごろは宮内のお尻でも、つついているんじゃないかしら」
そのころ銀座将美堂の支配人、梅林亮は、けだるい満足感を覚えながら、ベッドの上にうつ伏せに横たわっていた。
その裸体を見下ろしながら、がっしりした体格の中年男が下着を身に着け、ズボンに足を通していた。亮がポルノ映画館で拾った男だった。彼が購入したマンションの一室でのひととき――。彼はこんなことを何年もつづけていた。
梅林亮は子供のころから、二人の勝気な姉たちに対して、いつも頭があがらなかった――勉強でもスポーツでも。
学生時代、悪友に連れられて風俗店に行ったときは最悪だった。女の前で服を脱ぐとき、恥かしさでいっぱいだった。女の豊満な肉体にくらべ、自分の脆弱な体つきが恨めしかった。初体験はあっという間におわった。楽しむどころか惨めなだけだった。そのときの軽蔑したような女の顔つきが忘れられなかった。それが原因で、彼は40歳を過ぎても女に引け目を感じていた。
あるとき彼は、学生時代の友人と喫茶店にいた。その友人は、亮と同じようなほっそりとした体形をして、どことなく女性っぽかった。そのとき友人が持ちかけたのだ――逞しい男を味わってみないかと。
友人の視線の先には、労働者風の固太りの中年男がふたりいた。友人は亮の返事を待たずに、ふたりのほうに歩み寄った。それから親しそうに話をしだした。どうやら顔見知りらしい。しばらくして友人は戻ってきた。
「商談成立だ。一万円払えよ」
10分後、梅林は男と裏通りのホテルにいた。部屋で二人きりになると、男は手慣れた仕草で亮を抱き寄せ、ごつい手で愛撫しながら、服を脱がせた。そして自らも服を脱いだ。肉の厚い壮年男の肉体――黒い陰毛で覆われた股間には、ずんぐりしたイチモツが頭をもたげかけていた。
男と愛を交わすのは初めてだったが、亮はまったく嫌悪感を覚えなかった。ただ極度の興奮にふるえていた。
「きれいな体をしてるじゃないか」
男は好色そうな笑みを浮かべると、亮をバスルームに連れて行った。そのあとは、男のなすままだった。彼は直腸を洗浄され、男の太い性器を口に咥えさせられた。やがて、場所をベッドに移すと、男は亮の恥ずかしい部分を、時間をかけて弄んだ。
やがて、男の逞しい肉体が脆弱な彼の体に覆いかぶさり、背後から押し入ってきたとき、苦痛に顔をゆがめた。それでも彼は悦びを覚えていた。
それが亮の男色嗜好の始まりだった。

メディア21ビルの駐車場の管理室は、地下一階の車寄せの脇にあった。今そこは、昼休みの従業員でにぎわっていた。集まった年配の配車係たちは、思い思いの格好でテレビを見ていた。ちょうど、今井元相談役の葬式のニュースが流されているところだった。大勢の黒服を着た弔問客の集まった葬儀の模様や、遺産を相続した婦人や娘たちの姿が画面に映し出されていた。
「美人の奥さまだな。わしがもうちょっと若かったらなあ」
チーフ格の吉田が、ため息交じりに言った。
「お父ちゃん、もうちょっと若かったらって――若かったら何だってんだ。大富豪の奥さまに、プロポーズしようってのか?」
「お父ちゃんには無理無理――。月にスッポン、美女と野獣だ。だいいち、キスをしようにも、背が届かないぜ」
ほかの同僚たちが吉田をからかった。
「バカ、女を悦ばすのは体の大きさじゃない、ナニの大きさで決まるんだよ」
吉田が、小柄な体を精一杯ふんぞり返らせて、言った。
そのズボンの前をにやにやして見ながら、同僚が言った。
「たしかにお父ちゃんのムスコはでっかいらしいが、おっ立つのかい。フニャチンじゃ役に立たないぜ」
「ふん、バカ言え。今だって朝立ちしてんだぞ」
「67歳の爺ちゃんが朝立ちだって?夢の続きじゃないのか?」
吉田がなにか言い返そうとしたとき、車寄せに黒塗りのベンツが停まった。運転手が出てきて、後部ドアを開けた。
車から出てきたのは、話題の女相続人、今井京子だった。
メディア21ビルの30階は、社員誰もが気軽に行けるフロアではなかった。
エレベーターホールには専用の受付があり、壁は重厚なチーク張り、床は靴の踵が沈み込むような厚手のカーペットが敷きつめられている。会社のビップたちだけが利用できる、重役専用のフロアだった。
その階の一番奥の部屋で、秘密の会合がもたれていた。
会社側からの出席者は、新社長の今井京子と藤田会長、それに事業開発本部から総務部に返り咲いた堀部長だった。彼らが応対するのは、二人の男――総会屋の榎本辰男と国会議員秘書の円堂昌輔だった。
「いやあ、テレビで拝見するより、ずっと美人の社長さんだ。今井相談役も幸せな方でしたな」
開口一番、榎本が言った。彼は世慣れた感じの50男で、眉毛の薄い細面の顔は、およそ捉えどころのない飄々とした感じだ。中肉中背、やや小柄なほうで、外見はたいして特徴がなかった。しかし彼の狙った株主総会で、舌鋒鋭く経営陣を追求する迫力は、多くの企業に恐れられていた。
同行する円堂昌輔は、榎本と同年輩くらい――背が低く、横に張った小太りの体つきをしている。赤ん坊のように艶やかな頬、小作りの目鼻立ち、色素の薄いおちょぼ口、純粋さと臆病さが入り交じったつぶらな瞳。それらすべてが、彼をおとなしくて子供っぽい人物と印象づけている。
しかし当の本人は、そんなことは毛頭考えていないようだ。自分に威厳をもたせようと、鼻の下に髭をたくわえていた。それも薄くて、白いものが目立ち、いささか彼の狙いとは逆効果の感がある。
「藤田会長に、あなたのことは承っております。いつもお世話になっております。これからもよろしくお願いします」
京子は、榎本の愛想を軽く受け流して、丁寧に頭を下げた。それから横の円堂のほうを見た。
「貝山先生にもたいへんお世話になっております。よろしくお伝えくださいませ」
彼女はふたたび頭を下げた。
「新社長さんは、よくできた方だ。こちらこそ、よろしくお願いしますよ」
榎本が機嫌よく言った。
京子は軽くうなずき返して、末席でかしこまっている堀部長を見た。
「これからは、総務部長の堀が窓口として、対応させていただきます。堀は総務部の経験がありますので、このたび担当といたしました」
「よろしくお願いします」
堀が神妙な顔で頭を下げた。
「堀さん、あんた、出世しなさったね。前にお会いしたときは課長さんやったが」
榎本がニヤリとして言った。
客が帰ったあと、京子は藤田会長と堀部長を前に、不快感を隠そうともしなかった。
「議員秘書は、毒にも薬にもならない男だけど、総会屋のほうは嫌味な男ね」
「滅多なことは、おっしゃらないほうがいいですよ。胸の内にとどめておくことです。あれで、なかなかの地獄耳ですからね」
藤田が慎重な口ぶりで言った。
「かまうことはないわ。はっきり言えば、タカリ屋でしょう?」
社長の言葉に、藤田があわてて遮った。
「声が大きすぎます。とにかく、あれでも役に立つ男です。彼のおかげで、ほかの総会屋が騒ぎたてずに、これまでやってこれたんですから」
「与党総会屋ってわけでしょう?でも、彼らに頼らずに、正々堂々と株主総会を乗り切れないものかしら。メディア21は、人に後ろ指をさされるような経営を、やってるわけじゃないでしょう?」
「何もなくても、あれこれ突ついて総会を紛糾させるのが、彼らの商売ですよ。彼らを拒否してコトを荒立てるより、彼らを利用したほうがいい。それが生前の、相談役のお考えでした」
「私は主人のやりかたに、反対しているわけじゃありません。――それで、毎年どのくらい、彼らに貢いでいるのですか?」
「榎本さんに2千万円。貝山先生にも同額です」
「もちろん、裏金でしょう?」
念を押すように社長が言って、藤田が黙ってうなずいた。
社長は考えこんで言った。
「気をつけなさい。主人の死んだ今となっては、彼らにとって遠慮する人がいなくなった。おそらくそのうち、増額を要求してくるはずです」
彼女の言葉に、藤田は眉をひそめた。
「その可能性はおおいにありますな」
彼は堀部長のほうを見た。「堀くん、きみがしっかりしていないと、ずるずる押し切られちゃうぞ。頼むよ」
言われた堀は、かしこまって頭を下げた。