■ カンパニー(第3章 女相続人) - (1)
(1)
ひっそりと静まり返った病室で、今井京子はじっと夫の顔を見守っていた。夫の顔は不気味なほど色を失って、灰色がかっている。持病の心臓発作を起こして救急病院に運びこまれたときは、もう駄目かと思った。それでも、今は小康状態を取り戻している。
しかし、いつまた危険な状態に陥らないとも限らない。
そのとき、夫の瞼がうごめき、目を開けるのに気がついた。
「あなた、目を覚まされました?」
京子はそっと声をかけた。
今井良尚は横を向こうとして、眉をひそめ、上を向いたまま声を出した。
「ああ――薫を呼んでくれ」
しわがれた声だった。
「薫さん?神山薫さんですか?」京子は聞き返した。
「そうだ――今すぐ、呼んでくれ」
「分かりました。すぐ連れてまいります」
(どうして薫さんなんだろう?)
京子は疑問に思いながらも、待合室に急いだ。人でごった返していた待合室は、今は近親者たちだけで、ひっそりとしていた。神山薫は部屋の隅で、榊原剛となにやら話をしていた。京子は薫にそっと合図を送った。
「薫――これからわしの言うことを、まじめに聞いてくれ」
「お父さん。私はいつもまじめですよ」
「無駄口をたたくな。時間がない」
そこで良尚はせき込んだ。「――いいか、わしが死んだら、会社に黒い手が伸びる」
薫は老人の言葉に驚いた。
「なにを言うんです。お父さんは、まだまだ長生きしますよ。ほら、憎まれっ子、世にはばかると言うでしょうが」
良尚がかすかに手を挙げようとした。
「無駄口をたたくなと言っただろうが。――彼らは平和銀行を利用して、アスカビルを狙う。ひょっとしたら、メディア21も」
(このじいさん、何を言ってるんだ?)
薫は訝ったが、黙って老人の言葉を待った。
「いいか、貝山博に気をつけろ。それから、榎本辰男の動きにも――」
「貝山博って、大臣をやったことのある、国会議員ですか?」
良尚が目をしばたいて、うなずいた。
「榎本辰男というのは、なに者ですか?」
「総会屋だ。企業を食い物にしているハイエナだ」
「その二人が、どうしてこちらの会社を狙うんですか?」
「死肉にたかるハイエナのようなやつらだ。いいか、彼らの動きに注意しろ――」
良尚は疲れたように、息を吐いた。「薫、あとを頼むぞ。それから、剛と協力してやっていくんだ。あれは、頼りになる――」
そこで良尚は、もう行け、と言うように手を振ると、目を閉じた。
薫は老人の顔を黙って見ていたが、そっと立ち上がって部屋を出ていった。
京子は部屋の隅で、二人の会話をじっと聞いていた。夫は神山薫に信頼を寄せて、後を託したのだ。彼女は不思議に思った。彼女の耳に入る神山薫の風聞は、いずれも常軌を逸した行動ばかりだった。
(なぜ自分ではなく、義理の息子なんだ?それに、神山一郎の私生児、榊原剛なんだ?自分が女だから?)
彼女は、嫉妬に近い感情を覚えていた。そのとき、夫の声がした。
「京子――いるのか?」
彼女は物思いからさめて、ベッドのそばに近寄った。
「ええ、あなた」
良尚は苦しそうに顔をゆがめた。
「おまえには――世話になったな」
「何をおっしゃいます。あなた、弱気を出しちゃ駄目ですよ」
「ああ――おまえは強い女だ。あとを頼むぞ」
「いやですわ。あなたには、まだまだ長生きしていただかないと」
そこでふと京子は、先ほどの会話を思い出した。「それに――薫さんがおりますわ」
「ああ――あれは若いが、胆力のある男だ。あれならメディア21も任せられる」
夫の言葉に、京子はハッとした。では夫は、薫をメディア21の後継者にしようと決めているのだ。彼女はあえて確認した。
「薫さんを社長にするお積もりですか?」
「ああ、あれなら大丈夫だ――そろそろ――」
ふいに良尚は息を吸って、ゆっくりと吐き出した。それが彼の75年間の最後の呼吸となった。
その夜、今井京子は、自室に顧問弁護士の高村を呼び寄せた。
高村は色の白い、中背やや小太りぎみの男だった。年の頃は50代前半、大きく後退したおでこと銀縁めがねの彼は、几帳面で小心者の風貌をしていた。
彼は得意先の奥さまと、二人きりでいることを意識していた。部屋の中は、間接照明の淡い光に包まれて、大きなベッドがいやでも目に飛び込んでくる。そしていま、目の前には、高嶺の花のご婦人がいた。彼が密かにあこがれを抱いている女性だった。真紅のガウンをゆったりと着て、その体からは、高価な香水がかすかに漂っていた。
「夫の遺言状をもってきましたか?」
「ええ。でも、お電話でお話しましたように、今夜は封を開けることができません」
高村はまぶしそうに婦人を見て、うわずった声で言った。
「そう――いつ封を開けることができます?」
「亡くなられたご主人さまのご葬儀のあとに。親族の皆さまが集まられた前で――」
「私は遺言状の内容を存じております。夫が亡くなる前に、うかがいましたから」
彼女は、弁護士の顔をまっすぐに見た。眼鏡の奥で二重まぶたの小さな目が、臆病そうに彼女を見返した。
「夫はいまわの際に、その遺言状に書かれたことを、変更したいと申しておりました」
高村は、奥さまが何を言い出すのかと、落ち着きなく尻をもぞもぞとさせた。
「ですから、その遺言状は無効です」と京子が言った。
高村はあわてた。
「それは無理です、奥さま。私はご主人に、何も聞いておりません」
彼女は婉然と微笑んだ。
「では今、お聞かせしますわ」
彼女は暑そうに、ガウンの襟元をすこし広げた。高村は、婦人の艶めかしい仕種に、ごくりと生唾を飲みこんだ。
「お、奥さまにお聞きしましても、私には――なんともできません」
高村は、舌先でしきりに唇を湿らせながら言った。広いおでこに、汗がにじんでいた。丸みをおびた頬やあごも、乳白色のなめらかな肌に朱がさしている。
「いいえ、あなたは遺言状を作り直すことができます。でもその前に――ちょっと休憩しましょう」
京子は弁護士の顔をまっすぐに見ながら、ゆっくりと立ち上がった。小心者の高村は、身動きもできずに、婦人の姿を見守った。婦人が横に座ったとき、彼は喉の渇きを覚えた。小ぢんまりとした口がかすかに震えていた。
京子は男の膝に手を置き、そっと撫でた。
「おお――いけません、奥さま――」
高村は膝を閉じて、婦人の手から身を守ろうとした。かまわず京子は、弁護士の太腿の内側に手をずらせた。ズボンの黒い布地伝いに、しなやかな指がすべった。その指が、太腿の付け根に達したとき、高村がくぐもったあえぎ声をあげた。
「あら、お元気なこと」
京子は、ズボンの前の膨らみを指でなどりながら、ため息のように悩ましい声でささやいた。膨らみがにわかに隆起して、彼女の指先に弾力を伝えた。
「さあ、私に恥をかかせないで――」
京子は立ち上がった。それからゆっくりと、ガウンの紐をほどいた。ガウンの下には何も着ていなかった。高村の目の前に、雪のように白い肢体がさらけだされた。
夫人は高村に歩み寄ると、彼の後頭部に両手を沿わせた。
「奥さま!」
高村はうめくように言って、夫人の裸体にしがみついた。
――◇――
今井良尚の社葬は水曜日に行われた。日本財界の大物の葬式だけに、弔問客は引きもきらずに続いた。平和銀行、メディア21ほか、故人が役員をしていた会社の関係者が、葬儀の運営を執り行っていた。
その中で、喪主の今井京子は二人の娘を従え、毅然とした態度で式に参列していた。黒い喪服姿の彼女は、すこし蒼ざめていたが、息を呑むほど美しかった。彼女と長女の尚子は気丈にも、涙を見せていなかったが、次女の早紀の姿は、見ていて痛々しいほどだった。彼女は憔悴しきって、いかにもはかなげに見えた。
荘重な雰囲気の中で、葬儀は粛々として行われた。それとはまったく対照的に、葬儀会場の外では、報道陣やカメラマンで騒然としていた。
その日の夕方、今井家の関係者たちは屋敷に集まった。今井京子とその娘たち、故人の甥の今井義彦、メディア21の藤田社長、平和銀行の若井頭取、アスカビル社長の神山薫とその父親の神山一郎。別居中の薫と尚子は意識して離れていた。
一同が部屋に集まると、京子が前に進み出て、皆の顔を見渡した。それから彼女は、落ち着き払った声で言った。
「本日はお疲れさまでした。おかげさまで今井の葬儀も、滞りなく終えることが出来ました。皆さまにお礼申し上げます。さて、こんな時ですが、わざわざ皆さまにお集まりいただいたのは、亡き今井の遺言を発表するためです」
そこで彼女は、部屋の隅にいる弁護士のほうを見た。
高村がおずおずと前に出て、鞄から封筒をとりだした。彼はごくりと唾を飲み込み、すこし上ずった声で話し出した。
「皆さま、ご愁傷さまです。私は、今井良尚さまが遺言状を作られたときに立ち会いました、弁護士の高村でございます。亡くなられた今井さまがご存命だったときのご意志により、本日、遺言を発表させていただきます」
彼は言葉を切ると、ペーパーナイフを取り出し、慎重な手つきで封を切った。中身を取り出すと、確認するように紙面を目読し、もったいぶって顔を上げた。
「今井良尚さまの遺言状は、後ほど皆さま方でお確かめください。その前に、私が要約してお伝えします」
彼は軽く咳をした。
「ご遺産は、奥さまが40パーセント、お二人の娘さまが20パーセントずつ、そしてお二人のお孫さまは10パーセントずつを相続されます。なお、神山薫さまと榊原剛さまに、メディア21の株券10万株ずつが遺贈されます」
それを聞いて、神山薫が驚いた表情をした。
次を発表するとき、高村の手はかすかに震えていた。奥さまの命令で、彼が改ざんした部分だった。
「それから、会社のことについても遺言を残されています。メディア21の社長は、奥さま――今井京子さまに託されております」
その場がざわめいた。メディア21の藤田社長と今井常務が、信じられないというように顔を見合わせた。当の今井京子も、当惑したように、弁護士を見ていた。
(なかなかお芝居がお上手ですな、奥さま)
夫人を横目で見ながら、高村は話をつづけた。
「藤田さまは会長として、奥さまを補佐するようにと書かれております。以上が、今井良尚さまの遺言状の概略です」
弁護士の話が終わると、京子が前に進み出た。彼女は気持ちを落ち着かせようとするように、冷静な口調で話し出した。
「私は、主人のいまわの際に、いま先生がおっしゃったことを、主人からうかがっておりました」
彼女はちらりと弁護士のほうを見た。「それにしても、主人が本当に遺言状で書いていたとは。ずいぶん唐突なお話で、私は迷っております。でも亡き主人の神聖な遺言です。不束者ですが、私は不可能に挑戦してみようと決心いたしました」
彼女は、藤田社長や、自分より年上の甥の今井義彦のほうを見て、婉然と微笑んだ。
「藤田さんや義彦さんも、私をお助けしてくださると信じていますわ」
藤田と今井義彦がうなずくのを見て、京子は娘たちのほうを見た。
「尚子、あなたは私のあとを継いで、銀座将美堂を見てちょうだい」
「喜んで、お母さま」
尚子が弾んだ声で言った。
「それから、早紀。あなたは私と一緒に、メディア21で働くのよ。あなたは事務が得意だから、経理か総務の仕事がいいかしら」
母親の言葉に、早紀が従順にうなずいた。