目 次
カンパニー(第1章 新会社設立) - (1)
(1)

鎌倉の鬱蒼とした緑を背景に、瀟洒な洋館風の建物が堂々と建っていた。純和風の建物が散在するなかで、その建物は不思議に周囲とマッチしていた。
建物の主、今井良尚は、なにを考えているのか奥底の知れない表情をして、床の間を背に座っていた。72歳、でっぷりと太って、その福々しい顔は皺ひとつない。艶やかな頬に二重あご、幅広の薄い唇が尊大そうな表情をつくっている。
彼は長いあいだ君臨してきた平和銀行頭取の座をしりぞいた後も、金融業界において、なお隠然たる影響力を持っていた。そしてまたメディア産業ではトップ企業『メディア21』の創業者の血を引く大株主でもあった。
そんな彼に対し、平和銀行の社員たちは、陰で『陛下』と呼んでいた。
今井から少し離れたところでは、17歳年下の妻、京子が静かに控えていた。中肉中背の肢体をすっきりとした和服で包み、黒髪色白の端正な顔やすんなりした襟足に、あでやかな熟女の色気がにじみ出ている。彼女は55歳になってもその容色は衰えを見せず、むしろ齢の積み重ねが、その妖艶さにますます磨きをかけているかのようであった。

今井夫妻の前には、その日、急遽呼ばれた3人の平和銀行幹部たちが、緊張した面持ちで対していた。
藤沢覚、大友昇、伊室洋平――いずれもダークスーツに白シャツ、地味なネクタイをして、いかにも生真面目そうな顔つきをしている。身上書をもとに、今井が慎重に選び抜いた男たちだ。さして目立ったところもなく、かと言って決して無能でもない――。それが彼の目的にかなう条件の男たちだった。
今井はこれまでの長い経験で知っていた――相手に有無を言わせず従わせるには、どうすればよいかを。まず不安、それから期待をもたせることだ。いま彼は、3人の男たちが何を言われるのか、と不安におののいているのを充分承知していながら、黙って彼らの顔をねめまわしていた。

ようやく今井は口を開いた。
「来春、新しい会社をつくる」
男たちの顔にとまどった表情が浮かび、会長の顔を見守った。そのさまを無表情に見ながら、今井は話をつづけた。
「そこで、きみたち3人にひと肌脱いでもらいたい」
しばしの沈黙のあと、藤沢が恐る恐る訊ねた。
「あのう――どのような会社を作られるのでしょうか?」
今井は藤沢の顔をじろりと見た。それからおもむろに言った。
「ビルの運営会社だ」
「でもそれなら平和興産が――」
「不動産会社が複数あったらまずいのか?」
藤沢に最後まで言わせず、今井はピシリと言った。
「い、いえ――そ、そのようなことはございませんが――」
藤沢はあわてて、口ごもった。
今井は話を進めた。
「きみたちも知ってのとおり、不良資産の処分は当行にとって大きな課題だ。しかし、なにも処分するだけが能じゃない。ときにはプラス思考も必要だ」
今井は、彼の言葉を理解しているのか確かめるように、3人の顔を見渡した。「つまり不良資産を、もうけを生み出す資産に変えることだ。どうだね?」
今井に問いかけられて、3人は分かったような分からないような表情をしていた。
「伊室」
ふいに今井は、伊室に呼びかけた。
「はいっ!」
伊室が、ばね仕掛けの人形のように、姿勢を正した。
「新会社には、きみの知識と経験が必要なんだ」
まだ会長の言っていることが呑み込めずに、伊室はとまどった表情を浮かべていた。
今井は座椅子のなかで、大きくふんぞり返った。「きみのビル建設の知識がね」
それから彼は、生徒に言い聞かせるように説明を始めた。
「遊休土地を活用して賃貸ビルを建てるんだ。新たに金をつぎ込むことになるが、毒をもって毒を制するということもある。それに既存の不動産子会社は、当行の営業店舗ビルの運営が主体だが、これから作る会社は一般企業のテナント向けだ」
そう言うと今井は、床の間の置き時計をちらりと見て、横にひかえている妻に視線を移した。

京子が夫の意図を察して、そっとうなずくと部屋を出ていった。
「じつは、きみたちに会わせたい人物を呼んでいる。少し遅れているようだが」
今井は眉をひそめた。「神山薫だ。彼を新会社の社長に予定している」
それを聞いて、表向きは平静を装っていたが、3人の頭の中で、にわかに驚きと不安が渦巻きだした。彼らは直接本人との面識はなかったが、神山薫という人物のうわさについては耳にしていた。
神山グループの創始者直系の御曹司で、つい昨年亡くなった元頭取を祖父に持ち、父親は大手商社の社長をやっている。
そんな名家の血筋をひいていながら、神山薫は数々の奇行で知られていた。
社内旅行の宴席で裸踊りをやったり、部下苛めをしていると上役の部長を引っ叩いたり、社内の式典で挨拶をしていた重役の話が冗長すぎると一喝したり、とにかく数え上げたらきりがないくらいだ。
そんな神山家のぼんぼんが、わずか5年で平和銀行をやめたときは、銀行の幹部たちがどれほどホッとしたことか。その後、彼はアメリカに渡ったという噂だった。
――その男が、再び戻ってくるのだ。
神山薫と今後、直接関わることになった3人は、暗澹とした気持ちでそれぞれの思いにひたっていた。

京子が部屋に戻ってきて、夫に耳打ちした。
「なにいっ!今日は来れないだと」
今井が大声をあげた。
その声に、自分たちが叱られたわけでもないのに、3人はすくみあがった。
「それで、今どこにいるんだ?」
「それが――」
京子は言いよどんだ。「これから成田に向かうところですって。あのう――なんでも急用が出来て、ニューヨークに行かなければならないと言ってましたわ」
「なにい――」
今井は、うなったきり、黙り込んだ。

帰りの電車の中で、藤沢たち3人は精神的に疲れきって、口を利くのもおっくうだった。
「結局、私らはリストラ組ってところか――」
藤沢がポツリと言った。
プライドの高い伊室が、太った体をぴくりとさせた。技術畑の彼は、銀行店舗の新築や改装を担当していた。これまで全国の都市に出張して、さまざまの建築にかかわってきたのだ。彼は藤沢に質問した。
「取締役、どうしてそう思われるのですか?」
「だってそうだろう。この歳になって子会社に行くんだぞ」
「だけど会長は、私たちに一肌脱いでもらいたいと頼まれたのですよ」
伊室は食い下がった。
対する藤沢は、辛辣に言った。
「それに、いずれは平和銀行に戻す、ともおっしゃらなかった」
「でも――」
伊室は納得がいかなかった。平和銀行は、彼がいなければ困るはずだ。彼は藁をもすがる思いで、同僚にたずねた。
「大友部長はどう思われますか?」
大友がそっけなく答えた。
「私も藤沢取締役と同意見ですな。首にならなかっただけ、よしとしなくちゃあ」
伊室は絶句した。そのあと俯いて、考え込んでしまった。

3人の男たちが帰った後、今井は妻のマッサージに、心地良さそうにあくびをした。
「尚子はまだ、薫と別居しているのか?」
京子は夫の丸っこい肩を揉みながら、しっとりとした口調で答えた。
「ええ――二人は当分、よりを戻しそうにありませんわ」
「しょうのない奴らだ。それで、子供たちはどうしてる?」
「尚子と一緒に暮らしています」
「しかし、尚子はおまえの店で働いているんじゃなかったのか?」
「ええ、昼間は乳母が子供たちの世話をしていますわ」
「子供たちは――父親がいなくて、寂しくないのか?」
「さあ、どうでしょうか。尚子は何も言ってませんが」
「まあ、いい。あの男に親心があるとも思えんし――尚子に任せておこう」
今井は妻のマッサージに身を委ねた。そのうち彼は、うつらうつらしだした。
京子はベッドを整えると、夫をうながして横にならせた。彼女は夫の寝顔を見ながら、しばし物思いにひたった。

京子は今井良尚に見初められたとき、メディア21の秘書室で働いていた。その頃の彼女は、居並ぶ女子社員の中でも、ひときわ異彩を放っていた。均整のとれた肉体に端正な顔立ち、切れ長の目が色っぽく、妙に男心をくすぐった。しかもすごく頭が切れて、機転のきく女性だった。
当然のことに、彼女に言い寄る男たちは多かった。しかし彼女はかたくなに男たちを拒みつづけた。彼女は25歳にして、まだ男を知らなかった。
実はある男性に密かな想いを寄せていた。その男の名前は神山一郎。財閥として有名な、神山一族の御曹司だった。
神山は商社に勤めていたが、父親同士の縁でメディア21を訪れることがあった。すらりとした長身で、彫りの深い男前だった。しかも明るくて精力的で、彼の周りには、まるでオーラが放散されているかのようだった。
京子は自分の想いが、到底かなわぬものだと知っていた。すでに神山一郎は妻帯者だったからだ。それでも会社を訪れた彼の姿を見るたびに、いつも胸をときめかせていた。

そんなとき、今井良尚が現れた。今井はメディア21の創始者の息子だが、平和銀行に勤めていた。彼はたまたま父親を訪ねて来たとき、応対に出た京子に一目惚れした。
京子はデートに誘われたとき、今井良尚が42歳で、妻に先立たれた独身男だということを知っていた。しかも、彼女が想像もできないような資産家だった。
彼女は今井に対してあまり興味が湧かなかった。そのころの今井は、すでに中年太りが始まっていて、お世辞にも男前とは言えなかった。彼女が思いを寄せる神山一郎とは、雲泥の差だったのだ。
しかし今井は、強引な男だった。彼は社長の息子という立場を利用して、彼女をデートに付き合わせた。二人は帝国ホテルで豪勢な夕食をとり、そのあとホテル内のバーで酒を飲んだ。彼女は早く帰りたい気持ちを押し隠して、この御曹司に付き合った。誘われるままに、慣れぬ酒も飲んだ。
そして気がついたときには、ホテルの一室で、半ば強引に体を奪われていた。今井は、彼女のぬめるような肌と張りのある肉体に狂喜した。そしてすべてが終わったとき、処女の証しを見て感激した。

二人は半年と経たずに結婚した。そのうち、今井に魅力を感じていなかった京子も、じょじょに彼を認めるようになっていた。
今井は、肉体的には風采の上がらない中年男だが、人の上に立つ才覚の持ち主だった。
権力にあこがれを持っていた彼女は、いつしか夫を敬うようになっていた。17歳も年の離れた二人の生活は、夫婦というより、上司と秘書のような関係だった。夜の交わりも淡白なものだった。それでも京子は満足していた。
年の離れた夫は、ときどき寝物語に、会社組織内の権力争いや、しのぎを削る駆け引きを話してくれた。取り引き先との商談、部下の使い方、政治家との付き合い――。
夫の話すことは、彼女の知識欲を満たし、権力欲を増大させた。彼女は夫の話を聞いているとき、夫と同化して、自分が組織の中で采配を揮っているかのような気分になった。
しかし、それは彼女の想像の世界だった。日常生活での彼女は、夫に従順に仕え、二人の娘を産んだ。
そして子育てが終わったとき、彼女の事業欲を見抜いていた今井は、個人的に経営していた、銀座にあるこぢんまりとした宝飾店を彼女に任せた。

店の経営を任された京子は、にわかに生き生きとしてきた。彼女は暖めていた経営知識をフル回転させて、仕事に熱中した。そして彼女には商才があった。京子は夫の持つ人脈を利用して、顧客を増やしていった。
その間、今井は彼女にいっさい口出しせず、面白そうに見守っていた。やがて10年後には、店の売り上げは飛躍的に拡大し、銀座でも一流の宝飾店になっていた。
長女の尚子が神山薫と結婚したとき、京子は複雑な心境だった。新郎の父親は、彼女がかつて密かに思いを寄せていた人物だったからだ。義理の息子は、父親の面影を色濃く受け継いでいた。背が高く、彫りの深い顔立ち――しかも、内面からにじみ出るような、男の覇気を漂わせていた。
彼女は運命を感じるとともに、神山親子に危険なものを感じていた。彼らとの絆が深くなれば、自分の気持ちがどう揺れ動くか自信が持てなかった。
彼女は、夫を裏切りたくなかった。
そこで意識して、神山一族とはあまり近づきにならなかった。それは神山一郎の妻が急逝したあとも、また、娘夫婦の仲が悪くなって別居したときも、変わらなかった。
[19/01/04 07:02 神亀]
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