営みの章

最も長生きした人間とは、最も年を経た人間のことではない。
最も人生を楽しんだ人間のことである。――ルソー
(1)告解
神戸は六甲山の麓、住吉川の畔に、鬱蒼とした樹木に覆われた、青いタイル屋根の教会が建っていた。漆喰塗りの外壁には蔦がからまり、歴史の滲み込んだ古い建物だが、手入れが良くいきとどいている。
神父は小柄な老人で、名前を神谷清児といった。69歳になるが、健康状態はすこぶる良かった。見るからにおっとりとして、穏やかな風貌をしている。
神谷は若い頃、ヨーロッパ放浪の旅をして、その後、神学校に通って聖職者を目指した。その彼がこのキリスト教会に来て、すでに30年を超えている。
幸いここでは、敬虔な信者たちに恵まれていた。
教会の裏には居住部分があり、神谷神父のほかに、下村芳実という初老の助手が住んでいる。彼も教区民だったが、家族を亡くして独り身になったとき、住み込みで奉仕活動をするようになったのだ。
この教会にやってくる信者の中にふたりの男女が加わったのは、側を流れる住吉川の冷たい水が緩んできた春先のことである。
香月佳代は20代の女性で、まだ幼さの残る清楚な顔をして、小柄だが若々しい健康的な体つきをしている。
いっぽうの高山秀樹は40代後半、人生の重みを背負ってきたような孤独な陰があるが、古風なタイプの男前である。
神谷神父は、佳代を、教会で奉仕活動をする女性たちのひとりに加えた。彼女は、聖堂の掃除をしたり、花をかえたり、こまごまとした雑事を喜んでやるようになった。
秀樹のほうは、建物修理や庭の手入れなどの手伝いをしていたが、そのうち神父に同行して、恵まれない老人や病人を訪ね、はては聖歌隊の一員にもなっていた。
老神父はこの新しい教区民たちに感銘を受け、どういう素性の人物なのか知ろうとした。
やがて、佳代のほうはスナックのママをやっていることが分かった。
教会に通ってくる男たちの中には、そのスナックの客も何人かいた。佳代のことを尋ねてみると、彼らはなんとなく奇妙な笑みを浮かべ、ひどく慎重な答えかたをした。
その話によれば、彼女はおとなしそうに見えるが、かなり奔放な性格をしている、ということだった。それは神父にとって、意外な返答だった。
高山秀樹のほうは、定職がないということはわかったが、それ以上のことを知っている者はいなかった。
ある日、後藤という既婚女性が会いにきた。神谷神父は、彼女やその夫の顔を覚えていたが、それまで親しく言葉を交わしたことがなかった。夫婦はともに50歳を過ぎ、日曜日には規則正しく教会へ通って来ていたし、教会への寄付も毎回欠かさず行う、善良な信徒たちだった。
だが、この雨模様の昼間、後藤夫人はただならぬ様子だった。
神谷は近くにいた下村芳実に目配せした。助手が立ち去ると、彼はおもむろに婦人のほうに向き直った。
「そのう――奥さん」
「後藤です、神父さま」
「ああ、そうでした。後藤夫人、わたしに何かお話でも?」
神谷の声はやさしく、おだやかだった。礼拝時間の後にやってきたこの女性が、今にも起こしそうな感情の爆発を必死でこらえている様子は、肌で感じていた。
答える婦人の声は、かすかに震えていた。
「主人のことなのです、神父さま。あの人は――」
急に感情が昂ぶったのか、婦人はバッグの中をかきまわして、ハンカチをとりだした。
(早すぎる――)と神父は思った。
話す前にこんなに早く涙を見せるとは、ずいぶん我慢に我慢を重ねてきたのだろう。
(たいてい涙の堰が切れるのは、話の半ばあたりまで来てだが――)
神谷神父は、小さく溜め息をついた。これまでずいぶん聞かされた、よくある話のようだった。夫は浮気をしているのか、それとも女房にうんざりしてきたのか、バーで酒をひっかけ、家に帰れば帰ったで怒鳴り散らす――そんな類のことなのだ。
こうした哀れな女たちを、なんと慰めたらよいのだろう?
せめて神に祈ること、それがこの世の試練に耐える助けになる――くらいのことである。
「さあ、奥さん、腰掛けて――気分を落ち着けて、お話しなさるがいい」
神谷は夫人の腕をとると、奥まったところにある囲い席のほうへ導いた。椅子に腰を落ち着けると、後藤夫人はやっと体の震えを抑えることができたようだ。
「わたしの主人が――あの人が、ほかの女にうつつをぬかして――」
神谷神父は、気を静めさせようと彼女の肩に手を置いて、涙がおさまるのを待った。
「――スナックで働いている女なのです、神父さま」
彼女は言葉をつづけた。細い顔が涙に濡れている。「もう何か月も前からです。毎週金曜日、主人はきまって女の店に行って、その夜は家に帰ってこないんです。問いただしますと、主人は黙り込んで、何も答えてくれないんです」
彼女はしばし言葉を切った。
「ところが、主人ときたら、近頃は少しも気にかけなくなったのです、神父さま。だから困っているんです。わたしに知られても、ぜんぜん問題にしていません。あんなに小心者だった主人が、すっかり開き直っているんです。――どうしたらいいのか分かりません。神父さま、どうしたらいいんでしょうか?」
「まず、ご自分が落ちつかれることですよ、奥さん」
神谷は、彼女を励まそうとした。
「男というものはたいてい、一生の間に一度や二度、そんな時期があるのです。でも取るに足りません。ご主人は間違いなく、あなたのもとに戻ってくるでしょう。落ち着いて見守っていてごらんなさい。そうすれば、あなたたちは、以前にも増して、強い絆で結ばれますよ。だから勇気を持つのです」
神父は言葉をきった。ここで実際的にならなければいけない。「その女性の名前を知っていますか?機会があればわたしから、その女性に話してみましょう」
泣きながら夫人の言った女の名前を、神谷神父はきちんと聞いたのか確信がなかった。
たしか――香月佳代と聞きとれたのだ。
――*――
もうすぐ70歳になる神谷神父は、呆気にとられていた。
土曜日の夕方、告解の時間がおわったばかりで、いま彼は、礼拝堂のわきの告解室に、ひとりポツンとすわっていた。
香月佳代が月に一度の告解にやってきた。そして、いつものようにいくつかの微罪を懺悔しおわると、神谷は後藤慎二のことを彼女に問い質した。
佳代は、否定しようとすらしなかったばかりか、後藤との情事について、きわめてあからさまに話したのだ。
今まで告白しなかった理由をたずねると、彼女は、その必要がどこにあるのか、と切り返した。別にいけないことではないでしょう、と。
神谷神父は、信じられない思いだった。この哀れな女は、自分がどんな罪を犯しているのか本当に知らないのだ。まったく問題ないと思いこんでいるのだ。
さらに質問を続けていくうちに、この女性の正気を疑いはじめた。彼女はほかの男たちとの情事を、あますところなく話したのだ。
神父はあまりのショックに言葉を失った。考える時間が必要だった。
そこで彼は、佳代に向かって、「そろそろ家に帰りなさい。でも明日、礼拝の前にやって来なさい」と言った。
だが、彼に何ができるだろう?
その夜、寝るまでのほとんどを、神谷神父は祈りで過ごした。若い世間知らずの女を、魂を汚す運命から救えますようお導きください、と祈りつづけた。
しかし、祈りながらも、彼の心の片隅では、遠い昔の自分の犯した罪を悔いていた。
彼のせいで、ひとりの若い女性を自殺未遂に追いやった。しかも彼自身、男娼のように外国の男たちに身を任せたのだ。
その後も神谷神父は、佳代がしていることの間違っている理由を、辛抱強く説明した。
この世界でただひとりの男性を見つけて、愛し合い、結婚し、神聖な愛の結合によって子供をもうける、というのであれば悪くない。だが彼女の身内にわだかまる、あくなき性欲を満足させるために、誰にでも大切な肉体を与えるのは、いけないことである。それは彼女の内に住みたまう、御霊を滅ぼしてしまうことなのだ、と。
佳代は、神父の一言ひとことを敬虔な態度で聞いていた。しかし、心の中ではクスクスと笑っていた。
――反抗心のせいではなかった。
(神父さまは、わたしがたくさんの男と寝たので病気を心配しているのだわ。でもだいじょうぶ、今のわたしは、ひとりの男でじゅうぶん満足しているんだから――それも本物の男に)
神谷神父は言葉をつづけた。彼女がひき起こしかねない後藤の家庭の崩壊について話し、彼女自身にとっても不幸を招くだけで、いかに惨めなことであるかを説いた。
――だが、無駄だった。
彼の説教を聞いている彼女の表情は、罪の意識など微塵も感じさせず、ただただ無邪気なほど明るいだけだった。
神谷は佳代のことを、他人ごととは思えなかった。どう見ても彼女は、今まで彼が思っていたとおりの、純真で、素直な性格をした若い女性に変わりなかった。
しかし――まるで彼女の頭の一画が扉で閉ざされていて、どんな理屈も入り込むのを拒んでいるかのようだった。
とうとう礼拝の時間がやってきて、神谷神父の話は、中途半端に打ち切られた。
神父は、佳代のことで頭を悩ませ続けたが、解決策はいっこうに浮かばなかった。彼女と後藤慎二の仲はまだ続いているようだった。後藤夫人は面会に来て以降、教会にも来なくなった。
神父は、どうもがいても抜け出せない、クモの巣につかまったような気がしていた。
そんな彼にも、唯一の楽しみがあった。もうひとりの信者、高山秀樹が、住み込みの助手として働きたいと申し出たのだ。
それは人手の足りない教会にとって、願ってもない話だった。その結果、高山秀樹は、神父の部屋の隣に居住する、助手の下村芳実と同居させることにした。
日が経つにつれ神谷神父は、この40代後半のもの静かな男が、すっかり気に入った。女性たちに騒がれそうな端正な顔をしているが、なんの驕りも浮ついたところもない。口数は少ないが、深い知識に裏づけされた落ち着きを感じさせる。
毎日の食事の用意から掃除、洗濯。秀樹は、同じ部屋に住む年配の助手と協力しあって、かいがいしく働いていた。
じっさい、彼らはとてもウマがあうようだった。経験を積み重ねた中年男と、心身ともに穏やかな初老男――ふたりには、年齢をこえた心の交流があるようだ。
神谷神父は日曜日の朝、会衆を前に説教をしながら、そっと中年の助手のほうを見た。
高山秀樹は祭壇のわきに立ち、熱心に神父の話に聞き入っている。
その様子を見て、神谷は心が高揚するのを感じた。彼に心酔した助手の姿を見るのは、心地よかった。
神父として30数年、今では自分の声に与えうる微妙な抑揚の変化や、教区民に訴えなければならないタイミングを心得ていた。
説話をどのように進めていくか。いつ、どこで、声を囁きに近く和らげるか、やがて声を高めて感動的なクライマックスへもっていくか。意識しなくても自然に出来た。
齢69歳にして、神谷は人間性に絶望しているわけではなかった。どんな悪人にも良いところはあるものだ。逆に、きわめて信心深い人間にも偽善者がいるように――。
だが、ときどき――会衆のなかで白い歯がひかった――。
香月佳代が、無邪気な笑みをうかべて彼を見ていた。一瞬、神父はどぎまぎしたが、気をもちなおして、説話を姦淫の罪に切り替えた。
夕方、神谷神父のもとに高山秀樹がやってきて、「隠していたことがある、すべて告白したい」と言いだした。
告解室の薄闇で間近にみる中年男の顔は、老人の神谷でさえ、おもわず胸の動悸を覚えるほど魅力的だった。
助手の告白が進むにつれ、神谷は胸のうちで驚いた。
(――なんとしたことだ!)
まさか自分が信頼を寄せていた助手が、同性愛者だったとは。これで、彼の悩みはもうひとつ増えることとなった。
しかし、この男には救いがあった。それは、本人がすくなくとも、同性愛を罪悪と認識していることだった。
「自分でもどうしようもないんです。忘れようと思っても、今でもときどき――」
涙で濡れた目が神谷の顔を見た。その瞳には、深い苦悩が色濃く滲み出ている。
「落ち着きなさい。この種のことは、すぐに解決できる問題ではない。今日からきみの問題は、わたしの問題でもある。ふたりで、焦らずにじっくりと解決していこう」
神谷神父は助手の手を取ると、そっと両手の掌で挟み、勇気づけるように微笑みかけた。