目 次
あけぼの町物語(前編) - 第1章 馬と大福(1)
(1)

高瀬川沿いの道を歩いていた間原達雄は、ふと足をとめた。
3メートルほど下の清流に、年老いた男が手網を持って入っている。麦藁帽子に半袖シャツ、半ズボンから突き出た足の白さが目に染みる。
岸辺に小さな男の子がいるところを見ると、小魚採りに興じる祖父と孫だろう。
老人の愛嬌のある小太りの姿が、自然に達雄の笑みを誘う。
少し休憩することにした。背中のリュックをおろすと、サイドポケットから麦茶のペットボトルを取り出した。
喉を潤しながら、昨夜の宿とした大町温泉郷のほうを振り返る。緑の中に点在する、赤い屋根の建物群が見て取れる。
上に目を転じると、大きく迫る蓮華岳、その右手に爺ヶ岳の雄姿がある。
北アルプス山麓の雄大な自然に抱かれた、清浄な空気と緑あふれる地であった。
達雄は首にぶら下げた一眼レフのカメラを手に取ると、周囲の風物を撮影しだした。
ついで、川にいる老人と子供の姿も、カメラに収めた。
大自然に囲まれて、充実した気分だった。なにか体の内側から、ふつふつとした精気が滲みだしてくるようだ。
癌の再発により療養中の身であったが、こんなに気分の良いのは久しぶりだった。
昨日の太鼓の音が、まだ耳に残っている。大町温泉に行く途中、ふと立ち寄った歴史のある若一王子神社――。ちょうど例祭の日で、装束姿の男たちが、太鼓を奉納する場面に出くわした。
太鼓の音は、人間の原始的な本能を蘇らせる。
達雄も同様だった。あのとき勇壮な太鼓の音を聞いていて、性衝動にも似た高揚感を覚えたのだ。

達雄は気を取り直すと、リュックを背にしょって、歩き始めた。今日は里山の風景を撮りながら、信濃大町駅まで行く予定だった。
道ですれ違った中年女性の二人が、達雄の顔を見て、思わずクスッとした表情を浮かべて歩き去った。それは達雄にとって、見慣れた仕草だった。
それほど彼の顔には特徴があった。
とにかく長いのである。目やまゆ毛、鼻、口、ひとつひとつを見れば、親しみの湧く、なごやかな造作だった。それが長い顔のなかに配置されると、なんとも間延びした――と言うか、見事な馬面になるのだ。
長いのは顔だけではなかった。そのことを知る友人たちは、達雄の顔を見ると、いつもにやけた笑みを浮かべて、そっとズボンの前を見やるのだ。
高校生のときなどは、口さがない級友たちに、馬とか末端肥大症とか呼ばれていた。
体は小柄だが、顔とあそこは長い。そのアンバランスな姿形を見た人間は、どうしても隠し笑いで見過ごすしかないようだ。
達雄は、女性とはずっと縁が無く、52歳になった現在も独身である。別に、性的欠陥があるわけではなかった。いやむしろ、ありあまる精力をもてあましていた。

達雄が30代半ばのときだった。ふらりと立ち寄ったスナックで、ひとりの老人が声をかけてきた。
祖父に似た穏やかな顔や優しい声音――。
達雄はいつしか老人に親近感を覚えて、問わず語りに身の上話を始めていた。
――子供のとき、ふらっといなくなった母親。酒癖の悪かった父親。子供時代の達雄は、父親に殴られた記憶しかない。彼の我慢強くてめげない性格は、そんな環境の中で出来あがった。唯一の救いは、父方の祖父が親代わりに面倒を見てくれたことだった。祖父は、ひ弱だった孫を丈夫に育てようと、合気道を教えてくれた――。
老人は穏やかな笑みを浮かべて、辛抱強く達雄の話を聞いていた。そして達雄の気持ちが落ち着いたのを見計らって、そっと手を握って言った。
「今夜は、私の家に泊まりなさい」

その夜、老人の家で、達雄は初めて男の世界を知った。
湿った温もりと極上の柔らか味だった。
達雄は老人の熟練の技に翻弄され、快楽の絶頂をさまよった。
しかし、すっかり終わったとき、意識朦朧としていたのは老人のほうだった。
老人は正気に戻ると、達雄の並外れた力を説明した。
そして達雄は、自分の自慢となるものを知った。これまで自分には、何の取り柄もないとあきらめていた人生の中で、初めて生きがいを見出したのだ。
彼は老人と付き合うことで、性技に磨きをかけていった。そして、その種の発展場に通って、付き合う相手の枠を広げていった。
これまでは、女にもてなかった達雄だが、男の世界では良くもてた。とくに老境に入った男たちからは、引っ張りだこだった。
度重なる老人たちとの交合で、彼の浅黒い肌に艶が出てきた。地味な性格をした冴えない男が、精力的な男に変身したのだ。

しかし精力を謳歌したのは、48歳までだった。
肺癌の手術で、片肺の半分を切除したのだ。
術後は順調で、一週間足らずで退院できた。その後は定期的に病院へ通って、癌細胞が他に転移していないか、検査を受けなければならなくなった。
激しい運動も禁止された。必然的に老人たちとの付き合いも、抑えざるを得なかった。
そして50歳の時、今度は喉に小さな癌細胞が見つかった。
放射線治療によって、今は小康状態だが、いつまた症状が悪化するか分からない。
それでも達雄は、めげない性格をしていた。
(――くよくよ考えたって仕方がない。今ある人生を精一杯、楽しもう)
彼は割り切っていた。そして現在の楽しみは、会社の休みを利用して、カメラを持って旅をすることだった。

高瀬川から離れて里道を歩いているときだった。行く手にぽつんと、藁葺き屋根の農家があった。
(水を貰ってお昼にするか)
達雄は、宿で用意してもらった握り飯を食べるつもりで、その農家に足を運んだ。
「ごめんください」
何度声をかけても、誰も出てこない。しかし入り口の引き戸は開いたままで、留守にしているとも思えない。
(ちょっと畑にでも出ているのかな)
達雄はリュックとカメラをおろすと、家の脇にある縁台の上に置いた。そこで空に向かって両手を突き出し、大きく伸びをした。
そのとき、裏手のほうで水を流す音がした。

達雄は音のしたほうに向かった。
農家の脇を通り抜けて、日陰から出たところで、目にした光景にハッと息をのんだ。
井戸端に全裸の男がタオルで体をぬぐっていた。こんな明るい日差しの中で、男のあからさまな裸体を見たのは初めてだった。
男は人目のない裏庭で、一人きりだと安心しきっているようだ。
顔はよく見えなかったが、白いものの目立つ薄い頭髪から、60を過ぎた年齢と思われた。背は低いが、ふっくらと肥えていた。胸や腹、尻は抜けるように色が白いのに、腕や首筋は小麦色に日焼けしている。その対比がますますエロチックな印象を強くした。
とくに肉付きの良い尻が、達雄の目を引いた。腰から臀部へと続く淡い窪み、ふくよかで弾力のある丸みを帯びたふたつの膨らみ――。
達雄が見ている前で、老人が腰を屈めた。尻の肉が盛り上がって、柔らかい狭間が露わになった。淡いピンクに色づいて、その中心部にひそむ菊座がはっきりと見えた。
唐突に、達雄の頭の中で何かが弾けた。
強烈な性衝動が、全身を突き抜けた。彼は後先考えず、老人に襲いかかった。

水原昌三は、何が何だか分からなかった。いきなり見知らぬ男がしがみ付いてきて、ムシロの上に押し倒されたかと思うと、乱暴に体をまさぐられた。
目の端に入った男は、自分よりも細い体つきだが、力ではかなわなかった。
昌三はなすすべもなく組み伏せられ、男の落花狼藉に耐えていた。
男は獣のような唸り声をあげて、彼の尻を開こうとしている。
突然、引き裂かれるような激痛が、尻の狭間に起こった。
「うわあっ!」
昌三は悲鳴をあげ、男から抜け出そうともがいた。
男はかまわず、なおも侵入してきて、あらたな激痛が襲った。
苦痛の涙で何も見えなかった。男の吐く荒い息遣いだけが聞こえた――。

昌三にとって幸いだったのは、たまたま家を訪ねて来たふたりの村人が、裏庭の異変に気付いたことだった。
村人のひとりが、昌三を犯している達雄の襟首をつかんで、引き離した。
達雄は反射的に、男を投げ飛ばした。鍛錬していなくても、身についた合気道は忘れていなかった。
「あっ、こいつ!」
もうひとりの男が達雄の腰にタックルをかけ、押し倒すと顔を殴った。
そこに、投げ飛ばされた男が加勢した。
ふたりがかりでは、かなわなかった。達雄は殴られ、蹴られ、防戦一方になった。
そのあと、下腹部だけを晒したみっともない格好で、後ろ手に縛られ、納屋の片隅に放り込まれた。

なんであんなことをしたのか――。
思い出すだけでも、身のすくむ思いだった。
達雄の暴行は、被害者の水原昌三の意思で、警察沙汰にはならなかった。しかし達雄は、軽蔑しきった村人たちの目つきが忘れられなかった。
示談交渉は、達雄に投げ飛ばされた、耕平という名の男を介して行われた。
結局、50万円の和解金で合意した。
達雄はじかに昌三に会って、ひとこと詫びを言いたかった。古い風習の残る村のことだ、相手はずいぶん気まずい思いをしているだろう。
しかし、仲介役の耕平は、本人がまだ動揺しているからと面会を断った。

たしかに昌三は、肩身の狭い思いをしていた。小さな村だったから、彼を救った耕平たちがちょっと口を滑らせただけで、うわさはあっという間に広がった。
昌三と顔を合わせた村人たちは、気まずそうに顔を反らすか、あるいは離れたところから好奇の目を向けている。
そんなある日、村の長老ふたりがやってきた。そして、さんざん油をしぼられた。
――男に襲われたのは不運だが、隙を見せた昌三にも責任がある。男が男に犯されるなど、村の恥と思え。今後、同様のことを迫ってくる男も出てくるかも知れん。身持ちには気を付けろ――云々。
おまけに、ほとぼりがさめてくると、耕平たちが昌三の不運を冗談のネタにした。
(あの男、顔は馬面だが、あそこも馬並だったな)
(しかし、50を過ぎて、元気のいい男だ)
(まあ、人間より馬に近いんじゃないのか)
昌三は隣人たちの話を聞いても、沈黙して耐えるしかなかった。

夜ひとりきりになると、女房の仏壇の前で考え事をすることが多くなった。
祖父母の代から続く農家だった。長男坊だが昌三と名付けられたのは、単にふたりの姉のあとに生まれたからだ。
子供時代の昌三は、色が白くふっくらとした体つきから、悪童たちに大福餅と呼ばれ、からかわれた。色の白いのは、京都から嫁に来た母親の血をひいていた。
彼は大人になっても、農業向きの頑丈な体にはならなかった。それを補うように、村長の遠縁にあたる体格の立派な女をあてがわれた。
加代は身長も体重も、昌三よりひとまわり大きかった。そして力も強かった。
昌三は彼女と一緒にいると、いつも自分の方が女になったような気持ちがした。
夫婦仲は良い方だったが、子供は出来なかった。そして皮肉なもので、昌三より頑丈な加代が、先にこの世を去っていった。
(この先、どうするのか?)
何度も自分に問いかけて、答えが見出せなかった。64歳になって、後継ぎもいない。
畑の手入れも、女房が死んで以来、滞りがちだった。
不思議なことに、彼を犯そうとした男に対しては、何の怒りも覚えなかった。あのとき受けた肛門の傷も、いつの間にか直っていた。
あの時の男の目――加害者なのに、妙にもの悲しい眼をしていた。子供のとき飼っていた子犬のような――。

翌年の春先、間原達雄は思い切って、水原昌三の家を訪れた。
彼の長い顔は特徴があるので、隠すのに苦労した。分厚いマフラーを首に巻きつけ、人目を避けるようにして村の道を歩いた。
昌三は家にいた。
達雄の顔を認めて、一瞬、ハッとしたように後退さった。
「怖がらないで。ずいぶん遅くなったけど、今日は謝りに来ました」
ぶっきらぼうな物言いだが、声に優しさが込められていた。
昌三は緊張を解いて、丁重に言った。
「どうぞ中にお入りになって。――女手はありませんが、お茶でも入れましょう」
達雄はどぎまぎした。あの時は興奮しすぎて、相手の顔をよく覚えていなかった。今よく見ると、小さな目や口元にそこはかとない品がある。それに加え、どことなく幼児のようなあどけなさが感じられて、庇護してやりたいと思うような顔立ちだった。
熱心に見つめられて、昌三の頬がほんのりと赤く染まった。
その夜、達雄は昌三の家に泊まった。

それから、1ヶ月後――。
昌三は農家を引き払って、東京にある達雄の家で生活することになった。
[17/02/03 20:01 神亀]
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