(2)
ドアを開けると、外から見た印象と違ってシックな内装だった。オークの鏡板張りの壁に重厚な木製カウンター。床も木製だが年季が入って黒くなり、材質が分からないほどだ。客が7、8人入れば満席になる小ぢんまりとした店だが、落ち着いた雰囲気があった。
先客は5人いた。いずれも老人と呼べる年頃の男たちだ。
「いらっしゃい。お客さん、ここは初めてですか?」
ボビーが空いた止まり木に腰をおろすと、カウンターの奥にいた白髪の老人が、にこやかに笑いかけた。白いカッターシャツに黒の蝶ネクタイ、粋で上品なバーテンダーだ。
「あ、初めてです。名前はボビー。よろしく」
ボビーが慌てて返事をすると、年配のバーテンダーはにっこりと笑った。白い歯並びがきれいで、惹きつけられるような笑顔だった。
ボビーはたちまちこのスマートなバーテンダーが気に入った。
「ボビー、こちらこそよろしく。私はケイ爺と呼んでください。何になさいますか?」
「ええっと、カナディアンクラブ。ロックで」
「ダブルですか?」
「ええ、それで結構です」
バーテンダーが再びにっこりとほほ笑んで、背後の棚からボトルを取り出し、慣れた手つきで飲み物を作った。
渡されたグラスを片手に、まず匂いを嗅いでみる。カナディアンクラブ独特の果物のような香りがした。それから、そっと口に含む。甘さもほどほど、あっさりした味わい。
スコッチのような重厚さはないが、ボビーはこの爽やかな味が好きだった。
このウィスキーは、ボビー自身は気付いていないが、彼の控えめで淡白な性格によく似ていた。
店に入ったときから、年配のゲイが集まるところではないかと感じていた。客は年老いた男性ばかりで、白髪のバーテンダーを含め、彼らの間にある種の親密な雰囲気があった。それに店の名前が『グランパ』ということや、ドアの脇に<メンズ・オンリー>と表札があったことも、それを裏付けるようだ。
ボビー自身はゲイではなかった。その彼がこの店に来たのは、サトシの残した謎の言葉が気になったからだ。
――いつかグランパという店に行ってごらん。ひょっとしたら、きみの新しい世界が開けるかも知れない――。
サトシのことを思うと、また喪失感が押し寄せてくる。彼が死んで半年が経つのに、この思いは今も変わらない。

20年前――。
アメリカから日本にやってきたボビーは、浅草のはずれにある2DKのアパートでサトシと同棲生活を始めた。
まず、サトシに連れられて、彼の伯父に会った。そこで簡単な面接試験を受け、英会話塾で働くことになった。
最初の1年間は、あっという間に過ぎた。彼は生徒たちに英会話を教えるかたわら、職場の同僚やサトシから日本語を習った。ごく普通に話していたブルックリン訛りの英語を、標準英語にするのも苦労した。日本とアメリカの生活習慣の違いにも戸惑った。
一歩一歩、あせらずに――それがサトシの口癖だった。
サトシはコンピューターのソフト開発の技師で、サラリーも結構良かった。それに対してボビーは薄給だったが、サトシの援助はできるだけ受けたくなかった。
彼は、ふたりが共同で負担すべき費用は、いつも厳正に折半を主張した。そのため、近くの料理店で皿洗いをやったり、下町の工場で下働きをやったり、種々雑多なパート仕事をやって、給料の不足分を補った。
ふたりが休みの日には、サトシに連れられて、関東一円のさまざまなところに出向いた。陶芸の郷で一日中、粘土をこねたり、園芸農園に行ってリンゴ狩りに興じたりした。夏は遠出して、海水浴にも行った。
食事も外食にたよらず、アパートで料理を作った。サトシとお揃いのエプロンを身につけ、調理台の前で一緒に作業をするのは、楽しいひと時だった。
これだけ仲が良くて、同じ屋根の下に住んでいながら、ふたりは肉体的なかかわりを持たなかった。ボビーが高校時代、ゲイ達に襲われた事件はサトシも知っていて、彼は努めてその種の話題をしないようにしていた。
それでもボビーは、サトシが自分を愛しているのに気付いていた。
ふと目覚めたとき、サトシがすぐ間近でこちらの顔を見つめていることがあった。まるでずっとボビーの寝顔を見続けていたように。
そして、ボビー自身もサトシが好きだった。それを強く実感するのは、サトシが出張で家を空けたときだった。ほんの2、3日のことだが、サトシのいない生活が、こんなに味気ないものかと驚くほどだった。
「おかわりはどうしますか?」
バーテンダーの声に、ボビーは我に返った。気付かないうちに、コップは空いていた。彼はあわてて言った。
「あ、同じものをもう一杯――」
どうも今日は、昔のことを思いだしてしまう。この店の雰囲気が、そんな気持ちにさせるのだろうか。彼は出されたおかわりをぼんやりと口に含んだ。
そんな客の様子を、老いたバーテンダーは物静かに見守っている。
5年前――
日本に来て15年が経過した頃だった。それまでの間、多少の波風は立ったが、ボビーとサトシの共同生活は続いていた。お互いのプライバシーを尊重する気配りや、たまに一緒に旅行する適度の刺激、そして料理など共同作業をしているときの一体感――。穏やかな時の流れの中で、ふたりはお互いへの愛情と信頼感を深めていった。
しかしこの頃から、サトシの元気がなくなってきた。食欲が減って、だるそうにしていた。そのことをボビーが訊いても、はっきりとした答えは返ってこなかった。
ふたりは共に50歳になり、この節目を記念して、ボビーはふたりだけのささやかな誕生会を用意した。
料理はサトシの好物のちり鍋にした。タラの切り身に椎茸と豆腐、それにネギ、白菜、春菊の葉物野菜をたっぷりと用意した。
ボビーの心尽しの料理に、サトシはなんとか食べようとするのだが、食欲が湧かないようだ。結局、大半はボビーが平らげた。
食後、ふたりはウィスキーの水割りで乾杯した。
「50歳に乾杯!」
ふたりは杯を合わせた。
「ぼくが日本に来て15年。今や50歳か――」
ボビーはしみじみとした口調で言った。そして何気ない調子で、旧来の友に聞いた。「サトシ、きみは結婚しないの?」
訊かれたサトシは複雑な表情をした。その顔を見て、ボビーは悪いことを聞いたかな、と思った。彼としては、一度も結婚歴のないサトシに、軽い気持ちで言っただけだった。
サトシはフッと微笑んだ。どことなく寂しげな表情だった。そして、質問には答えず、逆にボビーに訊いた。
「きみこそ、どうなんだい?」
「ぼくは一度、失敗してるから。女はもうこりごりだ」
ボビーは言ったあと、冗談めかして付け加えた。「それに、ぼくは今、結婚してるようなもんさ。――サトシとね」
サトシは嬉しそうな顔をした。
「それで、女房はどちらだい?」
「もちろん、ぼくさ」
ボビーは即座に答えた。「だってぼくは、気が小さいし、サトシのように金も稼いでいない」
「気が小さいわりには、ずいぶんお腹の大きな奥さんだな。妊娠9か月ってところか」
サトシが言って、そこでふたりは手を叩いて笑った。こんなに屈託なく笑い合えたのは、久しぶりだった。
その後、サトシの体調は悪化の一途をたどった。そして、HIV感染症に罹っていることが判明した。しかし彼は、多剤併用療法を続けながら、会社で働き続けた。
サトシに付き添って医者の話を聞いていたので、ボビーもHIV感染症に対する一定の知識は得ていた。現在の医学では、この感染症を根治することができないため、サトシは生涯、薬をのみ続けなければならないのだ。
薬事療法にもかかわらず、サトシの症状は悪化し、ついには仕事を止めざるを得なくなった。そしてエイズと呼ばれる免疫不全症状を現すようになった。嘔吐したり、意識がときどき薄れたりした。そのうえ悪いことに、胃に悪性腫瘍が見つかったのだ。
そして1年後――。
サトシは死の床で、ボビーに告白した。
ずっとボビーを愛していたこと。でも、気持ちを表に出せなくて悩んだこと。ボビーに隠して、複数の男性と性交渉を持ったこと。でも、エイズになったが、ゲイであったことに悔いは無い、と。
そして最後に、店の名刺をボビーに渡しながら言ったのだ。
「いつかグランパという店に行ってごらん。ひょっとしたら、きみの新しい世界が開けるかも知れないよ」