戻る / 目次 / 次へ

(4)支店長の失踪

翌日、和之はタクシーを呼んで、温泉宿から直接会社に向かった。
昨夜は、川勝会長に求められるままに、変態的な体位で何度も交わった。まったりとまとい付く感触を思い出して、ふたたび下腹部が熱くなってくる。
会社に着くと、ビルの入り口で大内運転手に出会った。大内は和之の顔を見て、何か言いたそうだった。
「大内さん、どうかしたの?」
「いえ、ちょっと気になって」
「なんだい」
「今朝、植田支店長を駅でお迎えした時、なんだかいつもとご様子が違って――そのう、なんて言うか、心ここにあらずって感じで」
「ふうん、で、支店長は会社に戻られてるの」
「ええ、こちらまでお送りしました」

支店長室に行くと、植田が机の中のものを片づけていた。
小腰を屈めた支店長の丸っこい尻を目で楽しみながら、和之は軽口をたたいた。
「支店長、東京から戻るそうそう、机の片付けですか。いい心がけです」
支店長は立ち上がると、ニコリともせずに、和之に向かって言った。
「ちょうどいいところに来た。きみに話があったのだ。さあ、ここに腰掛けておくれ」
彼は目の前の椅子を勧めた。
「支店長の椅子に?なんだか気持ち悪いな」
「なあに、遠慮することはない。私はここにするよ」
支店長は、いつも和之が定席にしている、支店長机の端っこによじ登って、ちょこんと腰かけた。
和之は少し考えていたが、肩をすくめて、小柄な老人の背中とひざ裏に手を添え、軽々と抱えあげると、支店長椅子の上におろした。
「やっぱりここは支店長が座ってください。お話を聞くにも、私が落ち着きませんから」
抵抗するかと思ったが、支店長は椅子に腰かけたまま、素直に話し始めた。

「じつは、きみにこの部屋を明け渡そうと思ってね。それで机を片付けていたんだ」
「ほーう、それはまたどうしてですか?」
何かの冗談だと思って、和之は面白そうに質問した。
「昨日、本社で、大野常務にお会いした。そのとき、きみに支店長職をバトンタッチすることが決まったんだ」
和之にとって、寝耳に水の話だった。彼はこれまで折に触れ大野常務に電話をして、状況報告をしていたが、そんなことは一言も聞いていない。
和之は、支店長に念を押した。
「支店長、大野常務は本当にそうおっしゃったのですか?」
叉次は答える前に、すこし躊躇した。
「いや、はっきりとはおっしゃらなかった。でも、常務のお考えはそうだ」
「どうして、常務の考えが分かるのですか?」
部長の質問に答える前に、叉次は、昨日の大野常務との会話を思い浮かべた。

 大野常務を前に、叉次が支店の状況を報告し、話題が吉田のことに及んだ時だった。
「ああ――吉田くんねえ――」
常務は少し動揺している様子だった。なにか叉次に隠し事をしているように感じた。そこで吉田の活躍ぶりを話しだすと、常務は目を細めて、いかにも嬉しそうに聞いていた。
その様子を見て、叉次は確信した。やはり常務は、自分の後任として、吉田を支店に送り込んだのだ。叉次は、もはや東北支店に自分の居場所が無くなったのを強く感じた。

そして今、叉次は吉田部長に向き直って、きっぱりとした口調で言った。
「常務はお優しい方だ。私に面と向かって、引退しろとは言われない。だけど、きみを高く評価されてるし、きみを支店長にしたいと思われているのは明白だ」
「だったら、支店長の勘違いです。常務がそんなことを――」
話す途中で、ドアがノックされ、女子社員が和之に、客の来訪を告げた。

客が帰ったあと、和之は支店長室に戻ったが、老人の姿は消えていた。社員に聞いても、行先は分からない。
仕方なく和之は、他の社員に聞かれないように、支店長室で東京の大野常務に電話した。
話を聞いて、常務は驚いたようだ。
「おい、そんな話はしてないぞ。植田くんには健康である限り、いつまでも支店長をつづけてもらいたいんだ。
それに、きみには、他にもやってもらいたい仕事が山ほどある。早くそちらに目途を立てて、本社に戻って来い。――あ、これは、きみと私だけの話だよ。一切、他言無用だ」
電話が終わったあと、ふと机上に置いてある携帯電話に気づいた。じゃあ支店長はすぐに戻ってくるんだろう、と思って和之は支店で待つことにした。

終業時刻になっても、支店長は戻ってこなかった。和之は心配になってきた。植田支店長の立ち寄りそうなところに電話を入れたり、大内の車に乗って社宅まで戻ってみたりもしたが、老人の姿はどこにもなかった。
そのうち空が暗くなってきたかと思うと、大粒の雨が降り始めた。
和之はお手上げといったように溜息をついて、運転席の大内に言った。
「いったい、どこに行ったんだろうな、うちの支店長は?」
大内も眉間を曇らせて考え込んでいる。ふと彼は、思い当ったように顔を上げた。
「ひょっとしたらお城のほうかも知れません。奥さまが亡くなられたとき、一日中、お城におられたことがありましたから」

ふたりはさっそく車で青葉城に向かった。雨の降りはますます強くなっていた。
城の坂道を上っているときだった。小さなあずま屋の下に、支店長の小柄な姿を見つけた。ずぶ濡れになり、両腕を胸の上で掻き合わせて、寒さに震えている。そのさまは、まるで迷子の子犬のようだった。
支店長はふたりの姿を認めると、健気にも無邪気な声で言った。
「やあ、ちょうどよかった。散歩してたら、急に降られちゃって」

支店長を社宅に連れ帰って、まず熱い風呂に入れた。大内はキッチンで調理をやりだした。家事に不調法な和之は、やることもなく、ワインをちびちびと飲んでいた。
まもなく支店長が風呂からあがって、パジャマ姿であらわれた。すっかり生気を取り戻して、頬がピンク色に輝いている。
「やあ、こんな恰好で失礼するよ」
支店長は照れくさそうに笑った。
老人の可愛らしいパジャマ姿を見て、和之は思わず抱きしめたくなる愛情を覚えたが、努めて冷静な口調で言った。
「それで、なんでまた、皆に黙って行方をくらませたのですか?」
そのとき大内が、湯気の立つスープを持ってきて、テーブルの上に置いた。
「さあ、暖かいスープを飲んでください。まずは腹ごしらえですよ」
彼は和之に向って、あまり支店長を詰問するなというサインを送った。

支店長は遠慮勝ちに腰かけると、すぐには手をつけず、スープ皿を見ながらつぶやいた。
「せっかくのお勧めだから、今夜だけお言葉に甘えるかな。もうこの家は、吉田くんがアルジだからね」
すっかりいじけてしまった老人の言葉に、和之は大内に目配せして、やれやれと言うように肩をすくめた。それから支店長に言った。
「じゃあ、私のゲストで結構ですから、冷めないうちにスープを召し上がってください」
よほど腹が減っていたのか、支店長はまたたくまにスープをたいらげた。大内がハムエッグと野菜サラダ、トーストを持ってきて、そのあと二人に気を利かせて、帰っていった。
和之は、支店長が食事をする間、大野常務との電話のやり取りを話そうとしたが、口外無用とくぎを刺されていたのを思い出して、簡潔に言った。
「明日もう一度、大野常務に電話をしてください。きっと支店長の勘違いです」
「その支店長と呼ぶのはやめてくれないかね。植田で結構だ。それに、私は絶対に勘違いをしていない」
「じゃあ、そういうことにしておきましょう。でも、今すぐ支店長交代では、時期が悪すぎます。まだ期の半ばですよ。みんなを不安にさせないためにも、今期末までは、支店長でいてください」
植田は少し考えていたが、納得いったようにうなずいた。
「そうかい、きみがそう言うんなら、来年3月まで、老骨に鞭打って頑張ってみるか」
「その意気です。ご本人は気付いていないようですが、支店社員は全員、植田支店長を頼りにしているんですよ」
和之の言葉に、支店長は嬉しそうに顔をほころばせた。

寝室で支店長を寝かしつけるとき、和之はベッドの端に腰掛けて少し話をした。
「支店長のお生まれは、東北なんですか」
「いや、私の故郷は九州の熊本だよ。実家は庄屋の家筋でね、今でも土地家屋をたくさん所有している」
「家業を継がなくても良かったのですか?」
「ああ、私は次男坊だから」
それから叉次は、ベッドに寝たまま、身の上話を始めた。
「父は私が7歳の時に死んだので、あまり記憶にないんだ。でも母が苦労していたのは知っている。実は父と母の結婚は、周囲に祝福されたものではなかった。父は、奉公に来ていた母を見染めて、親の反対を押し切って結婚したんだ」
なぜ植田支店長が身の上話を始めたのか、その真意は分からなかったが、和之は黙って聞いていた。
「母は貧農の出でね。子供の頃から子守り奉公に出されて苦労をし、結婚したあと、唯一の庇護者だった夫が早死にした。そのあとは、舅や姑からのいじめもあって、苦労の連続だったと思うよ。でも母は、死ぬまでそんなことは一言も口に出さなかった。口数は少ないが芯の強い人だった」
叉次は、ふっと溜息をついた。
「きみは『五木の子守唄』を知ってるかい。私が子供のころ、母がよく歌ってくれた」
「さあ、全部は知りませんけど――」
和之は、口ずさむように歌い出した。

 おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
  盆が早よくりゃ 早よもどる〜
 おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆
  よか衆ゃよか帯び よか着物〜
 おどんが打っ死んだときゃ 誰が泣ゃてくりゅか
  裏の松山ゃ せみが鳴く〜

これ以上は歌詞を知らなかった。支店長のほうを見ると、寝入っているようだ。まつ毛が涙で濡れている。その寝顔は、日頃の鎧を脱ぎ去って、無邪気な幼児のようだった。
和之は老人の可愛らしい寝顔を見ていて、自分を抑え切れなくなった。彼は手を伸ばして、老人の白い頭を撫でた。それから顔を近付け、なめらかな頬にそっと口づけした。
このまま布団にもぐり込んで、小さな体を抱き締めたい衝動に駆られた。
それをぐっと抑え、しばらく年配者の寝顔を見続けて、名残惜しそうに立ち上がった。照明を消し、「おやすみなさい」と小声で言うと、部屋から出て行った。
ドアの閉ざされた暗がりの中で、叉次が小さくつぶやいた。
「おやすみ――」

戻る / 目次 / 次へ

18/09/09 09:35 神亀

top / 感想

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b