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皇子町殺人事件(第3部) - (3)
(3)

愕然とする二人を残して、貴志は洞窟のなかを丹念に調べた。水溜りの端っこに、小さな隙間があった。水面から高さ30センチほど。幅は2メートル近くあった。水面がゆったりと動いて、その隙間の向こうに流れているのが分かった。
貴志は水のなかに足を踏み入れ、腰を屈めてその隙間を調べた。水の深さは50センチほど、上の空間を加えれば80センチほどの高さになる。寝そべるように通れば、抜けられそうだった。隙間の向こうから、水の音が聞こえていた。微かな音だったが、かなりの水量が流れているようだ。
そのとき、空気の流れを感じた。指の先を湿らせてみると、隙間にむかって風が流れているのがわかった。
「ここから、先に行けますよ」
貴志は、二人に声をかけた。兄弟が水に入って、貴志のところに来た。
「この先に行けば、きっと外に出られます。ほら、空気の流れを感じるでしょう。指を湿らせれば分かります」
ふたりが指先をなめて、空気中にかざした。
「たしかに風はあるな。しかし、こんな狭い隙間を、どうやってくぐるんだね?」
一郎が言って、自分の下腹を悲しげに見た。
「大丈夫です。這って進めば、お父さんだって充分通れますよ」
貴志は肩からロープを取った。
「まず先に、このロープを持ってぼくがくぐります。いざとなれば、ロープを引っ張ってやりますよ。あ、これは、お父さんが持っててください」
貴志は背中からリュックを外して、一郎に渡した。それから一郎の出っ張った腹を見ながら、英二に言った。
「先生は先に来てください。万一ってこともありますから。お父さんが突っかえて、動けなくなったらことだ」

貴志はロープを腰に巻きつけて、もう一端を一郎に渡した。それから右手にカンテラを持つと、水のなかで膝をつけて低い姿勢をとった。
水は驚くほど冷たかった。そのまま彼は、じりっじりっと岩の隙間を這い進んだ。
隙間は無限に続くかと思われた。
(このまま永遠に這い進むのでは――)
一瞬、ぞっとした。しかし実際には、4、5メートルほど進むと、岩の天井がふいになくなった。彼は、立っていられるほどの洞穴に出ていた。先のほうから、水の音がはっきりと聞こえてきた。
腰に巻き付けたロープをほどくと、カンテラをできるだけ水面に近づけて、隙間に向かって声をあげた。
「もうすぐ外に出られそうです。先生、ロープを伝ってこちらに来てください」

しばらくして、英二が隙間から這い出てきた。水に濡れた教授の姿を見て、貴志はニンマリとした。シャツとズボンが体に張りついて、肉体の線があらわになっている。
隙間の向こうから、一郎の声が聞こえてきた。
「おーい、もうそっちに行ってもいいのか?」
「いいですよ。頭を岩にぶつけないように、気をつけてください」
貴志は合図を送ると、教授に言った。
「水の音がするでしょう。あれは滝の音じゃないですか?」
英二はしばらく耳を澄ませた。
「滝の音のようだけど、よくはわからないな」

そのとき、カンテラの炎がゆらめき、明かりが弱くなった。
「油がなくなりかけているんだ!」
貴志は隙間に向かって、声を張りあげた。「お父さん、早く!カンテラの火が、消えかかっています」
「そんなこと言っても、早く進めるか!まったく――なんていまいましい洞穴なんだ」
一郎の、ぶつくさ言う声が聞こえてきた。
ようやく一郎の頭が、隙間から現れた。貴志はカンテラを教授に渡すと、警視の体を引きあげた。頭からつま先まで全身ずぶ濡れだった。
「時間がないんです。さあ先に進みますよ」
貴志は、ロープを手繰り寄せると、カンテラを教授から受け取った。それから、先に立って歩きだした。しかし無情にも、数メートルほど進んだところで、カンテラの火が唐突に消えた。
とたんに暗闇が3人を襲った。

「お父さん、マッチを持っていましたね」
闇の中で貴志が言った。
一郎がしばらくごそごそとして、それから言った。
「駄目だ。マッチは水に濡れて、使い物にならん」
「ドジ!」貴志と英二が、同時に言った。
「ドジとは何だ!仕方がなかろうが」と一郎。
「オーケイ、冷静になりましょう。これからは水音を目標に進みます。でも枝道があって3人がはぐれたらまずいから、ロープを腰に巻いてください」
貴志は言うと、肩からロープを外して、手探りで英二に渡した。その手は意外にも肉づきが良かった。
貴志は暗闇のなかで、束の間の幸せを感じながら、その柔らかい手を握っていた。
そのとき一郎の声がした。
「おい、なんで私の手を握ってるんだ?」
貴志はあわてて手を離した。

貴志は手探りで先に進みだした。壁はじっとりと湿って、巨大な動物の背骨のような手触りだった。
(このまま永遠に、地下の暗闇の中をさ迷うんじゃないだろうな)
貴志はだんだん不安になってきた。背後から年配者二人の息づかいが、かすかに聞こえていた。
暗闇の先のほうで、ぼんやりとした明かりが見えてきた。近づくと、そこはT字路になっていて、右手の方から光が差していた。
角を曲がると、先のほうに外の明かりが見えた。
「やったあ!」
貴志は叫んだ。
明かりを目指して進むと、ふいに洞穴が広くなった。
そこは4メートル四方の小さな洞窟になっていた。壁面の一部に、高さ2メートルほどの開口部があり、水の幕が音を立てて流れ落ちていた。先ほどから聞こえていた水音は、この音だったのだ。ふと腕時計を見ると、6時少し前だった。ということは、彼らが洞窟を歩きだして2時間以上になる。
貴志は開口部に近づいて、水の幕を観察した。ときおり、水の流れに隙間ができて、外の景色が見えた。驚いたことに、足下に青雲荘があった。
そこで貴志は気がついた。彼らは竜神の滝の内側にいるのだ。目測では、下まで6、7メートルはありそうだった。

「それで、これからどうやって外界に戻るんだね?」
外のようすを見ていた一郎が、おもむろに尋ねた。
「ロープを使いましょう。この滝を、ロープを伝って降りていくんです」
彼は洞窟のなかを調べた。ロープを結べそうな突起物は、どこにもなかった。
そのとき、この洞窟のなかに、これまでも他の人間がきている痕跡に気づいた。湿った地面に、いくつかの靴跡があったのだ。
「どうやら、誰かが残って、上からロープを引っ張っている以外に、方法はないな」
一郎が言った。
「誰かって?」
貴志は質問したが、聞く前から答えはわかっていた。藤沢兄弟がまっすぐに、彼の顔を見ていたからだ。
「でも、ぼくはどうするんですか?」
「大丈夫だよ、きみ」
一郎が大きな笑顔で答えた。「あとで助けに来てあげる」

先に一郎が降りた。貴志と英二はロープを握り、足を踏ん張って、その体重を支えた。
「80キロじゃない。100キロは絶対にある。たしかだ――」
貴志は顔を真赤にして、足を踏ん張りながら、ぼやきつづけた。ようやく重みがとれて、一郎は下に着いたようだ。
「こんどは先生の番です。いいですか、気をつけて。滝の流れは強いから、振り落とされないようにしてください」
貴志は、教授の腕をつかんで言った。
「きっと助けに来るよ」
英二は言うと、手を伸ばして、貴志の股間を揉みもみした。
「わーお!」
貴志がうれしそうに叫んだ。

英二は一郎に比べると、はるかに軽かった。それに敏捷だった。ロープの重みがなくなったので下を見ると、彼は滝壺を泳いで川原に向かっていた。
川原では、水からあがった一郎が、シャツを脱いで水を絞っていた。日に当たったことがないような白い肌が、目に染みるようだ。
貴志は滝壺を観察しながら考えた。飛び降りることができるだろうか?水の深さは充分あるのは分かっていた。でも、もしも途中の岩にぶちあたったら。彼は身震いした。
下のほうでは、英二が兄のところに行き、二人してこちらを振り仰ぎ、それから背中を見せて歩き去るところだった。

急に孤独感が押し寄せてきた。
水の膜でさえぎられた外界と地底の世界――洞窟は薄暗く、背後の暗闇から、得体の知れない怪物が襲いかかってくるような恐怖を覚えた。
貴志は衝動的に前に進み出て、岩角で足を踏ん張ると、水の幕めがけてジャンプした。
水しぶきをあげて、貴志の体が水幕を突き破り、宙に躍り出た。
「うわああぁぁぁ――」
貴志は声を張りあげながら落下した。下のほうでは、声に驚いた藤沢兄弟が振り向いて、なおのこと驚いていた。
貴志は足から滝壺に落下した。水しぶきがあがり、彼の体は水中にもぐりこんだ。
「タカシ!」
英二が叫んで、水のなかに入っていった。少しおくれて、一郎がつづいた。
必死になって水の中を進むと、ふいに英二の横に、貴志が浮かびあがった。彼は濡れた髪をかきあげると、歓声をあげた。
「ヒューッ、スリル満点!」
「この、バカ!」
英二が、貴志の頬を平手で叩いた。突然の安堵に、彼の目は濡れていた。

屋敷に戻ると、和泉家の兄弟を中心に、大勢の男たちが集まっていた。葛城警視とふたりの警官もいた。それに、お館さまと池内老人の姿もあった。どうやら彼らは、加奈子の葬式から帰ってきたところらしい。
一同は3人の姿を見て、ホッとしたようすだった。
「帰りが遅いので、これから山狩りしようかと思っていたんですよ」
お館さまが言った。
「皆さん方にご心配をかけて――大変ご迷惑をおかけしました」
一郎が丁寧にわびを言った。それからお館さまに質問した。
「和泉さん、仁王山の中腹に池がありますね」
「ええ、乙女ヶ淵のことでしょうか」
「あの池は乙女ヶ淵っていうのですか。ロマンチックな名前ですね――いや、そんなことはどうだっていい」
一郎は頭を振った。「あそこの水門は、どうやって開け閉めするんですか?」
お館さまは、けげんな表情をしたが、すらすらと答えた。
「モーターで開け閉めします。水門のそばに管理小屋があって、そのなかにモーターをまわすスイッチがあります」
「その小屋の鍵はだれが持っているんですか?」
お館さまは、集まった男たちの中にいる、吉田のほうを見た。
「吉田さんです。鍵は城の管理室に置いていますよ」

一郎はうなずいて、吉田に呼びかけた。
「吉田さん、最近、水門の管理小屋の鍵を誰か使いましたか?」
吉田は不思議そうな表情をした。
「いえ、だれにも貸していません。このところ水門を開ける必要はありませんでしたから。水門がどうかしたのですか?」
一郎が慎重に言った。
「その水門が開けられた形跡があるんです」
お館さまと吉田が驚いて、一郎の顔を見た。
「どうやら、一昨日の嘉信祭のとき、だれかが忙しく立ちまわったようですね」
一郎はつぶやいた。
吉田が何か言いたそうな素振りをしたが、思いとどまったようだ。
貴志がそれに気づいて、吉田に訊いた。
「吉田さん、何か気がかりなことでもあるのですか?」
「いや、特に――」
吉田が慌ててかぶりを振った。
集まった人々が、三々五々帰りだしたとき、一郎が葛城警視の腕をつかんで、そっとささやいた。
「後ほどお話したいのですが――」
[18/07/19 07:36 神亀]
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