(3)
意気揚々として屋敷に戻ると、一郎が所在なげに部屋で寝そべって、雑誌を見ていた。
「なんだ、お父さん、帰っていたのですか。先生は?」
貴志が声をかけると、警視は振り向きもせずに言った。
「英二はまだ陶芸の店にいる。なんでも作品が窯からあがるのを待つので、今夜は遅くなると言ってた」
そこで一郎はようやく貴志のほうを見た。「それに私は、和泉さんと約束がある」
「なんの約束ですか?」
「食事のあと、露天風呂に行くんだ」
(露天風呂があったんだ!)
貴志は、和泉老人の話を思い出した。にわかに心臓の鼓動がたかまった。
(たしか爺さんは言ってたっけ。温泉のおかげで、こちらの人は肌もきれいだって――)
「ぼくも一緒に行きます!」
貴志は声を弾ませた。
一郎はじろりと見あげた。
「そりゃあ、いいけど。年寄りばかりだぞ」
(それがいいんですよ)と思ったが、貴志は念を押した。
「――露天風呂ですよね?」
ふたたび一郎は、じろりと見た。
「ああ、そうだ。とにかく眺めのいい所らしい」
警視は起きあがると、あぐらをかいた。「ところできみ、露天風呂へ行くのに、なにか別の目的があるのか?」
「べつに――今日、魚釣りをしましたよ」
「話を逸らすな。――それで、魚釣りがどうしたって?」
「秀信さんに連れていって貰ったんです。ヤマメが16匹も釣れました。ぼくって、釣りの才能があるのかなあ」
一郎は疑わしげに貴志を見た。それから、おもむろに言った。
「魚屋で買ってきたんじゃないだろうな?」
その露天風呂は温泉地の上方に位置して、山の緩斜面にあった。車10台分ほどの駐車場の横に、おでんや飲み物を売る小さな店が一軒建っていた。
お館さまと藤沢警視、そして貴志は、大橋の運転する大型車から降りた。
風呂の入り口は店の脇にあり、入湯料として500円を店に払って、中に入る仕組みになっていた。
屋根と木製の棚だけの脱衣場で服を脱いで、その先に行くと、広さ20畳ほどの露天風呂が広がっていた。
たしかに眺めの良い所だった。巨大な岩盤が自然の浴槽を形成していて、岩に固定された太い竹樋からは、湯がとうとうと流れ込んでいた。開けた一辺には、遠く皇子町の暮れ行く田園風景と、明かりを灯し始めた町並みが見えている。

まさに天然の展望風呂だった。
ちょうど湯浴み客が引ける時間帯なのか、風呂には貴志たち3人しかいなかった。
貴志はお館さまの裸を目にして、幸せだった。老人らしい熟成した肉体は、郷里の祖父を連想させて、むずむずとした気分になる。
「どうだ、貴志くん。いい所だろう」
湯に浸かったお館さまが、のんびりと声をかけた。
「ああ――いい湯ですね」
貴志はお館さまの顔を面映ゆそうに見た。
そこに藤沢警視が、遅れて湯に入ってきた。その体は満々と肉をたたえ、まるで女のように色が白かった。おしとやかにタオルで前を隠した格好が、微笑ましかった。この年配者に対する貴志の好感度は、急上昇した。
一郎が湯に体を沈めながら、お館さまに話しかけた。
「いい所ですね。ここに住んでいる人たちがうらやましい。毎日、こんな素晴らしい天然の風呂に入れるなんて」
「天然治療に勝るものはありません。神経痛、腰痛、痔、糖尿病ほか、ここの湯は、成人病に効くそうです」
お館さまが、湯の効能を説明した。
「心の病も直りそうですね」
一郎が、貴志のほうを見ながら言った。
警視の肉感的な裸体を見て、まだ動揺の治まらない貴志は、黙って聞き流した。
お館さまがつけ加えた。
「それに、ここの湯は飲めるんですよ。ポリタンクを持って、湯を汲みにくる人も多い。胃腸病に効くそうです」
「なんだか、肌がスベスベとしてきた気がしますよ」
藤沢が胸をなでながら、貴志にうなずきかけた。「なあ、青年?」
(たしかに、お父さんの肌はスベスベして、きれいですよ。年々、オスの機能が薄れて、女性ホルモンが増えてきたからでしょう)
と思ったが、それを口にすると面倒臭いことになりそうなので、別のことを言った。
「先生も連れてくればよかったですね」
「英二は陶芸のほうに興味があるんだ。それとも何か、きみは英二を風呂に入れて、別の思惑でもあるのか?」
「何もありませんよ。先生に対する無邪気な親愛の情で言っただけです」
一郎はあごを撫でながら、貴志の顔を疑い深そうに見た。
「無邪気だって――どうもきみの顔を見てると、露天風呂に来た動機が、私たちと違うような気がするんだが」
それにお館さまが悪乗りした。
「どんな動機でしょうねえ」
一郎はにんまりした。
「21歳の青年の考えることです。ま、いずれにしろ、不純な動機でしょう」
そのとき、おっとりとした声がした。
「お館さま、こちらに来られていたんですか」
湯船の縁に、丸っこい身体つきの年配の男が立っていた。一昨日、城で式場を設営していた男だ。
「やあ、吉田さん。あなたもこられていましたか」
お館さまが挨拶を返した。それに答えて、吉田は目も口元もなごませてお辞儀をしたあと、湯桶で前を清めて湯に入ってきた。
「私はほとんど毎晩、ここに来ます。ここは命の洗濯にはもってこいの所ですよ」
そこで彼は、洗い場のほうを振り返った。小柄な老人が、お盆にガラス製の器を乗せて、こちらを見ていた。
「ちょっと、失礼します」
吉田は立ちあがると、店の主人のほうに歩いていった。
「彼は皇子城の管理をしている責任者です。それに郷土資料館の館長もやっている。彼のご先祖は、和泉家の武将ですよ」
お館さまが説明した。
歩き去る年配者の後ろ姿を見ると、むっちりとした白い尻が揺れ動いている。それを見ていて、貴志は息苦しいほどの興奮を覚えた。
「――毎日、温泉に入っていると、肌が奇麗になるんですね」
貴志は独り言のようにつぶやいた。その視線に気づいて、一郎が嫌味を言った。
「やはり21歳の考えることは、いやらしいことのようだな」
吉田がお盆を捧げ持って戻ってきた。
「さあ、お館さま、召しあがってください」
彼は小さなグラスを和泉に渡すと、二重構造で氷の仕込まれたガラスの器から酒を注いだ。
「これは旨い」
一口飲んで、お館さまが言った。吉田が我がことのように、嬉しそうな表情をした。彼は体つき同様、性格も丸っこい温和な男のようだ。
「これは、お館さまの酒蔵で造っておられるお酒ですよ。ささ、あなたがたもどうぞ」
吉田は、藤沢警視にも酒をすすめた。
「うん、これは美味い。晩飯に食べたヤマメがあれば、最高のつまみになるね」
一郎がグラスを飲み干して言った。
「ヤマメですか――」と吉田が訊いた。
「ええ、今日、秀信さんが釣ってきたんです。あれはうまかったなあ」と一郎。
「お父さん、あの半分はぼくが釣ったのですよ」
貴志が念を押すように言った。それを一郎は、まったく意にも介さなかった。
「あ、そう。だからなんだって言うんだ?」
「べつに――ただ、ぼくは物事を正確に伝えたかっただけです」
「まあまあタカシくん、さあ、きみも一杯飲みなさい」
お館さまが吉田から酒の容器を受けとって、貴志に注いでやった。
貴志はひと口飲んで、うなった。辛口だが、淡泊で上品な味だった。それに冷たくて、ほてった喉に心地よかった。
「これはいけるよ、爺さん。口は悪いが、酒はうまい」
「ありがとうよ、複雑に誉めてくれて」
お館さまが空いたグラスに酒を注ぎながら言った。酒はあっという間になくなった。
「えっ、もうなくなったのですか?持って来られた吉田さんは、たったのひと口しか飲んでいないのに」
一郎が申し訳なさそうに言った。
お館さまが、貴志を見ながら言った。
「それはそうですよ。タカシくんが立て続けに飲みましたからね」
「注いでくれたのは、爺さんじゃないか」
「注がざるを得ないじゃないか――もの欲しそうに、こちらを見られると」
聞いていた吉田が、おっとりと笑った。
「大丈夫です。では、店の主人に言って、もうひとつ持ってこさせましょう」
吉田が立ち上がろうとするのを制して、一郎が言った。
「あ、吉田さん、今度はこちらで用意します。――おい、タカシくん、酒を頼んできてくれ」
貴志は立ち上がると、ブスッとして警視に訊いた。
「ひとつでいいんですか?」
吉田が驚いたように貴志の下腹部を見て、目を丸くした。その横で、一郎は不快気に、手を振って言った。
「いくつでもいい。その目障りなモノを隠して、早く行って来い!」
立ち去る貴志の後姿を見ながら、吉田が放心したように言った。
「すごく――立派だ」
貴志は入口脇の店に行って、主人に声をかけた。
「すみません。お酒の追加をお願いします――ふたつ」
「はい。お館さまのところですね」
店の老人が愛想よく答えた。
露天風呂に戻ると、お館さまと吉田が目配せして、興味深そうに貴志を見ていた。
しばらくして、酒の容器を持つ店の主人があらわれた。
驚いたことに、老人の後ろに和泉秀信と楠部孝夫の姿が見えた。秀信の色白でふくよかな肉体と、浅黒い肌をした楠部の筋肉質の肉体が好対照だった。
「なんだ、お前たちも来たのか」
お館さまが声をかけた。それに答えて、秀信が言った。
「たまたま孝夫さんが屋敷に来たので、だったら皆さんに合流しようということになったのです」
「俊信は?」
「さあ――家にはいませんでした」
露天風呂が賑やかになった。追加の酒が注文され、湯の中で酒盛りが始まった。
途中で一郎が冷静に言った。
「ところで、車の運転はだれがやるのですか?」
すかさず秀信が答えた。
「大丈夫、本庁の警視さんの面目をつぶすようなことはしません。大橋が皆さんを迎えにくるとき、渡辺も同行して、私たちの車を運転して帰るようにしています。あ、吉田さんも家まで乗せてあげますよ」
「すみません。ありがとうございます」
吉田が恐縮して礼を言った。