目 次
■ 皇子町殺人事件(第2部) - (2)
(2)

渡辺がトラックを運転した。前の座席3人ではちょっと窮屈だったが、貴志はふたりに挟まれて小さくなっていた。
車は10分ほど走って、大貫川に出た。それから川の堤防沿いの道を、上流に向かって走り出した。近くで見る川は、水量も多く、川底の石ころが見えるほど澄んでいた。
町から離れるにつれて、川の両サイドにみずみずしい緑の水田が広がってきた。道は途中で川から離れて、山のふもとに向かった。
皇子城の天守閣から遠望したセメント工場が近づいてきた。スレート葺の屋根の背後に、抉られた石灰質の白い山肌や、斜面の中腹に転がる大きな岩が見えた。

車は途中で本道を外れ、左折して、ふたたび未舗装の農道に入った。その農道は真っ直ぐ川に向かって伸び、川原に建つトタン葺の小屋のところで途切れていた。渡辺が小屋の前で車の向きを変え、3人はトラックを下りた。
小屋の扉には、錆びた南京錠がかかっていた。建物の横は木の桟橋になっていて、一端は川に向かって緩い勾配で下がっている。
渡辺が手際良くトラックの荷台の留め金を外し、後部の側板を下げた。その間、秀信はポケットから鍵をとりだして、小屋の扉を開けた。中にはファイバーグラス製のボートが格納されていた。
「ボートを車に積むんだ。速水くんも手伝ってくれるか?」
秀信がボートの状態を調べながら言った。ボートは予想外に軽かった。小型の手漕ぎ式で平底になっている。オールと長い竹棹が船底に並べてあった。
3人がかりでボートをトラックの荷台に積み込むと、再び出発した。
車は本道に戻り、山の裾野伝いに走った。道中、彼らはほとんど口をきかなかった。
やがて、なだらかな登り道になった。横を見ると、いったん離れていた川が、ふたたび近づいていた。川の流れは、5、6メートルほど下にあった。水底はだいぶ浅くなっていて、大岩の転がる川原を縫うように流れている。

ほどなく川原に下りていく脇道が見えた。渡辺はその脇道に車を乗り入れた。
「さあ、着いたぞ。やっと釣りができる」
秀信が車から降りると、大きく伸びをしながら言った。
貴志は渡辺を手伝って、ボートを川原に運んだ。秀信は荷台から、釣り道具や餌の入ったバケツ、クーラーなどを降ろしていた。
用意が整うと、秀信は腕時計を見ながら、渡辺に言った。
「今からだと、下の小屋に着くのは4時頃だな。そのころ迎えに来てくれ」
「かしこまりました。秀信さまも速水さまも、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
渡辺はトラックを運転して帰っていった。秀信はトラックのほうを見ようともせず、ひとりで釣り道具をいじっていた。
支度を整えおわると、秀信は川に向かって突っ立った。ほどなく健康的な放物線を描いて、小水が飛んだ。彼は放尿しながら、貴志のほうに振り返った。
「きみも今のうちに、おしっこをしておけよ」
貴志は秀信の横に並んで、ズボンの前を開いた。ふたり並んで小便をしていると、童心に返る気がした。秀信が貴志の手元を無遠慮に見ながら、のんびりと言った。
「へーえ、きみって立派な竿を持ってるんだ」
貴志はきまりが悪くなって、体の向きを変えた。
そのあとふたりは、ボートを川に入れた。水に浮かべると、秀信はさっさとボートに乗りこんだ。船底が石をこすり、鈍い音をたてた。ボートが川原から離れかかって、貴志はあわててボートに飛び乗った。



ボートは水の流れに乗って、不安定に揺れながら、先に進みだした。貴志は急に不安になった。流れは速かった。このままでは岩にぶつかって、転覆しそうだ。
そんな貴志の心配にもかかわらず、秀信はボートの揺れに無頓着だった。彼は釣り針に餌をつけながら、貴志に命令するような口調で言った。
「しばらく流れが速いんだ。竹棹の操作はきみに頼んだよ」
貴志は少しムッとしたが、黙って船底から長い竹棹を取りあげた。彼は試行錯誤して、竹棹の操作に慣れようとした。何年か前にボートを漕いだことがあったが、今回はオールでないだけに苦労した。ボートは彼の意志に関係なく、右に左にと揺れ動き、流れから突き出た大岩に危うくぶつかりそうになった。
秀信が顔をあげて、非難めいた視線を貴志に向けた。
貴志は必死になって、右に左にと竹棹を動かした。汗がみるみる吹き出してくる。そのうち彼の上半身は、汗だか水飛沫だかわからないくらいに、びっしょりと濡れてきた。そのうえ、棹を強く握りすぎて、手の平が痛かった。
秀信の方を見ると、彼は悠々とリールを繰り出し、釣り糸を水に流している。
(クソッ、こんなことなら、来るんじゃなかった。これじゃまるで、召し使いだ。こき使われてるだけじゃないか)
貴志は胸の内で毒づいた。

いくつかの水路を併合して、水の流れがゆるやかになってきた。
ようやく秀信が声をかけた。
「速水くん、そろそろきみも釣りをやるか?」
「やります。でも、ボートを操縦するのはどうします?」
「ほっといても、勝手に流れていくさ。さあ、そこの竿を使いなさい」
貴志は竹棹を水から引きあげると、かわりに釣り竿を取りあげた。秀信が餌のつけかたを教えてくれた。
秀信の言った通り、ボートは水の流れに乗って、自然に下流に向かって進んでいた。
貴志は釣り糸を垂れて、ゆったりと移り去る岸辺の風景を見ていた。こうして川の流れに身を任せていると、東京を離れて、はるばる九州に来ているのを実感した。
せせらぎの音を聞いていると、貴志はいつしか茫洋とした世界に入っていた――。

「――おい、速水くん。どうかしたんだ?」
遠くから声が聞こえてきた。貴志はふと我にかえった。気がつくと、秀信が心配そうに、こちらを見ている。
「――ああ――明日は嘉信祭ですね」
貴志は、思いついたことを言った。
「――?」
秀信は、問いかけるように貴志の顔を見た。
「12年に一度の祭りを見られるなんて、ラッキーですよ」
「なんだ、そんなことか。ま、たしかに、12年ごとにあるんだ。そうそうは見られない祭りだ」
秀信は嘉信祭をさほど心待ちにしていないようすだった。
貴志は話題を変えた。
「秀信さんは、よく釣りをやるんですか?」
「たまにね。盆のあいだは殺生ができないから、今日のうちに釣りをしておくんだ」
「それにしても――なかなか釣れませんね」
「この時期はね。釣れなくてもいいんだ。こうやって川の流れに乗っているだけで、ぼくは満足だよ。子供のとき読んだ、十五少年漂流記っていう本を思い出すな」
(へーえ、意外と冒険好きなんだ)
貴志は、秀信の一面を見た思いがした。

秀信は思い出したように言った。
「ま、釣りに関しては、大橋のほうがずっと上手だけどね」
「運転手の大橋さんも釣りをやるんですか」
「正確には、やっていたと言うべきだな。ある事件があって以来、大橋は釣りをぷっつりとやめた」
「ある事件って、なんですか?」
秀信は面白そうに貴志を見た。
「きみ、そのことはあまり詮索しないほうがいいよ」
それから、さりげなく言った。「50歳って言ってたけど、藤沢教授は素敵な人だね」
貴志は、エッと思った。
(秀信さんは、どういう意味で言ったのだろう?)
考えていると、秀信が微笑みかけた。
「きみ、先生が好きなんだろ?」
ますます貴志は混乱した。(どういう意味だ?)とりあえず彼は返答した。
「好きというより――尊敬しています」
秀信が、うかがうような目つきで貴志を見た。
「ふーん。きみと先生を見てると、師弟の枠を超えた愛情を感じるな。だってあの先生、男でも惚れ込むような色気がある。ルックスもいいし、均整の取れた小柄な肉体もいい。どことなくあどけなくて素直だし、男心をくすぐるよ」
秀信は、無意識なのか、広げた股座を手で撫でている。甘さを含んだ肉付きのよい顔に、好色そうな笑みが浮かんでいる。
貴志は混乱した。女好きと思えた秀信が、男色的な想いを言っているのだ。そこで貴志は意地悪な質問を思い浮かべた。
「でもやっぱり、女性の加奈子さんのほうが、ずっと魅力的ですよ。秀信さんは、彼女のことをどう思われますか?」
案の定、秀信は貴志の質問にうろたえたようすだった。彼が返事をするまでに、少し間があった。
「――ああ、彼女はたしかに魅力的だ――素晴らしい女性だよ」
秀信はうわの空でつぶやくように言った。

ふいに秀信が活気づいて、水面を指さした。
「おい、速水くん、引いてるぞ!」
貴志はあわてた。竿を持つ手に、小気味よい振動が伝わってきた。
秀信が注意した。
「いいか、強く引くんじゃないぞ。糸をゆるめずに、ゆっくりとリールを巻くんだ」
リールを巻いていると、青黒い背の魚影が手繰り寄せられて、水のなかを近づいてきた。秀信がすかさず網を差し伸べて、魚をすくった。網のなかで、側面に黒い斑点のある体長20センチほどの魚が、ピチピチとあばれた。
「ヤマメだ。いい形をしている」
秀信が息を弾ませて言った。
そのあとは、急に魚の当たりが増えてきた。
ふたりは時を忘れて、それぞれの釣りに専念した。ときどきふたりの口から洩れるのは、感嘆のため息だけ。
釣りがこんなに楽しいものだとは思わなかった。貴志は、ボートを漕いでいたときの不平不満を忘れて、すっかり釣りに没頭していた。

結局、その日の釣果は、ふたり合わせて16匹あった。貴志が驚いたことに、秀信はさしみ包丁を使って、釣った魚の腹を割き、内臓をとりだして塩を詰めだした。その手際良さは、一朝一夕にできるものではなかった。
「こうしておけば、魚肉が傷まないんだ。それに塩気がついて、焼くと美味い」
秀信は、血のついた包丁を、川の流れで洗いながら言った。まさか坊っちゃん育ちの秀信が、貴志でも気が引ける、血生臭い魚のさばきを平然とやろうとは――。貴志は意外な思いがした。
ボート小屋が近づくと、秀信がオールを使ってボートを岸に漕ぎ寄せた。無駄のない慣れた手つきだった。
渡辺が桟橋に立っていた。彼は待ちかねたようにもやい綱を受け取りながら、ボートのふたりに言った。
「遅かったので、心配してたんですよ。ご無事でよかった」
「渡辺、そう怒るな。今日は大漁だ。おまえにもヤマメを食わせてやる」
秀信が機嫌よく言った。
貴志もすっかりハイな気分になっていた。
「すごく楽しかったです。こんな恵まれた自然環境なら、この町には、さぞかし釣り好きの人が多いんでしょうね」
貴志の言葉に、秀信と渡辺が顔を見合わせた。奇妙な表情だった。何かあるのかと貴志が聞こうとすると、秀信がさっさと作業にとりかかった。
3人はボートを桟橋に引きあげて、小屋のなかに運んだ。秀信が小屋の鍵をかけ、彼らは車に乗って帰路についた。
[18/07/09 06:55 神亀]
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