(1)
速水貴志と藤沢兄弟は8月9日の早朝に旅立った。50代の熟年男性二人と20代の若者一人という、奇妙な一行だった。
和泉老人から貴志の銀行口座に、3人分の旅費代のほかに、小遣いとして10万円が余分に振り込まれていた。あまりの気前の良さに、貴志は気味が悪かったが、ありがたく頂戴することにした。
しかし、本来なら楽しい道中なのに、貴志は少々ご機嫌ななめだった。というのも、彼と教授のあいだには、藤沢警視が介在していたからだ。
藤沢一郎は子供のようにはしゃいでいた。趣味のカメラを持参して、飛行機の窓から、駅の構内で、食堂で、と写真を撮りまくっていた。あげくのはては貴志に命じて、自分たち兄弟のツーショットを撮らせる。それでいて、貴志の写真は全く撮ろうとしない。
藤沢兄弟を前にして、貴志はどう呼ぶか迷った。弟の英二に対してはこれまで通り、先生でよかったが、問題は兄の一郎に対してだ。警視では人の注意を惹きそうだし堅苦しい。それに、お兄さんと呼ぶのも変だ。
そんなとき、英二がいたずらっぽくささやいた。
「いっそのこと、お父さんと呼べよ。きみと兄を見ていると、まさに親子がぴったりだ」
三人は、羽田から福岡まで飛行機に乗り、そのあと電車を乗り継いで、半日かけて、やっと目的の駅にたどり着いた。その駅はシックな造りの木造家屋で、ひなびた中にも歴史を感じさせた。
「お兄さんは、いつもあんなに、はしゃぐのですか?」
藤沢一郎が駅のトイレに行っているとき、貴志は教授に尋ねた。
英二はこともなげに言った。
「家では、あんなでもないんじゃないかな。久しぶりに女房から開放されて、ルンルン気分だと思うよ」
「へーえ、人は見かけによらずですね。あれで奥さんが恐いんだ」
ふたりは駅舎の前で、老人の寄越す迎えの車を待っていた。
駅前広場には、客待ちするタクシーが数台並んでいて、広場の向かい側には、ひなびた土産物店が立ち並んでいる。いかにも観光町のたたずまいだ。
そのとき、二人のほうに、明るいグレーのスーツを着た中年の男が近づいてきた。
「あのう、失礼ですが、速水さんじゃありませんか?」
男は声をかけた。貴志の知らない顔だった。中肉中背、田舎にしては場違いなほど、洗練された物腰をしている。
「はい。速水ですけど、あなたは?」
貴志が返事をすると、男の顔がぱっと明るくなった。
「やはりそうでしたか。わたくし、和泉の使いの者です。渡辺と申します」
「ああ、渡辺さん」
貴志は思い出した。5月に和泉老人と出会ったとき、老人が電話をしていた相手だ。
「今年の5月に爺さん――いや、和泉さんと東京に来られた方ですね」
男は嬉しそうにほほえんで、頭をさげた。いかにも律儀そうな物腰だ。
「ご存じでしたか。その節は、和泉が大変お世話になりました。ささ、どうぞ、車をご用意しております」
そこで男は、まわりを見まわした。「もうひとり、お連れの方がいらっしゃると伺っておりましたが――」
「いま、トイレに行ってます。でも、なんでしたら、置いて行ってもかまいませんよ」
貴志が軽口をたたいて、その脇腹を英二が肘でつついた。
迎えの車は、なんと、ピカピカに磨きたてられた黒塗りのベンツだった。後部座席が二列になった大型車だ。しかも運転手がついていた。中年の男で、制帽をかぶっている。大柄な体格だが、彼もまた、人の良さそうなおだやかな表情をしている。
運転手が回り込んで、貴志たちのために後部ドアを開けてくれた。
(爺さん、だいぶ無理をしているな――)
貴志は老人に対して、すこし気の毒に思った。
皇子町は豊かな自然に囲まれた、美しい町だった。そして、貴志がなんとなく想像していたより、はるかに大きかった。銀行もあれば商店街もある。消防署や町役場も、田舎にしては贅沢すぎるほどの立派な建物だった。
山の麓では幾筋かの湯煙が立ちのぼり、温泉旅館らしい建物が立ち並んでいる。
そして驚いたことに、城郭もあった。小高い丘のところに石垣が見え、そのうえに天守閣らしい白亜の建物がそびえ立っていた。瓦屋根が何層にも重なってせり出した、独特の優雅な形をしていた。さほど大きくはなかったが、青空を背景に、均整のとれた姿を優雅に広げている。
前の助手席から、渡辺が説明した。
「皇子城です。別名、白鳩城。ほら、ご覧なさい。白い鳩が、今にも飛び立ちそうな姿をしているでしょう」
車は町なかを通り抜け、皇子城の方角に向かった。城に近づくにつれ、大きな松の枝越しに、幾重にも積みあげられた大きな石垣が見えてきた。ところどころ緑色に苔むして、深い歴史が刻み込まれていた。
車は城のお掘りの手前で右折した。あたりは大きな楠の木が立ち並び、道路沿いの広い歩道に樹影をなげかけている。

車は、和瓦を乗せた高い塀に沿ってしばらく走り、大きな門構えの屋敷の前で停車した。門の前は、車が数台駐車できそうな空地があり、歩道に面して低い木格子の衝立が立てられている。その奥に、瓦屋根の重厚な門が、外界を遮断するように建っていた。
車から下りた貴志は、鉄鋲の打たれたどっしりとした木製扉の前で、声もなく突っ立っていた。
「このお屋敷が、和泉さんという方の自宅?」
背後から英二が、小さな声で貴志に聞いた。
「おそらくね。ほら、表札に和泉貴信って書いていますよ」
そう言う貴志も半信半疑だったが、門に固定された表札には、たしかに老人の名前が刻み込まれている。その横にもうひとつ表札があり、それには和泉秀信と書かれている。おそらく老人の息子の名前だろう。
脇のくぐり戸から中に入った渡辺が、内側から大扉を開けた。すぐ左側に屋根付きの車庫があり、車が二台並んでいた。正面には石畳の通路、掃きならされた白砂、そしてよく手入れされた緑の庭木が見えた。その奥の右手に、純和風造りの壮大な屋敷が、半ば姿を見せていた。
渡辺に先導されて玄関先まで歩くと、年老いた男女、それに目を見張るほど美人の若い女性が、一行を出迎えた。三人はいっせいにお辞儀をし、老人が前に進み出て挨拶した。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。池内と申します。皆さまがたのお世話をさせていただきます。よろしくお見知りおきくださいませ」
老人は、150センチそこそこの小男だが、どことなく昔の城代家老を思わせる、威厳があった。重厚な鼻と頑固そうな口もと、しわの寄った目許が、いきいきとした輝きをおびている。
「これはわたくしの家内の量子、それから女中の加奈子でございます」
加奈子という名前に聞き覚えがあった。以前、貴志のアパートで和泉老人が言っていた名前だ。池内は両サイドに立つ女性たちを紹介すると、玄関のほうに手を伸ばした。
「さ、どうぞお入りくださいませ」
池内老人に案内されるままに、貴志たちは屋敷のなかに入った。
まるでタイムスリップして、江戸時代の武家屋敷に紛れ込んだ気分だった。広い玄関土間は水打ちされ、あがりかまちの向こうには、古めかしい松の水墨画の衝立があった。どこからか、かすかにお香の匂いがした。
「長旅でお疲れのことでしょう。さきに加奈子が、お部屋にご案内いたします。おやかたさまには、ひと休みいただいたあとでお会いくださいませ」
池内はそう言うと、奥に引っ込んだ。
3人は若い女中のあとについて、ガラス越しに日の差し込む廊下を歩いた。板張りの廊下はピカピカに磨きあげられ、歩くとキュッキュッと音がした。
貴志は歩きながら、前を行く女中の後ろ姿に見入っていた。女性にしては背が高く、すんなりとした肢体を淡いピンクのワンピースで包み、しなやかな体の線を惜しげもなくさらしていた。どことなく憂いを含んだ横顔と、長い黒髪をうしろに結いあげた白い襟足が、色っぽかった。
(25歳くらいだろうか。結婚しているのかな――)
貴志はあれこれと憶測した。
女中は中庭に面した離れの部屋に、彼らを案内した。水屋の配された板張りの部屋と、重厚な床の間のある12畳の和室、庭に面してソファーセットの置かれた広縁がある。
少し遅れて、渡辺と運転手が、3人の荷物を車から持ってきた。
女中は、座卓のまえに腰を落ちつけた3人にお茶を入れると、「どうぞごゆっくり、おくつろぎ下さい」としっとりと言って、部屋を出て行った。
3人はホッと息をついた。さっそく一郎が、おいしそうに茶菓子をぱくついた。
「この菓子はうまいな。栗が入っているぞ」
英二が兄をたしなめた。
「兄さん、そんな甘いものを食べてると、また太るぞ」
「おまえは気にするな。体のことは、本人が一番よく知ってる」
「へーえ、じゃあ姉さんに聞いてみるか」
「バカ、よけいなことをするな」
一郎は少しあわてた。それから貴志に向かって言った。
「それにしても、すごいお屋敷だな。和泉って人は、いったい何者なんだね」
「さあ、ぼくも知りません。そんなこと、爺さんに聞いたこともありませんでしたから」
「さっき池内さんというお爺さんが、おやかたさまって言ってたね」と英二が言った。
「ああ、大工の棟梁かな」と貴志。
お茶をすすりながら一郎が言った。
「親方じゃない。お館さま――館の敬称だ。戦国時代に、武士たちが大将をそう呼んでいたんだ」
「へーえ、お父さんって物知りなんですね」
貴志が言うと、藤沢がにらんだ。
「私をお父さんって呼ぶな。私はきみの父親じゃない」
貴志は肩をすくめて、英二に向かってささやいた。
「いいじゃないですか。年齢的にもしっくりくるし――ねえ」
「なんでだ!」「私は関係ない!」
年配兄弟ふたりの反発にあって、貴志は一瞬たじろいだ。
そこで、話題を変えた。
「それにしても、この屋敷には何人の使用人がいるのかなあ?渡辺さんに運転手、池内夫妻に――加奈子さん――」
「加奈子さんって女中の人、すごくきれいだったね」
英二がさえぎって、貴志のほうを見ながら言った。「きみが女にも興味があるって、初めて知ったよ――いつよだれを垂らすかと、ヒヤヒヤしたぞ」
「いや、私はそんな――」
藤沢が言い訳をしようとして、ふたりのけげんそうな視線に出会った。そこで、弟が貴志のことをからかっているのに気づいて、咳払いをした。「――この豪邸や使用人の多いところを見ると、和泉さんという方は、この町の名士なんだろう。タカシくんは、えらい人と知り合いなんだな」
「あの爺さんが名士だなんて、にわかには信じがたいなあ。爺さんは、ぼくのアパートに強引に泊まり込んで、貧乏学生のぼくから食料を奪ったのですよ」
貴志は複雑な気持ちだった。