■ 皇子町殺人事件(第1部) - (3)
(3)
和泉老人の記憶が薄れかけたころ、当の本人から貴志のもとに電話があった。
――やあ、タカシくん?お久しぶり――。
「だれだっけ?」
老人の声はすぐにわかったが、貴志はとぼけた。
――和泉だよ。きみのベッドでいっしょに寝たことのある――。
「ああ――なんだか頭痛がしてきた」
貴志はそっけなく言った。「それで、なんの用だい?忙しいんで、手短かに頼むね」
――この前は、本当にお世話になったね。それでお礼と言っちゃあなんだが、こんどの夏に、私のところに遊びに来ないか?――。
「遠慮します」
貴志はすぐさま言ったが、それではあまりにもそっけないと思って、言い足した。「そのう――行きたいのは、やまやまなんだけど、クラブの合宿があるんだ」
――合宿は夏のあいだ、ずっとかい?――。
「それは――盆のあいだは休みだけど」
――じゃあ、そのときに来なさい。実はその頃に、12年に一度という、お祭りがあるんだよ――。
「――」
――ぜひ来なさい。滅多には見られないものだよ――。
「――」
――もしもし、聞いてるの?――。
「聞いてるよ。でも行けないな。金がないんだ。5月に、だれかがぼくのところに押しかけてきて、なけなしの金を使われて以来、ぼくはずっと金欠病なんだ」
貴志は嫌みたっぷりに言った。
――なんだ、そんなことか。じゃあ、きみにお小遣いを送ってあげよう。往復の切符代もね――。
「――」
――遠慮することはない。きみにはとてもお世話になったからね――。
「――」
――もしもし――電話の接続が悪いのかなあ?――。
「聞こえてるよ。でも、あまり乗り気がしないな」
――じゃあ、ゼミの先生と一緒に来たらいい。写真の先生とは仲がいいんだろう?こちらにはいい馬がいるし、馬場もあるんだ。それに、露天風呂もある――。
老人の最後のひとことが、貴志の興味をひいた。露天風呂と聞いて、藤沢教授の裸姿を連想したのだ。
「露天風呂?爺さん、そっちは温泉もあるのか?」
――ああ、湯の量も豊富だよ。温泉のおかげで、こちらは老若男女を問わず、肌のつやつやとした人が多い――。
「――爺さん、先生のスケジュールがあえば、行ってもいいな」
――じゃあ、電話をおくれ。楽しみに待ってるよ――。
老人との電話がおわったあと、貴志はさっそく藤沢教授に連絡をとった。教授は兄夫婦の家を訪れているところだった。
貴志は、和泉老人からの電話の内容を、教授に伝えた。老人と知り合ったいきさつは、以前、話していたので、説明をはぶいた。
――面白そうだな。盆の間だけなら、行ってもいいぞ――。
信じられないことに、教授はあっさりと同意した。貴志は、はやる気持ちを押さえて、冷静に言った。
「また土壇場になって、急用ができたなんて言わないでしょうね?」
――タカシ、きみはいつからそんなに疑い深くなったんだ。私が約束したことは、銀行にお金を預けるくらいに信用してもいいんだぞ――。
(いつも約束をすっぽかしておいて、よく言うぜ。それに、いま一番あぶないのは、銀行じゃないか)
貴志は、これまで何度も教授に失望させられたことを、思い出していた。
――もしもし、聞いてるのか?――。
「ああ、聞いていますよ。では爺さんに、ふたり行くって伝えておきます」
電話を終えて10分ほどしたあと、藤沢教授から電話があった。
――さっきの話だけどさ、私の兄がきみの話を聞きたいって言うんだ――。
「ええっ、お兄さんも一緒に行きたいって言うんですか?」
――そうじゃなくて、私がひとりで行くのが危険じゃないかって言うんだ――。
「危険?ぼくがいっしょに行くんですよ」
――だからこそ危険だって、兄は言うんだ――。
「ぼくが?この人畜無害のぼくがですか?」
――きみが人畜無害だとは思わないけど、とにかく兄は、きみと直接会って、話がしたいと言ってるんだ――。
「お兄さんがぼくと――」
貴志は、教授の兄、藤沢一郎が苦手だった。これまで二度ほど何かの用事で、藤沢一郎の家に行ったことがある。教授の兄は、いつも貴志をうさんくさそうに見ていた。そして説教めいた、堅苦しい話をする。
藤沢一郎は、警視庁刑事課の警視で、堅物を絵に描いたような人物だった。肉体的にも、弟の英二とはまったく違っていた。中背小太りの体格は、50代半ばにして、筋肉にかわって脂肪がつき始めていたが、若い頃に柔道で鍛えた肉体の名残りは、随所に残っている。彼はその肩書きとずっしりとした体重でもって、貴志のような若者に、にらみを利かせていた。
電話の向こうで、教授が言った。
――とにかく明日の夜、八時に兄の家に行ってくれ。きみを待ってるそうだ――。
「ああ――そうします」
貴志はしょんぼりとして、電話を切った。
翌日の夜、警視庁の警視と向かい合って、貴志は固まっていた。背筋をピンと伸ばし、両手は膝のうえにお行儀よく乗せている。
藤沢一郎は、およそ弟と似ていなかった。ずんぐりとした体型、口をヘの字に曲げて相手をにらみつける無愛想な顔立ち――唯一、二重目蓋の小さな目だけが、本人の職業が信じられないほど、人のよさそうな表情をしている。
そして、藤沢兄弟のわずかな共通点といえば、東北出身者らしく、きめの細かい色白の肌をして、その顔はしわひとつなく艶々としていることだった。その小造りの目鼻立ちは、見ようによっては可愛らしいと言う人もいるかもしれないが、今の貴志には、雷よりも恐い存在だった。
貴志は唾をのみこみながら、和泉老人を助けたいきさつを話していた。彼は極力、自慢に聞こえないように、話の内容を押さえて淡々と説明した。
警視は両腕を組み、目を半眼にして、貴志の話をじっと聞いていた。彼が口を開くのは、間にはさむ短い質問のみ。それ以外はずっと押し黙っている。
貴志は重苦しさに耐えて、和泉老人からの招待のくだりを話しだした。
話がおわると、藤沢警視はおもむろに組んだ両腕をおろし、ゆっくりと、かつ歯切れよい口調で質問した。
「それできみは、私の弟と二人で、その老人の住む町に旅をしたい、と言うんだな?」
警視は、二人、というところを強調した。
「ええ、皇子町はすごく古い歴史のある町だそうです。きっと先生にとっても、いい思い出の旅になると思います」
思い出、という言葉に、藤沢のずんぐりとした体がピクリと動いた。
「きみ、親子でもない50代の男と20代の男が、1週間も旅をするんだよ。それも二人きりで――。アブナイと思わないのか?」
藤沢警視の質問に、貴志は胸を反らせて言った。
「大丈夫です。先生のことは、ぼくが命にかけて守りますから」
「きみ、私が言ってるのは、きみのことだよ」
「えっ?」
貴志は、けげんそうに年配者の顔を見た。警視は、貴志の顔を下からのぞき込むようにして言った。
「きみ、私の弟に対して、なにか下心をもっていないか?」
貴志はギクリとした。
「な、なにをおっしゃるんですか――お兄さん」
すかさず警視の声が飛んだ。
「きみにお兄さんと呼ばれる筋合いはない!」
「す、すみません――もののはずみで――」
貴志はしどろもどろに言った。「ぼくはエイちゃんに対して、下心なんて持ってません」
そこでまた警視に睨まれて、すくみあがった。警視の顔は、まさに獲物を前に舌なめずりをする虎だった。
藤沢一郎は、一段と声を落として言った。
「おや、きみは、年配の先生をエイちゃんと呼ぶような仲に、いつからなったんだね?」
「ご本人を前に、エイちゃんと呼んでるわけではありません。そのう――学生のあいだで言っているだけで。それに先生だって、ぼくのことをタカシと呼び捨てにしています」
「そうか――どうやら私のほうも、弟に忠告しておく必要がありそうだな。あれが女より男に興味を持ってるのは知っていたが――それにしても、きみのような軽い男に興味を持つとは――英二も見る目がないということか」
藤沢はつぶやいた。そこで彼は、貴志の顔をふたたび睨みつけた。「ところできみ、私は警察官だが、身内のこととなると、見境がつかなくなる欠点があるんだ」
「はあ――?」
貴志がいぶかしげに見ると、警視は無気味にほほえんだ。
「つまり、なんて言うか――例えばきみが、英二のぽっちゃりとしたお尻に、けしからんことをやったとする。おそらく1日と置かずに私は、きみの大事なところをチョン切るだろうな」
「――!」
貴志は思わず両膝を閉じて、体を固くした。
「自分でも恐いんだ。カッとなると、自分が何をしでかすかと思うとね」
「――」
「それでもきみは、英二と旅行をしたいと言うのだな?」
貴志は唾をゴクリと呑み込んだ。そして黙ってうなずいた。
またまた警視の声が飛んだ。
「だまってちゃあ、わからん!どうなんだね!」
「あ、一緒に行きたいです!それに、ぼくは先生が好きです。でも、不純な気持ちはありません。誓います!」
貴志は性急に言った。そして雷が落ちるのに備えて体を固くした。しかし雷は落ちてこなかった。警視は考え込むように、貴志の顔をじっと見ていた。
「とりあえず、あっぱれな男だと言っておこう。自分の考えを、はっきりと言えるのは、いいことだ」
警視は静かに言った。「しかし、私は疑り深い男でね。ま、職業病かもしれんが」
そこで彼は、恩着せがましく宣言した。
「よし、きみの望みをかなえてやろう。英二と一緒に行ってよい」
「えっ、本当ですか。ありがとうございます」
(子供でもないのに、何でこんなことに許可が必要なんだ)と思ったが、貴志はとりあえず礼を言った。と同時に、これには何か落とし穴があるのでは、と思った。
案の定、貴志の勘は当たっていた。
「ただし――」
警視はおもむろに宣言した。「私もいっしょに行く。夏の休暇をとってな」