目 次
■ 皇子町殺人事件(第1部) - (2)
(2)

洗濯の終わった衣類を抱えて部屋に戻ると、老人は食卓の上に飾っていた写真立てを手にしていた。貴志が苦労して手に入れた、藤沢教授の乗馬姿のポートレートだ。
「爺さん、なにしてるんだよ。掃除は終ったのかい」
「いや、まだだ」
老人はそっけなく言うと、手にした写真を見ながら言った。「きみのお父さんかい?毅然としたスマートなお年寄りだね」
貴志は、老人の手から写真を取りあげた。
「爺さん、尻を叩くぞ。早く掃除をやっちまえよ」
老人がしぶしぶ、掃除を続けた。その間、貴志は部屋の片隅に張ったロープに、洗濯物を吊るした。そのあと両腕を組んで、老人の作業を見守った。
「あ、爺さん、そこの隅がまだだ。違う、右のほうだ」

ようやく老人の作業がおわると、貴志はウイスキーのボトルをとりだした。まだ中身が半分ほど残っている。彼はそれを部屋の中央のカーペットに置くと、ふたつのグラスと氷を用意した。彼が腰を落として、ウイスキーをグラスに注ぎだすと、老人がいそいそとして近づいてきた。
貴志は老人のために、グラスにウイスキーと氷を注いでやった。老人は床にどっかりとあぐらをかくと、グラスを受けとった。そしてのうのうと言った。
「ツマミはないのか?」
貴志は老人の言葉を無視して、黙って自分のグラスを傾けた。
老人はグラスに口をつけ、眉をひそめた。
「からい――」

風呂に入ったあとの老人は、さっぱりとした表情をしていた。薄くなった白髪は七三に分けられ、きれいに櫛が入れられている。おそらく貴志の整髪剤を勝手に使ったのだろう。血色のよい艶やかな頬に、薄い眉毛と二重瞼の穏和な目、形のよい鼻と少し大きめの口。老人の顔立ちには、そこはかとない気品が漂っていた。
「爺さん、何歳になるんだい?」
「69歳。きみは?」
「――21」
「若いなあ。うらやましい限りだよ。ところで、きみは体格がいいけど、なにかスポーツでもやってるの?」
「剣道をすこしね」
貴志は控えめに言った。その実、彼は学生選手権で、ベストフォーまで勝ち残ったことがある。老人は軽く聞き流して、次の質問をした。
「ふーん。それで、大学では何を専攻しているの?」
「国文学だよ」
「国文学!」
老人は驚いた表情をした。貴志は老人をジロリと見た。
「ぼくが国文学をやってたら、何かおかしいのか」
「いや、そんなことはない」
老人は空いたグラスにウイスキーを注ぎながら、つぶやいた。「国文学をやってるんなら、少しは敬語も使えるかと思ったが――」
貴志は、老人の言葉を聞きとがめた。
「爺さん、何か言ったか?」
「いや、なんでもない。気にしないでおくれ」
「――」
「それで、お父さんの仕事は?」
「父は死んで、いないよ」
老人は驚いた表情をした。
「それは失敬。じゃあ、あの写真は――」
老人は食卓の方を見た。貴志は面倒くさそうに答えた。
「あれはゼミの先生だ。それより、なんで親の仕事まで聞くんだよ。今どき、面接試験でも訊いちゃいけないことだぞ」
「いいじゃないか。これでも、会話が途切れないように、気を使ってるんだ」

老人はグラスの中身を飲み干すと、ボトルに手を伸ばした。
「それにしても、このウイスキーはからいね。もうちょっとマイルドなほうが、私の好みなんだけど」
「ぼくのウイスキーを勝手に飲むな!」
貴志は、老人の手からボトルをひったくった。
「あーあ、こんなに少なくなっちゃって。からい、からいと文句を言いながら、よく飲む爺さんだぜ」
「からいけど、結構いけるよ」
老人はふたたび手を伸ばした。目許がほんのりと赤らんでいる。
「駄目。これでおしまい」
「いいじゃないか。同じ貴の字がついた仲じゃないか」
「そんなことは関係ない!」
貴志はきっぱりと言ったあと、老人の人の良さそうな顔を見て、考えを変えた。「じゃあ、あと一杯だけ。飲み終わったら寝るよ」

蒲団はひと揃いしかなかった。貴志はベッドから毛布をはぎとると、老人に渡した。
「これを使ってくれ」
貴志は寝る前に、米をとぎ、炊飯器のタイマーを6時半にセットした。それからベッドにもぐりこんだが、なかなか寝つけなかった。
毛布のない掛け布団は、隙間がスウスウとして、落ち着かなかった。ベッドから見ると、豆電球のぼんやりとした明かりの下で、カーペットの上に寝ている老人の姿が見えた。寒いのか、毛布に包まれて、体を丸っこく縮めている。
それを見て、急に罪悪感を覚えた。貴志はため息をつくと、ベッドから抜けでた。
「爺さん、ベッドで寝ろよ」
老人は何も言わずに、ノロノロとベッドにあがった。貴志は、老人の体の上に毛布と掛け蒲団を整えてやると、その横にもぐり込んだ。
添い寝をするように体をくっつけると、老人があわてて言った。
「きみ!変なこと、しないだろうね?」
「バカ、なに言ってるんだ!ぼくがそんな男に見えるか!」
貴志は多少気まずそうに言うと、老人に背中を向けた。

貴志は天にも昇る気持ちで、息を弾ませていた。藤沢教授を抱きしめて、今まさにキスをしようとしているところだった。先生は目を閉じて、そのなめらかな唇は、誘うように開きかけていた。両腕の中の体は柔らかく、そして暖かかった。
貴志は年配者の体に股間を押しつけて、切なげにささやいた。
(――先生、好きです)
そしてキスをした――。

とたん、老人の声がした。
「きみ、なにをしてるんだい?」
そこで貴志は目を覚ました。
すぐ目と鼻の先に、和泉老人の顔があった。
貴志は小さく悲鳴をあげて、ベッドから飛び出した。彼の手には、老人の体のやわらかい感触が残っている。
動揺を鎮めるように顔を洗って、髭を剃った。まだうずうずとした欲望を感じていた。

バスルームから戻ると、老人はベッドの縁に腰かけて、ニヤニヤ笑いを浮かべている。
「若いだけに元気がいいね。なんだか固いものが、私のお尻をつついていたけど――」
「爺さん、ぼくをからかうのなら、本当に変なことをやるぞ。その可愛らしいお尻をたっぷりと可愛がってやるんだ」
「それは困る。私はそんな趣味はないんでね」
老人はのんびりと言った。

貴志は朝食の準備にとりかかった。
悪いことは続くものだった。藤沢教授から電話があり、急用ができて、今日はディズニーランドに行けないと言うのだ。
「ええー、待ってくださいよ。なんとか都合をつけて、一緒に行きましょうよ」
――それができないから、電話したんだよ――。
「でも突然じゃないですか。チケットがもったいないですよ」
――だったら、ほかの誰かと出かけたら。大体、大の男が二人して、ディズニーランドに行くって、おかしくないか――。
教授は今さらながらの嫌味を言って、一方的に電話を切った。
「なんで――せっかくのデートだったのに」
貴志はブツクサ言いながら、朝食を作った。
豆腐とネギを切って味噌汁をつくり、一切れ残っていた鮭を焼いて、二つにわけた。それから納豆のパックを冷蔵庫から出した。

「さあ、爺さん、メシができたぞ」
貴志はブスっとして、老人に声をかけた。
老人は身仕度を整え、いそいそとして椅子に腰かけた。
「うまそうだ。きみって、料理が得意なんだね」
「お世辞はいいから、早く食べろよ」
貴志は、不機嫌さを隠しもせずに言った。椅子は老人の使っているひとつしかないので、彼は流し台に尻をかけて、食事をした。
老人はしばらく箸を動かしていたが、感心したように言った。
「おいしい――こんなにおいしい朝御飯は、初めてだよ――質素だけど」
「質素で悪かったな。一言多いんだよ、爺さんは」
「すまん。どうもきみといると、感化されちゃって――」
「なにが感化だ!タダメシを食わせてもらいながら、なんてことを言うんだ、このジジイは」
老人はお代わりのご飯をよそおいながら、のんびりと言った。
「爺さんの次はジジイか。でもいいよ。きみは、口が悪くてぶっきらぼうだけど、根はやさしい青年だから」
貴志はため息をついた。
「わかった、わかった。わかったから、早くメシを食べてホテルに帰ってくれ」

食事がおわると、老人は満足そうな表情をして、お茶をすすりながら言った。
「東京に来た用件は、明日なんだ。だから今日一日は、ゆっくりできる」
「それはよかったな。こんどは迷子にならんように、気をつけるんだぞ」
「大丈夫だよ。今日はきみに付き合ってあげる」
貴志は、何を言ってるんだ、と老人を見た。
「ぼくの聞き間違いか?付き合ってあげるとか聞こえたけど――」
「ディズニーランドは、一度行ってみたいと思っていたところなんだ」と老人。
「だったら、連れといっしょに行ったらいいじゃないか」
貴志は怒りをおさえて、低い声で言った。
「そんなに冷たいことを言うなよ」
老人は明るい声で言った。「だって、きみとはひとつ蒲団で寝た仲じゃないか。とても他人だとは思えないんだよ。それにきみは、デートの相手がいないんだろう」

そこまでしゃあしゃあと言われると、貴志は怒りを通りこして、拍子抜けした。彼は黙々と食器を洗いだした。背後では老人が、連れに電話をする声が聞こえていた。
「渡辺?私だ。――大丈夫。少々窮屈だったが、ぐっすり眠れたよ。――なに?俊信から電話があった?じゃあ、夕方、ホテルに来るように言ってくれ。ところで、今日はディズニーランドに行ってくる――なに?金?大丈夫だ、連れがいるから。――なに?迷惑にならないかだって?おまえは心配性だな。大丈夫だよ。気のいい青年なんだから――じゃあ切るぞ」
老人は携帯電話をもとの位置に戻した。そこで自分のほうをじっと見ている貴志に気づき、小さくため息をついた。
「連れは心配性の男なんだ」
貴志は憮然として言った。
「いいことじゃないか。脳天気な年寄りには、ぴったりの相棒だよ。ところで気のいい青年って、だれのことだ?」
老人はバツが悪そうに眉をひそめた。
貴志はゆっくりと歩み寄ると、老人の肩に腕を回した。
「いいかい、お爺ちゃん。あんまり他人を信頼するもんじゃないぞ。爺ちゃんは田舎のポット出で、東京の恐さを知らないんだ。そのうち痛い目にあうよ」
老人は無邪気な笑顔で、貴志を見あげた。
「だけど、きみといれば安心だよ。きみのように心の暖かい、いまどき珍しい青年に出会えて、私は幸運だった」
「よしてくれ。尻がこそばゆくなる」
貴志は、この憎めない性格をした世間知らずの老人に、すっかり怒る意欲をなくした。
それに、どことなく神戸の祖父に似ているところもある。彼は肩をすくめると、老人に言った。
「じゃあ、出かけるぜ、お爺ちゃん」

貴志はその日、夕方まで和泉老人とディズニーランドで過ごした。老人は子供のように目を輝かせてアトラクションを見物し、乗物に乗って無邪気にはしゃいでいた。また記念になるからと言って、貴志のデジカメで写真を撮らせ、腹が減ったと言っては、レストランで目の玉が飛び出るような、高い食事を注文した。
老人をパレスホテルまで送り届けたとき、貴志のなけなしの2万円は残りわずかになっていた。
[18/06/28 17:09 神亀]
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