(1)
速水貴志はすっかり舞いあがっていた。と言うのも、ようやく藤沢英二教授から、デートの約束を取り付けたからだ。
教授とデート?――大概の人は疑問に思うだろう。その疑問に答えるには、まず速水貴志の裏事情を話さなければならない。
物心つく前に父親を失った貴志は、年配の男性に強い憧憬の念を抱いて育った。その彼の男色指向を後押ししたのが、同居していた祖父の存在だった。
祖父は幼い貴志をことのほか可愛がった。二人はいつも一緒だった。仲の良い祖父と孫の関係は、貴志が成長していく過程で、より性的なものに変化していった。ついには高校生の時、祖父の肛門で童貞喪失の儀式をやるまでになっていた。
もちろん貴志にも、世間一般の常識はあった。男性同士の性愛は異端である。でも、頭で理解することと、心が欲求することは違っていた。永年、祖父との接触に馴染みすぎた彼には、年配男性を求める気持ちは、ごく普通の感情であったのだ。
さて、藤沢英二は貴志の通う大学の教授で、ゼミの担当教官であった。50歳になる独身者で、やや小柄な体型と飄々とした人柄は、学生たちに人気があって、定員10人という彼のゼミに入るだけでも、競争率の高い狭き門だった。
白いものの目立つ頭髪と血色の良い小さな顔、銀縁眼鏡の奥から覗く二十瞼のやさしそうな瞳――貴志は大学2年生のとき、国文学講座で教授の姿を見かけたときから、すっかり恋の虜におちいっていた。
父親を求めると同時に恋人を求める気持ち――貴志の複雑な心理状態が作用した。
それ以来、ことあるごとに、この年配の教授に接近した。学生食堂で、教授が昼食をとっている席に割り込んだり、教授の部屋を訪れて、さほど重要でもない学問上の質問を投げかけたり、涙ぐましいほどの努力で自分を売り込んだ。
その苦労の甲斐あって、大学3年生になったとき、藤沢教授のゼミにもぐり込むことができたのだ。そして教授のほうも貴志に気を許して、ファーストネームで呼ぶ親しみを見せていた。
しかし、教授との仲はそこまでだった。藤沢は乗馬クラブのコーチもやっていて、小柄だが颯爽とした乗馬姿は、学生ファンも多かった。
いつも教授の周りには、ゼミやクラブの学生たちがいた。貴志が、先生と生徒の枠を超えて、ふたりきりで愛を語るチャンスは皆無だった。
それでも明日は、転機が訪れようとしていた。バイト先で、東京ディズニーランドのチケットを2枚手に入れ、教授を誘ったところ、ふたつ返事でオーケイをもらったのだ。
貴志はアパートへの帰路を急ぎながら、心は早くも明日のデートに飛んでいた。
その老人を見かけたのは、電車からおりて、駅前広場を横切っているときだった。老人は、暗くなりかけた片隅のベンチに、ひとりでしょんぼりと腰かけていた。
普段なら見過ごしてしまうところだが、その老人のようすが妙に気になった。
白髪で、70歳前後だろうか。ウールのカーディガンに白いカッターシャツ、趣味の良い茶のチェック柄のネクタイ――近頃増えてきたホームレスとは、明らかに違う風体だ。
貴志は通りすがりに、老人に声をかけた。
「おじいさん、どうしたの?何か困ったことでもあるの?」
老人は声をかけられて、驚いた表情で貴志を見あげた。やや面長の顔は、いかにも育ちが良さそうだ。
「連れと、はぐれてしまいましてな」
顔つきと同様、おっとりとした口調で言った。老人の置かれた状況にしては、至極のんびりとしている。
「連れとはぐれた?お爺さん、どこに住んでるの?」
「今日、九州から出てきたばかりで――そのう――街をぶらついているときに、連れがいなくなったんだ」
(連れがいなくなったって?自分が迷子になったんじゃないか。ドジな爺さんだぜ)
貴志は老人に聞いた。
「今夜はどこに泊まる予定なの?」
「それが――」
老人は困った顔をした。「ホテルは連れの男が知っているので――」
「ええっ!お爺さん、ホテルの名前も知らないの?」
「――」
老人は返事をするかわりに、肩をすくめた。
「じゃあ、どうするつもりだい?」
「連れが来るのを待つよ。きっと私を探しまわっているはずだ」
すでに暗くなっているのに、えらく悠長な話だ。貴志はあっけにとられたが、思い直して言った。
「九州の家に電話をしたら?ホテルの名前くらいは、知っているんじゃないの?」
老人はぼんやりと返事をした。
「それが――携帯電話は、かばんの中に入れていたのでな」
貴志はいよいよあきれかえった。たしかに老人の身のまわりには何もなかった。彼はポケットから、自分の携帯をとりだしながら言った。
「かばんは連れの人が持ってるってわけだ。これで家に電話をしたら」
老人は、よっこらしょっと立ちあがった。その年代にしては大柄な体格だった。
老人は携帯電話を受けとると、口の中でもごもごと礼を言って、おぼつかない手つきで番号を押した。
「――ああ、秀信、私だ。加奈子はいるか?――いない?じゃあ、聡子は?――いっしょに出かけた?ところで、私が泊まるホテルの名前を知ってるか?――なあに、ちょっと度忘れしたんだ。それに渡辺ともはぐれた。――大丈夫だ、心配するな。それで、お前は知ってるのか?――知らない?じゃあ――」
老人ののんびりとした会話がようやく終わった。携帯電話を返してもらいながら、貴志は老人に聞いた。
「ホテルの名前は、わからなかったみたいだね?」
老人は鷹揚にうなずいた。
「妻と加奈子は外出していた。ほかの家人はホテルの名前を知らない。これまで何度か利用したことのあるホテルなんだが、私も度忘れしてしまった。たしか横文字のホテルだったが――」
「どのあたりにあるホテルだい?」
「いつも車で行ってたので――東京駅から、そんなに離れていなかったと思うけど」
「それだけじゃあわからないな。ホテルはたくさんあるからね。で、連れの人から家のほうに連絡はなかったの?」
「まだ電話はかかってきていない。しばらくここで待ってるよ」
老人は寒そうに腕を擦り合わせた。5月とはいえ、日が落ちるとまだ肌寒さが残っている。貴志は老人のようすを見て言った。
「ここにいるのは寒いだろう。とにかくぼくのアパートにおいでよ。歩いて5分くらいだから。そこから時々電話をしたらいい」
(おれも物好きだぜ)
貴志はそう思いながらも、先に立って歩き出した。後ろを見ると、老人は肩を落として、トボトボと歩いている。そのさまは、まるで迷子の飼い犬だ。
九州の片田舎から出てきて、不案内な大都会にひとりぼっちで取り残され、さぞかし不安な気持ちでいっぱいなのだろう。
貴志は、老人のしょんぼりとしたようすを見て、急にかわいそうになった。彼は歩み寄ると、老人の肩を抱き、励ますように言った。
「お爺さん、心配するなよ。きっと連れの人とも会えるさ」

貴志はワンルームのアパートを借りていた。神戸にいる母親が、毎月一定の仕送りをしてくれていたので、アルバイト代を足せば、生活費に困ることはなかった。
12畳ほどの部屋は、体格に合わせた大型のベッドに、学習机兼用の小さな食卓、それに本の並んだ書棚がある。
老人は、ひとつしかない食卓の椅子に腰かけて、物珍しそうに部屋の様子を見ていた。貴志がお茶を入れると、老人はすっかりくつろいだ態度でたずねた。
「学生さんですか?」
「ああ、大学3年生――」
そこで貴志は、まだお互いに名乗っていないことに気がついた。
「ぼくは速水貴志。タカシは高貴の貴に、高い志の志。親がつけた名前だけど、ぼくにぴったりの名前だと思ってるよ」
「――?」
「で、お爺さんは?」
「あ、これは失礼。和泉貴信です。イズミは平和の和がついている泉。タカはきみと同じ高貴の貴、それに信頼されるの信。私も、自分にぴったりの名前だと思ってるよ」
そこで老人は、部屋を見渡しながら言った。「質素だけど、いい部屋だね」
貴志は少しムッとした。
「質素で悪かったね――いやだったら、出ていってもいいんだよ」
老人はあわてて手を振った。
「いや、私はそんなつもりで言ったのでは――そのう、若い人のひとり住まいにしては、きれいにしている部屋だと言いたかったのだよ」
「ははは――」
貴志はわざとらしく笑った。そして、ぶっきらぼうに言った。「ありがとう、何もないことを遠まわしに言ってくれて。ところでお爺さん、晩メシは食べたの?」
老人はもじもじとした。
「財布がないもんで――」
「食べていないのかい?」
貴志はびっくりした。時計を見ると、8時を過ぎていた。
(――仕方がない、近くの店に連れて行くか)
彼は財布の中身を調べた。1万円札が2枚。明日のデートに備えた、なけなしの資金だ。その手元を老人が、無遠慮にのぞき込んだ。
「お、1万札が2枚ある」
老人がつぶやいた。
「のぞくんじゃない!」
貴志はあわてて財布を隠した。そこで、老人を店に連れて行く案を変更した。
「これは、あしたのデートと、仕送りが来るまでの生活費。ぼくにとっては、貴重な資金だよ」
貴志は戸棚から、買い置きのインスタントラーメンをとりだした。老人のためにラーメンを作ってやりながら、彼は言った。
「これで我慢しておくれ。あ、それから、冷蔵庫にリンゴがある。いいかい、リンゴだけだよ。ほかの食料には手を出さないで。それと、家に電話をしてみたら?」
貴志は携帯電話を食卓の上に置いた。出来たラーメンを老人が食べ始めると、自分は風呂に入った。
明日の教授とのデートに備えて、髪を洗い、体の隅々を洗った。
(何が起きるかわからんからな。ひょっとしたら――服を脱ぐような展開にも)
彼はひとりニンマリとした。
風呂からあがったとき、貴志は生まれ立ての赤ん坊のように、清潔になっていた。
老人はよほど空腹だったようだ。ラーメンの汁までも一滴残さず飲み干していた。リンゴもそのままかぶりついたのか、芯だけが残っている。
「きれいに食べたね。もうお腹は空いていないかい?」
「いや、じゅうぶんだよ。こんなにおいしいラーメンを食べたのは、初めてだ」
老人はおっとりとほほえんだ。
「それはよかった。ところで家の人とは連絡がついたのかい?」
「ああ、妻が戻っていた。それに連れとも連絡がついた。パレスホテルだった」
「パレスホテル!えらい豪勢だな。じゃあ駅まで送ってやるよ」
老人はモジモジした。それを見て、貴志は安心させるように微笑んだ。彼は老人を助けたことで、すっかり優しい気分になっていた。
「心配しなくてもいいよ。電車賃はぼくが出してやる。いいかい、東京駅に着いたら駅員に聞くんだ。パレスホテルなら、駅からそんなに遠くない」
「それが――」
老人は口ごもった。「連れに言ったんだ、今夜はここに泊まるって。こんな部屋に寝泊まりするのは、めったにないチャンスだからね」
貴志はあっけにとられた。なけなしの食料を消費された上に、この部屋に泊まるなんて、厚かましいにも程がある。彼は怒りを押さえて言った。
「爺さん、ここはホテルじゃないんだぞ。それにベッドはひとつしかない」
「私はかまわんよ、床で寝るから。よければその前に、風呂に入りたい」
そう言うと、老人はさっさと浴室に向かった。あとに残された貴志は、ポケッとして老人の後ろ姿を見送っていた。
(ほんとにおれはお人好しだぜ。よりによって、あんなボケ老人を家に連れ込むなんて)
彼はブツクサ言いながらも、老人のために、自分のパジャマと下着を押入れから取り出して、浴室に持っていった。
よほどきれい好きなのか、老人は浴室に半時間ほど閉じ込もっていた。
風呂からあがってきた老人の姿を見て、貴志は吹き出した。まるで大人のパジャマを着た子供のようだった。手足の裾が象の鼻のようにゆるんでいる。貴志はひざまずいて、老人の着ている衣服の裾を折り返してやった。
「これでよし――と。ところで爺さん、タダで泊まるのは心苦しいだろう。ぼくはコインランドリーに行ってくるから、そのあいだに部屋を掃除しておいてよ」
貴志は自分の脱いだ服と老人のものをひとまとめにした。部屋を出ていく前に老人のほうを見やると、掃除機を手にしてとまどった表情をしている。
「どうした、爺さん。掃除機を使ったことがないのか?」
貴志は老人に使用方法を教えてやった。老人がおぼつかない手つきで掃除機を使いだしたのを確認して、彼は洗濯にでかけた。