■ 風の新之輔第一部 - 第一部豊の国(三)
(三)
人間は夜より朝のほうが、力が湧く。
朝餉を済ませた海滑藩主首藤頼宗は、小姓の中でも一番若い小平太をみて、欲情を催した。
頼宗はひとこと言った。
「閨の用意をしろ」
部屋の隅に控えていた近習が、お上の意を量りかねて怪訝な表情をした。
「なにをしておる、早くいたせっ!」
頼宗は甲走った声をあげ、こんどは小姓のほうを見た。「小平太、相伴しろ」
そこで初めてお上の意に気付いた近習は、「ははっ」と言って、主の寝所に走った。
息詰まる刹那が過ぎると、頼宗は身を引いた。
胸の動悸が治まるのを待ちながら、床に伏す小姓の裸を見下ろした。
(余にはまだ力がある)
その思いに、胸の内に歓びが満ちてくる。
小平太が懐紙を使って、頼宗のへのこを丁寧に拭う。その姿を見ていると、ふと菊千代のことを思い出す。
もう一年以上が経つ。
頼宗ひとりによる詮議の場だった。
風間新之輔との仲を疑われた菊千代は、必死の表情で言い募った。
「わたくしがお慕い申し上げるのは、お上おひとりでございます。わたくしは決して新之輔どのと情を交わしておりませぬ」
「たわけっ!見苦しい言い逃れはよせ。これまでも公儀の席で、新之輔を見るそのほうの目つきに、余が気付いていなかったと思うたか」
「いえ、命にかけても誓います。そのようなことは決してございませぬ」
「ええい、黙れっ」
つい激して、菊千代を蹴り倒した。
その夜、菊千代は自害して果てた。残された書状には、お上への想いと身の潔白を、切々と訴えていた。
菊千代のことを思うと、苦い思いが込み上げてくる。
確かに菊千代の言ったことは、真実であろう。二人の間に肉の交わりは無かった。しかし、小姓が密かに新之輔を慕っていたのは、ちょっとした仕草を見れば分かった。
菊千代の心を奪った風間新之輔が憎かった。そして理不尽にも、菊千代が死んだのは新之輔のせいだと思った。
「お支度をされますか」
ふと気づくと、身づくろいを整えた小平太が声をかけていた。
右腰にわずかの疼痛が走った。
(先ほど腰を痛めたか)
頼宗は腰に手を当てて顔をしかめ、小姓に命じた。
「医師の小壺芳美を呼べ。それから、長尾にも来るように伝えろ」
小平太が恐る恐る確認した。
「あの、ご家老さまもご寝所にお呼びするのでございますか?」
「そうじゃ」
頼宗は甲高い声をあげた。
首藤頼宗は、母方の血を色濃く継いでいた。そのため、父の宗定のような大きな身体つきにならず、性格的にも神経質で癇が強かった。
三人の姉を持ち、幼い頃から女たちに囲まれて育った。そのことが彼をわがままにし、粗野な武を嫌う性向にした。
十七のとき、京の公家から正室として孝子を迎えた。もともと頼宗は男好きで、女に興味を示さなかったが、孝子が美少年のような顔立ちをしていたことから、閨を共にするようになった。そして、三年たって世継ぎとなる男子が生まれると、孝子と接することが少なくなった。もちろん側室もひとりとして置いてない。
今、頼宗は二十八歳になっていた。子の松太郎はすでに八歳となり、母の孝子と江戸屋敷で暮らしている。松太郎はおおらかで明るい性格をしており、容貌も身体つきも、父より祖父の宗定によく似ていた。
「お腰を診ます」
ひとこと断って小壺芳美は、うつ伏せになる若い藩主の腰に手を置いた。腰から尻にかけて、探るように手を這わせた。
「どうです、ここはお痛みになりますか」
「ふむ、そのあたりだ。少し痛い」
「では、こちらのほうはどうですか」
尻から左足の太もものほうに手を這わした。
頼宗がうめいた。
「うっ、そこにしびれがある」
ひと通り触診し終わって、芳美は言った。
「どうやら腰の筋を痛めたようです。左足がしびれるのは、神経にも障っているのでしょう」
「なんだ、神経とは」
「人の身体を動かすよう命令を伝える、蜘蛛の糸のようなものです」
芳美は説明した。「しばらく無理な動きをなさらぬよう、お気をつけください。少しお身体をお揉みしましょう。あとでお薬も届けます」
芳美は頼宗の腰から尻にかけて、ツボを探りながら手を這わせた。
頼宗が気持ちよさそうに声を出した。
「おお、芳美の手は気持ち良いのう」
小壺芳美が施術を続けていると、国家老の長尾将左衛門がやってきた。
「お上、御用がおありとか」
「将左衛門か。――風間新之輔に切腹を申し付けよ」
頼宗は、枕に顔を伏せたまま言った。
主君のいかにも唐突な命令に、長尾は戸惑った。
「風間新之輔に切腹させよ、と仰せですか」
長尾は確認した。
頼宗はこともなげに言った。
「ああ、今朝、あやつの顔が浮かんだら、無性に腹が立った。すぐ切腹させろ」
長尾は小柄な身体つきながら、胆が据わっていた。それに策略家でもあった。
「お上、風間は活かしておいた方が、得策かと存じます。あやつにはあやつの使い道がございまする」
「なんだ、使い道とは」
長尾は医師の芳美をちらりと見て、言った。
「お上、お人払いを」
「芳美はいい。ほかのものは下がっておれ」
小姓たちが下がると、お上の腰を揉む医師をちらりと見て、長尾は話を始めた。
「――宗顕さまとは、いずれ衝突するやも知れませぬ」
「だろうな」
「場合によっては血を見ることにも――」
「ありうるな」
「そのときに風間を使うのです」
長尾の言う宗顕とは、首藤宗顕のことである。前の藩主首藤宗定とは九つ離れた弟で、頼宗の叔父にあたる。兄同様、押し出しの強い、堂々とした風采の人物である。歯に衣着せぬ物言いをして、頼宗の藩政策を痛烈に批判していた。
しかも名のある一刀流の遣い手で、朱色の鞘の刀を差していることから、赤虎という異名がある。
藩士の中には宗顕の志に傾く者も多く、藩の為政者たちにとって、煙たい存在であった。
長尾将左衛門が言うのは、万が一、事態がひっ迫した場合、風間新之輔を使って首藤宗顕を弑させる、という提案だった。
城から下り、屋敷に戻った国家老の長尾将左衛門は、ひとり座敷にいて、考え事に耽っていた。
(切腹を取りやめさせるため、思わず言ってみたものの――)
将左衛門はお上とのやりとりを反芻しながら、思い悩んだ。つい口にしたことが、現実のこととなれば、大変なことになる。
(あのお方に伺いを立ててみるか――)
将左衛門は近習を呼ぶと、文を書く用意をさせた。
用意が整うと、文机の前でしばし考え、筆を取った。
書き終えた書状を読み直した。そのうえで、墨の乾いたのを確かめて折り畳み、封をした。
将左衛門は立ち上がって縁側に出た。
「千蔵――」
低い声で呼んだ。
地の底から湧き出たように、こげ茶の服に身を包んだ男が、庭先にひざまずいた。幾星霜を生き抜いた隙のない顔つきだが、頭は白かった。
「これを里の者に渡せ」
「御意」
忍び服の男はひとこと言って、封書を受け取ると、立ち去った。