■ スーパースター第三部 - (5)
(5)
結婚式の後、貴史は、知恵子の実家で新婚生活を送った。
彼は毎日、村松博士の療養所に通った。村松は、温浴療法を中心に、脚の筋肉を徐々に強化するメニューを組んでくれた。
焦らず、じっくりと――それが村松の口癖だった。
その甲斐あって、車椅子から開放されて、杖だけで歩けるようになったのは、予想よりも早かった。そのころには、娘の明日香は、早くもヨチヨチ歩きができるようになっていた。
(どちらが早く走れるようになるか、明日香と競争だ)
貴史は娘の成長を励みに、リハビリに取り組んだ。
ある日、貴史が村松の療養所で歩行訓練をしていると、カメラマンの伴が訪ねてきた。
最初は当たり障りのない会話がつづいた。そのうち貴史は、伴の様子がいつもと違うのに気づいた。言いにくいこともズケズケと言う老人が、今日は妙にしおらしかった。いつもなら、貴史の一言一言に、あれやこれやとへ理屈をつけるのに、きょうは素直に相槌を打つのだ。
貴史は切り出した。
「オーケイ、じっちゃん。はっきり言えよ。今日は何の用で来たんだ」
伴は何のことだと言うようにとぼけた顔をしたが、そのうちひょいと肩をすくめ、彼にしては珍しく慎重な口振りで話しはじめた。
「そのう――おまえは結婚したことだし、人生のひとつの節目を迎えたと思うんだ」
「だから何だって言うんだ?」
伴は厚ぼったい唇を、舌先で湿らせた。それから、おずおずと言った。
「わしはこれまで、おまえの写真を10年間、撮り続けてきた。おまえが福岡国体のとき、ハードル競技で優勝して以来だ。それで、この期に、野球選手、高山貴史の記念アルバムを発表したいんだ」
貴史は動揺した。
(野球選手、高山貴史の記念アルバムだって。ぼくは過去形の人間なのか?)
そのとき、部屋にいた村松が、二人のほうにやってきた。
「待ちなさい。記念アルバムだなんて。伴さん、あなたはまるで、貴史くんが引退したようなことを言うんだね」
「違う!」
伴が強い口調で言って、村松をにらみつけた。「わしは、そんなつもりで貴史の写真集を出すんじゃない。貴史は立派に蘇るよ。わしは、ひとつの節目だと言ったんだ」
「そうかな?どうもわたしには、あんたのこじつけのように聞こえるが」
二人の年配者がにらみ合うのを見て、貴史はやれやれと間に割って入った。
「ハイ、二人ともそれまで。じっちゃん、ぼくはあまり乗り気がしないな。だって、ぼくのプライバシーを世間に晒すようで、いやな気分なんだ」
「そんなことはない。もちろん出版する前に、貴史にチェックしてもらう。だから、いいだろ?」
「――ぼくのアルバムか。なんだか恥ずかしいな」
「何を言ってる。おまえは国民的英雄だぞ。プロ野球始まって以来のスーパースターだ。恥ずかしがることはない。それに野球ファンは、おまえのスーパープレーの思い出を、いつまでも大切にしておきたいはずだ」
「そうかなあ――」
「そうだよ。現に、わしだってそう思っている」
「わたしは反対だな」
横から村松が、きっぱりと言った。「どうも伴さんの話には、商業主義の匂いがする。だって、貴史くんの思い出を大切にしたいのなら、別に写真でなくてもいい。心の記憶にとどめていてもいいじゃないか」
ふたたび二人の老人の間で、冷たい火花が飛び交った。
「先生、わしはあんたの写真集を出すとは言ってないんだぞ。黙っててくれるか?」
伴は釘を刺すように言うと、貴史の方に振り返った。彼の話し振りは、しんみりとした口調に変わっていた。
「わしがみんなに、変人と思われているのは分かっている。それはそうだな、ひとりの若者を追っかけて、10年間も写真を撮り続けてきたんだ。
でもな、わしは変人と思われようと構わんよ。おまえの強烈なカリスマ性は、他の誰よりも、わしが一番感じたことだ。それにおまえは、わしの見込み違いじゃなかった。事実、おまえはこの国のヒーローになった」
「――」
「わしは写真一筋に生きてきたが、これまで目立った評価も受けていない。それにわしは、もうすぐ68歳になる。棺桶に片足を突っ込んだ老人だよ。だから、おまえの写真集をわしのライフワークにしたいのだ」
「――」
「けっして、わしの私利私欲のためじゃない。皆に感動を呼び起こさせたひとりのプロ野球選手の魅力を、写真を通して世の中に知らせたいんだ」
伴が話し終えると、村松が冷笑した。
「横で聞いていると、哀れっぽい老人を装って、同情を誘っているように聞こえるね」
伴はその言葉を無視して、訴えかけるように、貴史の顔を真っ直ぐに見た。
「それで――」
貴史はおもむろに言った。「ぼくの写真集を出版するとして、利益の分け前は2割5分だったな」
伴は信じられないという表情をした。
「貴史――わしが高邁な気持ちで言ってるのに、おまえは――」
そこで彼は、頭を振った。「いや、よそう、おまえに言うだけ無駄なことだ。ああ、確かに、利益の2割5分はおまえのものだ」
「じゃあ、さっそく契約書を作ってくれ」と貴史。
「貴史、おまえなあ――」
伴は言いかけて、あきらめたように口を閉ざした。
その横から、村松が心配そうに言った。
「貴史くん、いいのか?今、写真集を出せば、きみは野球をあきらめたとファンに思われかねないぞ」
貴史は明るく笑った。
「野球はあきらめちゃあいない。でも、じっちゃんの言うように、今はひとつの節目なんだ。ぼくはいったん引退宣言をするよ。それがケジメだから。ぼくが復活するのは、その後だよ」
――◇――
甲子園球場における最終戦のあとに、貴史の引退セレモニーが行なわれることになった。すでにリーグの順位は決まっていて、貴史の抜けたタイガースは5位にあまんじていた。
試合後だというのに、スタンドはぎっしりと観衆で埋まっていた。対戦相手のベイスターズの選手たちも、貴史に敬意を表して球場に残っていた。
グラウンドを照らす照明が、すべて消された。
暗闇に静寂がながれた。
突然、なつかしいロックの音楽が流れ出した。
得点チャンスで、貴史がバッターボックスに向かうときに流された、血をかきたてるような曲が――。
曲の音量がじょじょに大きくなった。そして3条のスポットライトがマウンドを照射した。
そこには――縦縞ユニフォーム姿の貴史の姿があった。
大歓声が巻き起こった。
それは地の底から湧き起こり、球場全体をゆるがせた。
観客たちは一瞬、貴史がいつもの元気な姿で、タイガースに戻ってきたのだと狂喜した。しかし、貴史の左手にはステッキが握られていた。非情な現実に気づいた観客たちの歓声が、じょじょにしずまっていった。
ふたたび静寂が球場を押し包んだ。
貴史はマイクにむかって、語りかけるように話しだした。
「この5年間、ぼくは最高にしあわせでした。大勢のファンの方たちの声援をうけて、タイガースで野球をやることができました。それに優勝の感激を味わうこともできました。そしてぼくは、プロ野球を通じて、本当に大切なことを教わりました。
それは人と人の心の触れ合いです。今の世の中は、豊かになりすぎて、人の心の大切さを見失いがちです。
ぼく自身、その大切なものを忘れかけたときもありました。
でも気づきました。すべてを失っても、あったかい仲間の友情があれば、なにも恐くない。それを教えてくれた人たちに感謝します。
ありがとう、タイガース選手の皆さん。
ありがとう、球団のかたがた。
そしてなによりも、この5年間、ぼくを応援し続けてくださったファンのみなさん――おおきに!」
どっと歓声が沸いた。
貴史は片手を挙げて、歓声が静まると、話を続けた。
「ぼくはご覧の通り、事故で脚を傷めました。医者のひとたちは、野球ができるようになるのは、奇跡が起きないかぎり不可能だと言いました。
でもぼくは、奇跡を信じます。ぼくはあきらめません。だから、きょうの引退式は、この5年間、ぼくを応援してくださった皆さんに対する、感謝の気持ちだけをお伝えします。
そう、しばしのお別れの挨拶です。みなさん、待っててください。ぼくはきっと、みなさんの前に戻ってきます!」
大歓声のなか、球場のすべての照明が点灯された。
タイガースの選手たちが、いっせいに貴史のもとに駆け寄った。
感激したファンたちも一緒になった。
ゲイルたちに肩車されて、球場を一周する貴史の目から、涙がとめどもなく流れ落ちた。その夜は、選手も観客も、甲子園球場始まって以来の多くの涙が流された。