■ スーパースター第三部 - (5)
(5)
その年のシーズンが終わったとき、貴史は日本プロ野球史上初の打率4割を達成していた。1番バッターに徹して、ホームランよりヒットを打って塁に出ることを選んだのだ。
一部のファンは豪快なホームランの減ったことに不満を言ったが、それでも彼は、47本の本塁打を打って、5年連続のホームラン王のタイトルを守っていた。
それに加えて、彼の成し遂げた4の4の4――打率4割、ホームラン40本、盗塁40個以上は、数次がひとつ小さい3に置き換えても希なことなのに、まさに超人的な記録だった。
しかし、彼の輝かしい個人記録にもかかわらず、阪神タイガースは優勝を逃したどころか、かろうじて3位にとどまっていた。
肌寒い季節が近づくと、貴史は毎日のスケジュールに追われた。テレビ出演、記念行事、親睦ゴルフ、講演会――。
シーズン中よりも多忙なくらいだった。
わずか5年間でプロ野球界における数々の金字塔をうちたてた貴史に、各界からさまざまな賞が贈られた。その表彰式に出席するだけでも、スケジュール調整に大変だった。
そんな多忙なスケジュールの合間に、貴史は八馬オーナーの自宅に呼ばれた。八馬の家は芦屋の小高い丘にあり、樹木の生い茂る広大な敷地に建つ、2階建ての瀟洒な邸宅だった。屋敷には球団社長の小津もきていた。
「よお、スーパースターのおでましだ」
八馬がソファーから立ち上がりながら、貴史に握手を求めてきた。タイガースが優勝を逃したにしては、すこぶる上機嫌のようだった。
「ご無沙汰しています。忙しかったものですから、つい不義理をしてしまいました」
「いいんだ。有名人ともなると、他が放ってはくれないからな」
「オーナー、お元気そうですね」
「きみのおかげだ。阪神タイガースからスーパースターが生まれたんだからな。こんな名誉なことはない」
「ぼくは嬉しくないですよ、チームが優勝できなくて――」
八馬は、そのことをちっとも気にかけていない様子だった。彼はあっさりと言った。
「来年頑張ればいい。そろそろ中山も、監督業に馴れてきたことだし、来年は大丈夫だ」
「そうですかね。はっきり言って、あの人は駄目です。勝ち星や結果ばかりを気にしすぎて、選手の心を掴めていない」
それまで黙っていた小津が、横から言った。
「おいおい、手厳しいことを言うね。タイガースの中心人物がそんなことを言ってると、チーム内の不和にもつながるぞ」
「ぼくはチーム内で、そんなことはひとことも言いませんよ。不平があるなら、監督の部屋に行って直接言います」
八馬が目を細めて、貴史を鋭く見た。
「しかしきみは、大川監督のときには、選手たちの前で、なんどもやり合ったらしいじゃないか」
「相手が大川さんだからです。あの人には、反対意見を受けとめる包容力があるし、正面からぶつかりあう度量があった」
小津がとりなすように言った。
「そうか――たしかに大川さんは名監督だった。しかしそれも、きみという名選手がいたからだ。彼にくらべれば、中山くんはまだまだ若い。暖かく見守ってやりなさい。きみがバックアップしてやれば、彼だって名監督になれるよ」
「――」
貴史は黙り込んだ。これ以上言っても無駄だと悟ったのだ。と同時に、二人の年配者の野球に対する情熱をうらやましいとも思った。
実のところ、彼の心の底では、野球に対する言いようのない虚しさが、じんわりと浸透していたからだ。
「ところで、オーナー、今日は何の用だったのですか?」
「ああ、きみに紹介したい人がいるんだ」
八馬は立ち上がると、部屋の隅のデスクに歩み寄った。戻ってきたとき、彼は書類と一枚の写真を持っていた。
受け取った写真を見ると、上品な顔立ちの若い女性が、庭園の芝生の上に立っていた。背後には、洋館造りの豪邸が写っている。書類のほうは、その女性の履歴書らしい。奥村美恵子、24歳。東京の私立大学を卒業して、現在は大阪の銀行に勤めている。趣味は、ピアノ、生け花、お茶、テニス。
貴史が書類から顔を上げると、八馬が満足そうに微笑んだ。
「どうだ、なかなかの美人だろう。彼女は関西でも有名な財閥のご令嬢だ。彼女のお父さんは、わしや小津くんとも親交があってね。どうだ、一度、彼女と会ってみるか?」
「と言うことは、ぼくにお見合いを勧めているんですか?」
書類を返しながら、貴史は聞いた。
「そういうことだ」
八馬が満足そうにふんぞり返った。
その横で、小津がにこやかな笑顔で言った。
「わたしは美恵子さんを知ってるけど、性格の素直な素晴らしい女性だよ。それに彼女はきみの大ファンなんだ」
貴史は迷惑そうに、顔をしかめた。
「たしかに美人のようですけど、あまり興味がわきませんね」
「おいおい、関西の種馬がなんてことを言うんだ。女となると、見境いがつかなくなるきみが――どこか具合が悪いのか?」
「どこも悪くないですよ。ただ、いまはまだ、家庭を持って落ちつく心境になれないだけです」
貴史の言葉に、二人の年配者は顔を見合わせた。
八馬オーナーの屋敷から退出したあと、貴史は大阪の小料理屋に出向いた。劇作家の多岐とアナウンサーの賀来との、プライベートな予定があったのだ。
彼はウツの気分のまま、店に入った。
「よう、408のお出ましだ」
作家は貴史の顔を見るなり言った。貴史が今季、4割8厘の打率だったのを言っているのだ。
「お久しぶりです、先生。あいかわらずお元気そうですね?」
貴史は神妙な顔をして、年配者たちに向かって丁寧に挨拶した。
おたがいに、チクリチクリと言い合うことを楽しみにしていた作家は、拍子抜けしたように、黙って貴史の顔を見た。その横では、賀来が満足そうにほほえんでいた。
「きょうは正常な会話ができそうですね。ところで高山さん、夢の打率4割を達成されておめでとうございます」
「ありがとうございます。これも賀来さんをはじめ、タイガースファンの皆さんの暖かい声援のおかげです」
「でも、なんで、4番バッターから1番に戻ったんですか?」
「それは監督が決めたことですから」
「中山さんも分からんことをしはるなあ。高山さんは、史上最強の4番バッターやったのに。メジャーリーグから呼んだ外人さんは、全然助っ人になっとらんじゃないですか。そのへんのところ、高山さんも1番バッターに戻されて、監督になにか言いたいことがあるんとちゃいまっか?」
「それは監督に聞いてください。ぼくは監督の指示どおりに、野球をやるだけですから」
横から作家が口出しした。
「にいちゃん、えらい殊勝なことを言うやないか。どこか具合が悪いんとちゃうか?」
賀来が、作家の横やりを無視して言った。
「それにしても、中山さんと前の監督の大川さんとでは、采配もかなり違うんやないですか?」
「それは、監督だって人間ですから、それぞれの個性はありますよ」
そこで抑えていた、いたずら心がムクムクと起き上がった。「たとえば60過ぎのお年寄りでも、髭を伸ばして粋がったり、赤いセーターを着て、妙に若作りしている御仁もいるでしょう」
「そういえば――」
賀来は、赤いセーターを着た作家のほうをチラリと見た。「そんなご仁もいますわなあ」
作家がニンマリとして、それから憤慨したように言った。
「二人して、わしをおちょくってるのか?だいたい――」
作家の話を遮るようにして、貴史が言った。
「賀来さん、先週のサンデーモーニング、見ました?その年寄りが、若い美人キャスターを前に、年甲斐もなく鼻の下をのばして。あれはどう見ても、5センチは伸びてたなあ」
作家がなにかぶつくさと言ったが、貴史とアナウンサーは、完全に彼を無視していた。
「へーえ、そうでっか?よっぽど色ボケした年寄りでんな」
「いつよだれを垂らすかと、ヒヤヒヤしながらテレビを見ていましたよ」
「おお、いやだ、いやだ。年は取りたくないもんですな」と賀来。
「じゃかんしい!」
とうとう作家が爆発した。「色ボケしとんのは二人やないけ。賀来さん、このまえスナック舞姫の姉ちゃんが言ってたぜ。賀来さんって、チビのくせに立派なモチモノしてるって。どうしてあの娘、そんなこと知っとるんや?それから種馬のあんちゃん、最近、しものバットが短くなったんとちゃうか?短打ばっかしで、外野席まで届かんが」
「――」
貴史と賀来が黙り込んだ。
「だいたい、チームが3位におちぶれてんのに、4割バッターやとか浮かれ騒ぐのがおかしいわ」
「――」
「あんちゃん、牙を抜かれて猫になったんかいな。今年は野球の迫力が、全然ないやんけ」
「――」
「遊びがたらんのやろ。なんなら女を紹介してやろか?」
そこで貴史がボソッと言った。
「女はあきましたわ。先生が相手をしてくれまっか?」
「――」
こんどは作家が絶句する番だった。彼はしばらく貴史の顔をみていたが、気を取り直して言った。「お、おもろいやんけ――にいちゃん、最近、宗旨替えしたんかいな」
「たまには気分転換してみたいんですわ。毎度毎度のパターンじゃなくてね。このままじゃ気合いが入らない――」
貴史は最後まで言わなかった。
作家とアナウンサーは黙り込んで、貴史の顔をじっと見ていた。