■ スーパースター第三部 - (2)
(2)
その日の首位決戦は、球界史上に残る名勝負となった。
両軍のエースピッチャーの好投で、序盤は緊迫した投手戦となった。打席が2巡目にはいると、じょじょに打者に当たりが出始めた。
とくにその日3番バッターだった、ゲイルの調子がよかった。しかし、野手のいくつかのファインプレーがでて、スコアボードは7回の表までゼロ行進がつづいた。
見ていて胃の痛くなるような、緊迫したゲームだった。
7回の裏、色とりどりの風船が空気音をたてて球場内を舞った後、タイガースの攻撃が始まった。
先頭バッターの大飛球を追ったセンターが、フェンスに激突した。しかし彼は倒れながらも、グラブにはいったボールを落とさなかった。
広島のピッチャーに疲労の色が見え始めていた。しかし彼はふんばって、次のバッター、ゲイルをライトフライに討ち取った。
3人目のバッターは貴史だった。彼はそれまでふたつのフォアボールと、3塁打を1本打っていた。
ピッチャーズマウンドに集まった野手たちが持ち場に戻り、プレーが再開されたとき、キャッチャーは立ったままだった。
またしても敬遠――。
球場に不満の声が沸き起こった。
1球、2球、3球――ピッチャーはブーイングの声を背景に、1塁寄りに立つ捕手めがけて球を投げた。彼は観客のヤジにくさっていた。その気持ちが投球に微妙に影響した。
4球目はわずかに低く、そしてホームベースに近かった。
左足を一歩前に踏み込んだ貴史のバットが、一閃した。
ボールは高いライナーでライト方向に飛んでいき、ポールにぶちあたった。
大歓声を背中に受けて、貴史はなにごともなかったかのように、うつむき加減にダイヤモンドを走った。彼はホームベースの手前で宙返りをうつと、ベースの上で両手を高く突き上げ、喜びをいっきに表現した。
1点先取!
しかし、タイガースのピッチャーも疲れていた。彼は8回の表にタイムリーヒットを打たれて同点に並ばれ、最終回にも1点をとられて逆転された。
そのあとは継投のピッチャーが押さえて、タイガースは1対2で最後の攻撃にはいった。
先頭バッターにヒットが出たとき、タイガースファンがふたたび湧きたった。ピッチャーの代打にヒットが続くと、いまや勢いはタイガースに移って、逆転勝ちするのも時間の問題かと思えた。
しかし、点はなかなか入らなかった。つづくバッターが力みすぎて三振、つぎはあわや抜けるかという痛烈なゴロを打ったが、ファーストに好捕された。
その日、3番にはいっていたゲイルがツーアウト2、3塁で打席に立ったとき、貴史はダッグアウトで立ち上がった。
「監督、あいつは多分フォアボールだぜ。ついに、野球史上に残るぼくの見せ場がきたか」
彼はそう告げると、ネクスト・バッターズサークルに向かった。
貴史の言った通り、その日、守備の好補にさえぎられていたが、当たりのいい打球を飛ばしていたゲイルが、粘ってフォアボールで塁に出た。
9回の裏、ツーアウト満塁。しかもタイガースの4番バッター、貴史の打順だった。
球場に強烈なロックのビートが響きわたった。
その音を背景に、貴史が悠然とバッターボックスに向かったとき、鳥肌の立つような異様な興奮が球場内を押し包んだ。
タイガースファンが総立ちになった。
相手ピッチャーは、マウンド上で仲間たちに囲まれて、激励されていた。
「いいか、やつだって人間だ。打ち損じもある」
「そうだ、自信を持て。お前のボールには勢いがある。前回は逃げて打たれたんだ」
「フォアボールだけは出すなよ」
「度胸をすえて、ど真中に投げろ。おれたちが守ってやるからな」
「そうだ。いいか、押し出しだけはやめろよ」
仲間たちが散っていった後、ピッチャーは蒼白な顔をして、マウンド上に立っていた。ここで敬遠すれば同点になる。そしてそのあとは――。彼は逃れられないのを悟った。
ピッチャーはバッターボックスの相手打者を見た。
そのとき打者は、奇妙なしぐさをした。右手のバットを地面に立て、まっすぐ彼のほうを見ながら、左手を挙げてセンター方向を指さしたのだ。
球場がどっと沸いた。
なんと貴史は、ベーブ・ルースがやったという、打つ前にホームランを宣告したのだ。
「あのバカ。なに意気がってんだ」
ダッグアウトで大川がつぶやいた。
貴賓席でも、同じような会話が交わされていた。
「なにやってんだ、あのアホウ。この大事な場面に、ドラマでも演じてるつもりか?」
八馬会長のつぶやきに、小津社長が興奮した声で言った。
「オーナー、高山くんならやりますよ。きっとホームランだ」
八馬は、妙に自信たっぷりな小津の顔を、驚いた表情で見返した。
貴史はひと振り、ふた振り、素振りをして構えた。
かつてなかったほどの充実と自信を覚えた。頭の中からは、雑念やグラウンドの騒音が消えていた。そのときの彼は、無心の境地に近かった。
バッテリー間のサインが決まった。外角低めの直球――。
ピッチャーはおおきく振りかぶった。
投げた――。
力みすぎて指に引っかかったのか、ボールはベースの手前でワンバウンドした。キャッチャーがボールに飛びつき、かろうじて後逸をまぬがれた。
キャッチャーはすかさずタイムをかけると、ピッチャーの所に駆け寄った。
「力むな。ワイルドピッチで、さよならになっていたところだぞ。いいか、あれは奴の作戦だ。次も外角低めで行くからな」
キャッチャーが戻ると、ピッチャーは気持ちを落ち着けるように、大きく深呼吸した。ところがあろうことか、バッターは彼のほうを見ながら、またしてもセンター方向を指差している。
(ふざけやがって。バカにするのもほどがある)
ピッチャーは怒りを覚えながら、第2球目を投じた。ボールはわずかにシュート回転して内側に曲がってきた。
貴史は鋭くスイングした。バットの真っ芯でとらえられた白球が、夜空に高く舞い上がった。
観衆が固唾を呑んで見守った。
長い滞空時間ののち、ボールはセンターのバックスクリーンに当たって跳ね返った。スタンドに一直線に突き刺さる、貴史のいつものホームランとは違っていた。
貴史は両手に残る会心の当たりを満喫しながら、ゆっくりとベースをまわった。興奮したファンがスタンドを乗り越えてきて、警備員に制止させられた。
阪神ベンチは、まるで優勝したような大騒ぎだった。
『敬遠のボールをホームラン』『予告ホームランを実現――9回の裏、逆転満塁サヨナラホームラン』
一度にふたつの話題を日本国中に提供した貴史を、新聞各紙は国民的な英雄あつかいにして、一面のニュースに乗せた。テレビの画面にも、貴史がホームランを打った瞬間のシーンが、何回も繰り返し放映された。いまや、プロ野球を知らない人たちまでが、貴史の顔と名前を知っていた。
そして阪神タイガースの連勝は、とうとう残り試合まで続いた。
優勝が決まったとき、グラウンド上で大川監督の老体が何度も宙に舞った。
奇跡の大逆転優勝だった。
タイガースはその勢いで、日本シリーズにも勝って、一気に日本一の座に登りつめた。
チームだけでなく、貴史個人も数々の記録を樹立した。彼は敬遠のボールをホームランして以来、フォアボールを挟んで7打席連続の本塁打を放ち、そのシーズンのホームラン数は実に61本と、驚異的な記録を達成していた。ケチで知られた八馬会長さえもが、彼の偉大なホームラン記録に敬意を表して、約束の打率4割のかわりに、1千万円を特別ボーナスとして提供したくらいだった。
リーグ優勝が決まった夜の祝勝会は、貴史にとって、生涯忘れられない思い出になった。会場の床にビニールシートが敷き詰められ、選手たち全員がビール瓶を両手に持って、ビールの掛け合いに興じていた。同僚たちにかけられたビールでびしょ濡れになりながらも、貴史はこのときとばかりに、大川監督の頭にビールをぶっかけた。
「おいタカ、おめえ、なんだか殺気立ってないか?」
大川は、貴史の手荒い祝福を受けて、ずぶ濡れになりながらも、優勝を果たしたその顔にはまだ余裕があった。
「そんなことないっス、監督。優勝を喜ぶ素直な気持ちのあらわれですよ」
「そうかい。おれにはなんだか、日頃の恨みを晴らしているように感じられるけどな」
「またまた――監督、ぼくの愛情表現ですよ」
「よせやい。おめえの愛情なんて、いらねえや」
「そんなこと言わずに、監督、ぼくの愛を受けてくださいよ」
貴史は調子にのって、大川の頭にもう一本のビールの中身を注いだ。たまらず大川が、おどけた悲鳴を上げて、逃げ出した。それを報道陣のテレビカメラが追いかけた。その中に、老カメラマンの伴の姿もあった。今度は伴が、貴史の格好の餌食になった。