■ スーパースター第三部 - 第6章 再生への道筋
(1)
貴史は命に別状なかったが、左脚の損傷がひどかった。大腿骨とひ骨が複雑骨折して、膝蓋骨が割れていた。大腿筋のひどい打撲傷に、関節外靱帯も切れ、神経系統も傷んでいた。
背中と左頬も、打撲傷で青黒く変色して腫れあがっていたが、そこは見た目ほどにはひどくなかった。
難しい手術が続いた。
その間、貴史は麻酔で意識を失っていたので、その手術がどのくらい続いたのかを知らなかった。
患者がいまをときめく高名な野球選手だということは、医師たちのだれもが知っていた。なかには彼の熱烈なファンもいた。しかし、彼らはつとめて冷静に、全精力を傾けて、プロの医師としての技量を発揮することだけに集中した。
さいわい患者は、強靱な体力の持ち主だった。とうとう彼らは、ひとつのミスもゆるされない難解な手術を終えた。
しかし、彼らの表情は暗かった。手術は無事成功したが、彼らは知っていた。――もうこの患者の選手生命は、終わりだということを。
手術室の外では、村松博士と、鎌倉から駆けつけてきた貴史の両親が、手術の終わるのをひっそりと待っていた。彼らは極度の心労から、ものを言う気力も失っていた。
白球がうなりをたてて飛んできた。貴史は、顔すれすれに避けた反動で、背後にもんどりうって転んだ。
「どうした?起きろよ」
大川の温顔が頭上にあらわれ、肉づきのよい手がさしだされた。
つぎに貴史は、1塁ベース上にいた。ピッチャーがうつむいてこちらをうかがい、すばやくバッターを振り返った。
チャンス!
貴史は絶妙のタイミングでスタートした。
いただき!
貴史は走りながら確信した。
もう2塁ベースは――はるか遠くにあった!
彼はあせって脚をばたつかせた。2塁ベースはちっとも近づかない。
下を見て愕然とした。
足がない!
目を覚ました貴史は、汗をかいていた。彼は身動きひとつできなかった。左脚はものものしい包帯の層で覆われ、吊り具に固定されていた。
彼以外だれもいない病室は、白々しい蛍光灯のあかりの下で寒々としていた。物音ひとつしない静寂の中で、ときおり遠くのほうから、救急車のサイレンの音が近づいてきた。
貴史は急に孤独を覚えた。麻酔が切れかけて、左脚が痛みだした。しかし彼はそれを歓迎した。痛いということは治っている証拠なんだ。そう自分に言い聞かせて、彼は痛みに耐えた。
担当医が病室を出ていったあと、貴史はベッドの上で白っぽい天井を見つめていた。
頭の中は、医師の言葉を反芻していた。彼は事実だけを医師に求めた。医師は客観的に、貴史の脚の状況を説明したのだ。
「――と言うことは、もうぼくは、野球ができないということですか?」
「ああ――回復の程度はリハビリ次第だが――骨はそのうち結合するし、筋肉もトレーニングをすれば、ほとんどもとのように回復するだろう。
問題は神経系統なんだ。プロ野球のような、機敏な反射神経や過酷な運動に耐えられるまで回復するか――むごいようだけど、はっきり言って確率はほとんどないね」
「でも確率がゼロだとは、おっしゃっていませんね?」
「ああ――奇跡が起きればね」
(奇跡か――ぼくは何だって出来るんだ。見ていろ、きっとカムバックしてやるからな)
そう思いながら貴史は、ウトウトと眠りについた。
入院して1週間後に、貴史は集中治療室から一般病室に移された。点滴装置も取り外されていた。訪問者との面会も許可されたが、貴史は誰とも会いたくなかった。
意識が覚めているあいだは、ずっと悩みつづけていた。奇跡を信じる気持ちが、日毎に薄れていた。もう野球はつづけられない――その事実が重くのしかかってきて、絶望感が精神をむしばみ始めた。
貴史の病室に、彼の両親が入ってきたときのことだった。
彼らはそれまで、眠っている息子の姿を、遠くからでしか見せてもらえなかった。彼らは憔悴した息子の顔を見て驚いたが、その気持ちを押さえて、つとめて明るく振舞おうとしていた。
「よう、ぼうず。だいぶよくなったようだな」
父親のなつかしい笑顔を見て、それまで押さえていた自制の糸が切れた。
貴史は父親にしがみついて、堰が切れたように泣き出した。
「父さん、ぼくの脚が――もう野球ができないんだ――そんなの嫌だ!ぼくはどうしたらいいんだ――」
子供のときから泣き顔など見せたことのない息子が、体を震わせて泣きじゃくるのを、父親は無言で抱きしめていた。
貴史の興奮が収まったところで、彼は静かに話しだした。
「貴史、おまえの脚の状態は、先生からくわしく聞いた。望みはあるよ。あとは、おまえ次第だ。いまは苦しいだろうけど、いつかはおまえが立派に立ち直るのを、わたしたちは信じているよ。
だって、おまえはこれまで、こうと決めたことは必ずやり遂げてきたじゃないか。わたしたちは、そんなおまえを誇りに思っている。だけど、おまえは性格的に、すこし先を急ぎすぎるところがあるな。こんどは焦らずに、じっくりと脚を直すことだ」
母親が話しかけた。
「貴史、わたしはしばらくこちらで暮らすわ。お父さんはひとりで不便でしょうけど、あんがい一人暮らしで、羽を伸ばすかも知れないわね」
「おいおい、アンリ。それじゃあ、まるでわたしが、一人暮らしを楽しみにしているようじゃないか」
「あらっ、違ったかしら?」
貴史の母は、白人系ハーフだった。上品で優しそうな容貌と、ウィットに富んだ明るい性格の女性だった。彼女を見ていると、貴史の沈んだ気持ちが、いくぶん軽くなった。
「母さん、今どこに泊まってるんだい?」
「この1週間は、ホテル住まいよ。このままでは破産してしまうから、今日からはあなたのマンションにいくわ。部屋の鍵をちょうだい」
「上着のポケットに入っているよ。でも、部屋は掃除してなかったよ」
「わかっているわ。あまりの散らかりように気絶しないよう、心の準備をして部屋に入るから大丈夫。あ、それから――宇野知恵子さんていう若い女性が、毎日、病院にこられていたわ。なんでも、あなたの学生時代の後輩だって。性格の素直な可愛らしいかたね」
母親の話を最後まで聞かずに、貴史は眠りについていた。
「おい、ターくん、今のはすごい球だった。おじいちゃんの手がジンとしびれたぞ」
祖父が眉をしかめ、おおげさに手を振った。それからおおらかに笑った。その大きな笑顔を見て、貴史は有頂天になった。
「よーし、おじいちゃん。こんどはもっと早い球を投げるよ」
彼は祖父めがけてボールを投げた。ちょっと肩に力が入りすぎた。ボールは大きく逸れて、庭の外に飛んでいった。祖父は、やれやれと貴史に向かって肩をすくめると、外に走り出した。
祖父の姿が見えなくなった途端、タイヤの軋り音がした。祖父の小さな悲鳴――。
「おじいちゃん!――おじいちゃん!――」
貴史は目を覚ました。汗をびっしょりとかいていた。誰かが彼をなだめるように、額を撫でていた。父親だった。その背後から母親が現れて、濡れたタオルで彼の顔や首を拭いてくれた。
「おじいちゃんの夢を見ていたのか?」
父親が聞いた。
貴史は涙の滲んだ目をしばたかせて、つぶやいた。
「車なんか――大っ嫌いだ」