■ スーパースター第二部 - (6)
(6)
宇野知恵子は、マンションの玄関前で迷っていた。もう夜の9時をまわっている。それでも帰りそびれていた。
ニュースで見る最近の高山貴史の行動。それは彼女が知っている、以前の先輩の姿ではなかった。
しかし、彼女はその原因も知っていた。朝丘友見の死――。いくらマスコミが先輩とタレントたちの関係を書き立てようと、先輩が唯一愛していたのは友見しかいなかった。自分では問題の解決になりそうもない。しかし彼女は居ても立ってもおれず、ここまでやって来たのだ。
そのとき車がとまり、年配の男が車から出てきた。見覚えのある顔だった。
「おや、宇野さんの娘さんじゃありませんか?」
男が彼女に声をかけた。「阪神球団の小津です。あなたのお父さんには、いつもお世話になっています」
小津は知恵子の用件をたずねた。知恵子が高山を待っていることを告げると、彼は眉をひそめた。
「高山くんなら、さっきまで、わたしといっしょに寿司屋にいましたよ。まもなく帰ってくるはずだ。それにしても、もう遅い。若い女性がこんなところにいるんじゃ、なにかと物騒だ。わたしのところで待っていなさい」
知恵子は小津の誠実そうな顔を見て、申し出を受けようかと思ったが、高山先輩との仲を誤解されるかも知れない、と思いなおした。
「ありがとうございます。でも、もうすっかり遅くなってしまいました。わたし、今夜は帰ります」
小津はうなずくと、「気をつけて」とひとこと言って、マンションのなかに消えていった。
球団社長と別れたあとも、知恵子は玄関脇の薄暗がりで待っていた。どうしても一目、先輩の姿を見たかった。
ときおりマンションの住民が帰ってきて、片隅に立ちつくす知恵子の姿を、けげんそうに見ながらガラスドアの向こうに消えていった。
30分ほどして、ようやく先輩の姿が通りから現れた。
「よう、おチビさん。こんなに遅くどうしたんだい?」
先輩ののんびりとした声。かなり酔っていた。目許が疲れて、すこし痩せたようだ。知恵子は先輩のなつかしい声を聞いた途端、胸が熱くなった。彼女は涙のにじむ目で、先輩の顔をじっとみつめた。
貴史は、思いつめたような知恵子の表情に気づき、黙って彼女の腕をとると、マンションのなかに連れて入った。
「それで、おチビさん。何があったんだ?」
貴史は知恵子を居間のソファーに座らせると、コーヒーを入れながら尋ねた。
知恵子は怒ったような口調で言った。
「先輩、そのおチビさんって言い方、もうやめてください。これでもわたし、女としては背の低いほうではありません。それに、もう23歳ですよ」
オヤッと言うように、貴史は彼女の顔を見た。たしかに久しぶりに見る知恵子は、すっかり女性っぽくなって、なかなかの美人だった。いつも健康的に日焼けしていた肌が、生来の白さを取り戻して、見ていてまばゆいくらいのしっとりとした肌艶をしている。
「オーケイ、これからは知恵子でいいかい?」
貴史が言うと、彼女はうなずいた。
「ただし、きみもぼくのことを先輩と呼ぶのはやめてほしいな。せっかく美男美女が夜の密会をしていて、先輩じゃあムードがないよ。貴史と呼んでくれ」
「分かりました。貴史――さん」
知恵子は、言いにくそうにつぶやいた。
「よし、それでぐっとムードがよくなった。ところで、きみはまだ答えていないけど、今日はなんの用だったんだい?」
知恵子は話した。最近の貴史の様子が気になって、ちょっと会いたくなったこと。たまたま小津が戻ってきて、貴史といっしょだったと聞いて、すこし待っていたこと。
それを聞いて、貴史はまじまじと知恵子の顔を見た。
「一体どれくらい待っていたんだ?ぼくが小津さんと別れてからでも30分にはなるぞ」
知恵子は肩をすくめると、それには答えず話題を変えた。
「先輩――貴史さんは、死んだ友見さんのことが、まだ忘れられないんでしょう?」
「忘れた、と言ったらウソになる。でもな、このごろ、友見のことは、なんとなくふっきれたと思いはじめたんだ」
「どうしてですか?」
「大川さんは今シーズンかぎりで、監督をやめるんだ。本人の意志でやめると聞いた。歳をとって気力が続かないって言うんだ。本人からそのことを聞いていて、ぼくはふと自分のことを顧みたんだ。
この前の試合を見ただろう。ふがいない自分自身に腹を立てていたぼくは、チンピラのように暴力をふるってしまった。あんなのは、スポーツマンのやることじゃない」
貴史は吐き捨てるように言った。
知恵子は、先輩の顔をみつめたまま、だまって聞いていた。
「謹慎中、ぼくはじっくりと自分を見つめ直した。そして気づいた。ぼくは自己憐びんの殻に閉じ込もって、ひたすら女々しく、死んだ友見に助けを求めていたんだってね。そんなこと――天国の友見に知られたら、ぶん殴られちゃうよ」
貴史は口を閉じた。
二人の間に沈黙がながれた――。
しばらくして、知恵子が静かに言った。
「でも、もうだいじょうぶね。貴史さんは、そのことに自分自身で気づいたんだから」
「ああ、明日からはまたガンガン打つよ。見ていてくれ。それに大川監督の勇退の花道に優勝しないとね」
知恵子は初めてにっこりと笑った。
「先輩!今夜はパアッと飲みましょうよ」
「おまえ、もう10時過ぎだぞ。大丈夫かい?」
「大丈夫。明日は休みなんだから。それに、わたしはもう大人よ」
「そうかい。じゃあ1時間だけな。そのあと家まで送るよ」
結局、その夜、貴史の約束は果たされなかった。
二人はつとめて明るい話題をとりあげて話した。プロ野球界に入ってからの貴史の記録について、知恵子の記憶力は驚くほどだった。彼女は何月何日の試合で、貴史がどういったプレーをしたかということまで、克明に話した。
そのうち話題も尽きて、二人は黙り込んだ。
すでに12時を過ぎていたが、貴史はこのまま知恵子といっしょにいたかった。いまのように心底くつろげたのは、久しぶりのことだった。知恵子は非常に頭が良くて、彼の考えることをまるでテレパシーで受けたように感じ取ることができるのだ。
それに、ほんとうに魅力的な女性になっていた。卵型の整った顔、黒目がちの小さな瞳、上品でかわいらしい鼻と口、スカートの下からすんなりとのびた足。彼は性のうずきを覚えた。
貴史はソファーのうえで、知恵子のほうに体をずらせた。
「今夜は、ここにいてほしいんだ」
彼は知恵子の体をそっと抱きしめた。
心地よい興奮が二人の間に流れた。貴史は顔をよせて、彼女の唇にそっとキスをした。それから、ゆっくりと、丁寧に、知恵子の体を愛撫した。たくましい手が、背中から腰へとしなやかな線をたどって下におりた。
知恵子は貴史の大きな体の中で、未知の興奮に震えていた。
しばらくして、貴史は彼女の体を抱え上げると、ベッドのそばに運んだ。それからやさしく、知恵子の服を脱がした。そのあと、自分も着ているものを脱ぎ捨てた。
二人は立ったまま、おたがいの肉体を見つめ合い、じょじょに高まる緊張感に身をゆだねた。それからそっと寄り添い、唇を重ねた。
熱気が二人を押し包んだ。
目くるめく興奮が二人を襲い、本能の求めるまま、抱き合い、求め合い、ひとつになった。
明け方、知恵子は先に目覚めた。彼女は貴史の腕からすりぬけると、シャワーを浴びた。体の芯にかすかな鈍痛が残っていた。彼女は貴史の痕跡を、生涯の思い出にしようと思った。
バスルームから出ると、彼女は手早く身繕いを整えた。
すぐ寝室に戻り、メモ用紙に『きょうはがんばって』と走り書きをして、枕元のテーブルに置いた。それからいとおしそうに、貴史を見おろした。その寝顔はやすらかで、子供のように無邪気だった。しばらくその顔を見続けた。
そのとき貴史がつぶやいた。「――友見」
知恵子はハッとした。それから寂しそうに微笑み、部屋を出ていった。
(スーパースター第三部につづく)