■ 風の新之輔第三部 - 第三部邂逅(九)
(九)
海滑藩の若い武士たちに出会ったことで、新之輔は慎重になっていた。
これで江戸にいることが、海滑藩に知られてしまった。医師として身過ぎをしている小壺芳美にも、危険が迫るということだ。
そのことを芳美に言うと、医師は考えながら言った。
「長屋のみんなにも言っておきましょう。不審な人間を見かけたら、わたしに知らせてくれと。ここは共同体ですから、みんな協力してくれます」
それでも新之輔は心配だった。しばらくどこかに移り住もうと提案したが、患家がいるので江戸を離れたくない、と芳美は頑なに言った。
三月三日、桃の節句のとき、新之輔は赤坂に出向いた。この日は、東山宮の屋敷を訪れる約束をしていた。
元赤坂の外濠沿いに歩いていると、「えいほ、えいほ」と威勢の良い声が聞こえてきた。
不思議な光景だった。
新しい檜の樽を井形の担ぎ棒に載せて、四人の人夫が担いでいる。それが二組続いた。
樽の前に、「将軍家御用」と書かれた立札がある。背後にひとりの武士がついている。
その行列は小走りに駆け抜けて、東山宮が住まう屋敷の前で停止した。
新之輔が見ていると、檜の樽は敷地内に運び込まれた。
年寄りの門番は新之輔の顔を覚えていて、すぐ屋敷に通してくれた。
東山宮は相好を崩して、新之輔を出迎えた。
新之輔が先ほどの荷のことを聞くと、東山宮は簡潔に言った。
「家綱公から拝領いただいたもの、熱海の御汲湯じゃ」
熱海から江戸城まで温泉の湯を運ばせた「御汲湯」は、ときの将軍、徳川家綱が始めたものだった。
もともと熱海の温泉をこよなく愛したのは、初代将軍家康であった。家康は関ヶ原の合戦前、熱海に入湯し、温泉の力を貰って天下統一を成し遂げた、と言われているほどだ。
しかし、4代将軍家綱は病弱であったため、熱海まで行くのは負担が大きかった。それで熱海大湯の温泉を樽に詰めて、江戸城まで運ばせたのである。
熱海から江戸城まで、二十八里(約百十キロ)の道を、昼夜を通して村から村へと継いで運ばせる。この光景は、見る者に強い印象を与えたであろう。将軍家の権力の大きさと、熱海の温泉湯の効能がいかに優れているか、これを大いに知らしめたのである。
「今日は紀伊大納言どのが来られる。大納言どのは幼少の折り、父君家康公に連れられて、熱海に滞在したことがあるそうだ。それでお誘いした」
東山宮は新之輔に対して、気軽に話しかけた。
宮家は天皇家と違って、格式がうるさくない。気ままに出歩くことができれば、官位のない者と会うことも許されている。
それは分かっていても、新之輔は、東山宮のお側にいることだけで、若干の気後れを覚えていた。
紀伊大納言徳川頼宣が、歩いて屋敷にやってきた。お伴は三人の武士と二人の女中。羽山竜之進が頼宣のすぐ後ろについている。
頼宣は、着流しの上に茶渋染めの袖無し羽織、腰には脇差だけの軽装である。旗本のご隠居が、家来を連れて物見遊山に出かけた、という風にしか見えない。ものものしく家来を連れて、駕籠でやって来るより、はるかに好感が持てた。
東山宮と新之輔が一行を出迎えたとき、羽山竜之進が鋭い目で新之輔を見た。無表情だが、あきらかに新之輔を覚えている目つきだった。
新之輔はあえて素知らぬ顔をした。
東山宮が、脇に控える新之輔を紹介した。
「これはわたくしの客人で、風間新之輔と申します」
頼宣は新之輔の顔をまっすぐに見て、うなずいた。
「いい顔をしている。それに相当の手練れと見た。どうじゃ、余のもとに来ないか」
東山宮が笑いながら抗議した。
「ほほほ、何を言い出すかと思うたら、わたくしの客人を横取りの話ですか。大納言どのもお人が悪い」
「そう申すところをみると、二人は深い関係にあるようだな」
「また、おたわむれを。むしろ新之輔どのは、大納言どのとお話したいというので、今日お誘いしたのです」
後ろで聞いていた新之輔は、驚いた。まさかそこまで直截に、東山宮が言うとは思っていなかったからだ。
「ほう、余と話がしたいとな。して、どのような話だ」
頼宣が新之輔に向かって訊いた。それを東山宮が遮った。
「ほほほ、まあ、そう急かずと話はあとでゆっくりできます。まずは熱海の湯に浸かってくだされ。大納言どのに一番湯をさしあげます」
中庭に、わざわざ真新しい檜の湯船が設えられている。
先ほど持ち込まれた熱海の湯が、釜でふたたび沸かされ、湯船に注ぎ込まれた。まだ肌寒いこの季節、湯表から一面の湯気が立ち上っている。
庭の周りは紅白の幕が張られて、一応の遮蔽になっているが、屋敷の内からは余さず見えている。
頼宣は人前で裸になることに慣れているのか、平然と服を脱いだ。それを二人の女中が、かいがいしく手助けする。
体毛のない豊満な肉体をしていた。股座にも肉付きの良いへのこをぶら下げている。
頼宣は湯船に歩み寄った。その後ろ姿は、体毛がないので、健康的な童のようだった。
一応の作法で手桶に湯をくみ取り、ざっと前を流した。それから湯船に身を沈めた。
「いい湯じゃ」
頼宣が目を細めて、湯船から声をかけた。
屋敷の縁側には、東山宮と新之輔、それに羽山竜之進がいた。湯浴みを世話する二人の女たちは、縁側の端の方に控えている。
暇を見て、羽山竜之進がスッと寄ってきた。
「いずれ、おぬしとは決着をつけたい」
「分かっている。おぬしは拙者の爺を殺した」
竜之進は、新之輔の顔をちらりと見た。
「あの老人か。可哀相なことをした。しかし、剣を持って向かい合えば、相手が誰であろうと、おれは容赦なく立ち向かう」
「分かっている。おぬしを怨んではいない。しかし爺のため、拙者は正々堂々と戦って、おぬしに勝つ」
「いい心構えじゃ」
竜之進はにやりとして、離れていった。
湯上りの頼宣は血色もよく、肌が艶々としていた。
お茶を飲んで一息つくと、東山宮はおもむろに持ちかけた。
「このあとは大納言どのと新之輔どの、二人でお話し下され。わたくしは失礼しますので、大納言どのもお人払いをお願いします」
東山宮の言葉に、竜之進が警戒する目つきで新之輔を見た。新之輔は刀をいっさい身につけていなかったが、体術を気にしているようだ。なにしろ竜之進は、その技によって投げ飛ばされ、気を失った苦い経験がある。
「竜之進、下がっておれ」
頼宣のひとことで、竜之進は下がらざるを得なかった。
「そのほうら、顔見知りか」
二人きりになると、頼宣がいきなり聞いてきた。竜之進とのことを言っているのだ。
「はっ、以前、剣を交えたことがあります」
「ほう――」
頼宣はにわかに興味を持ったようだ。「して、どちらが勝った?」
「やむを得ず中断せざるを得ないことが起きまして、勝負はつきませんでした」
竜之進を投げ飛ばして気絶させたことは省いた。あのとき新之輔は、爺のお蔭で竜之進の背後を取ることが出来たのだ。
新之輔は補足した。
「されど、試合をつづけていたら、拙者のほうが負けていたと存じます。それほど、羽山どのの剣は、速うございます」
頼宣は「うむ」とうなずいたが、納得した様子ではなかった。
「ところで、そのほう、余に話があると申していたな」
「はっ」
新之輔は頭をさげた。事前に、どう切り出そうかと考えていたが、結局、単刀直入に話すことにした。そのほうが、頼宣という人物には、受け入れられそうな気がしていた。
「昨年十一月の終わり頃、日光街道の栗橋の渡しで、保科正之さまが何者かに襲われました。日光参拝の帰りで、供の者は五人。そして襲ったのは十人ほどの浪人者でござった。大納言さまはこのことを、お聞き及びでしょうか」
頼宣は首をかしげた。
「聞いてない。して、肥後はどうなった」
「ご存命でございます。たまたま通りかかった拙者が、お救い申した」
「ふむ、そのほうが相手なら、浪人たちも不運というものじゃのう。して、襲ったのは何者なのじゃ」
「ひとりだけ捕えられまして、拷問の末、その者が言うに、先導した二人は慶安の変の生き残りとか」
言った途端、頼宣が鋭い目で新之輔をにらんだ。
「そのほう、伊豆の回し者か!先だっての夜、余の屋敷に忍び込んだのも、そのほうであろう」
思わぬ反撃に詰まったが、新之輔は平然と答えた。
「拙者が忍び込んだのは事実ですが、だれの回し者でもござらん。保科さまをお救い申したとき、江戸までご一緒しました。そのとき、慶安の変や由井正雪の偽造文書の話を聞いて、興味を持ちました」
「それで余の話を聞きたいと――」
そこまで言って、頼宣はにやりとした。「そのほう、肥後に惚れたな。あやつは、男にようもてるからのう」
「そんなではござらぬ」
新之輔は思わず声を大きくした。そこで、冷静な口調に戻って、「これはあくまで、拙者ひとりの興味から調べていること。保科さまは何の関係もござらぬ」
「隠すな。余の父も衆道好きじゃった。甥の家光もな。そのほうのような武人なら、女より男を好んでおかしくない」
「――」
一瞬唖然としたが、気を取り直して新之輔は聞いた。
「で、どうでございますか。大納言さまは、保科さまを襲った浪人者たちとは、いっさい関りなし、と申されるのですか」
「当たり前じゃ。余は、そんな姑息なことはやらん。第一、肥後には、何の恨みも抱いておらんわ」
頼宣は怒りもせず、はっきりと断言した。それから話題を変えた。
「それより、新之輔とやら、余のもとに来ぬか。そちが望むなら、衆道の契りを結んでも良いぞ」
「いや、拙者は――」
新之輔はあわてた。まさかその方面の誘いがあるとは思わなかった。
福々しい顔がまっすぐにこちらを見ていた。先ほど湯に入るときの、頼宣の豊満な裸が目に浮かぶ。
その思いを断ち切って、新之輔は性急に言った。
「――受けは、やり申さぬ」
とたん、頼宣が明るく笑った。
「ははは、心配するな。余はもう五十九歳じゃ。受けはこちらの方じゃ。そなたのようないい男なら、組み敷かれてみるのもいい、と思うたのじゃ」