■ スーパースター第二部 - (3)
(3)
8月の終わり頃、貴史のもとに一通の電報が届いた。それを読んだとたん、彼のまわりの世界が崩れ落ちた。
友見が暴漢に襲われて、殺されたのだ。
しばらくの間、頭の中が真っ白になって、なにも考えられなくなった。思考力がもどってきたとき、最初に思いついたことは、とにかくニューヨークに行くことだった。
貴史が大川監督に電話をしたのは、成田空港から飛行機に乗る直前だった。
「なに!これからニューヨークに行くだと。なに考えてんだ、おめえは!」
「どうしても行かなくちゃあ、ならないんです」
「ばかやろう!今のチームの状態を見ろ!優勝争いに生き残れるかどうかの真っ只中じゃないか」
「大切な人が死んだのです。監督がなんと言おうと、ぼくはニューヨークに行きます。それがだめっていわれるんなら、野球をやめてもいい」
「――」
大川は沈黙した。それから、しばらくして言った。
「それでいつ帰ってくるんだ?」
「わかりません。向こうから電話します」
友見の顔は、死化粧が施されて、まるで眠っているように穏やかだった。
貴史は最後の別れに、友見の唇にそっとキスをした。
棺に蓋がかぶせられ、友見の姿が見えなくなると、堪えていた涙が一度に滲み出た。胸にポッカリと穴が開いて、言いようのない空しさが襲ってきた。立っていることも出来なくなって、近くの椅子にくずおれるように腰掛けた。
「大丈夫かい?」
友見の父親が、心配そうに声をかけた。友見に似て背が高く、彫りの深い顔立ちだった。その横でハンカチを目に当てている夫人は、小柄でおとなしそうな顔立ちの女性だった。友見の両親に会うのは、このときが初めてだった。
「ええ――大丈夫です――でも――ちょっと休ませてください」
貴史は、かろうじて声を出した。
朝丘は涙の滲んだ目をしばたかせて、それでも気丈に微笑んだ。
「ああ、いいよ。きみも強行軍だったから、ちょっと疲れただろう。あ、それから」
彼はスーツの内ポケットから、封筒を取り出した。「友見の部屋を整理していたら、これがあったんだ。友見はどうやらこれを、きみに送ろうとしていたらしい」
貴史は封筒を受け取った。封はされていなかった。中から手紙と、輝く星形のフィギュアのついた金のネックレスが出てきた。
手紙は友見の性格を反映して、力強い筆致で簡潔に書かれていた。
『わたしのスーパースターへ
貴史、相変わらず活躍しているわね。この前のアクロバットのニュース、こちらのテレビでも見たわ。ほら、ホームベースのところで、キャッチャーの頭上を飛び越えたやつ。
やるじゃない。
貴史に先んじられたけど、わたしもあと一歩のところまで来たわ。
昨日のオーディションは落っこちたけど、あとでコーチに言われたの。たまたま配役のイメージが合っていなかっただけで、わたしの歌も演技力も、合格ラインを超えていたって。だから次ぎは絶対にいただきよ。
そうそう、この前、蚤の市でいいものを見つけたから、あなたに贈るわ。友見より』
手紙を読んでいる途中から、涙がこぼれてきて仕方がなかった。貴史に生き方の厳しさを教えてくれた友見――彼女は男女の関係にとどまらず、ひとりの人間としてどう生きていくべきかを貴史に示してくれた。彼女はある意味では、よきライバルだった。
しかし、お互いの目標に向かって競い合ってきたのに、もう友見はこの世にいない。その事実が重くのしかかってきた。心の拠り所がなくなったのだ。
貴史は、生前の友見が贈ろうとしたネックレスを握り締めて、人目もはばからずに号泣した。
帰国後の貴史は魂の抜け殻のようになっていた。今までの神がかり的なプレーがすっかり鳴りをひそめ、彼は平凡なプレーヤーになっていた。
貴史の不調はチームの不調につながった。のこり30ゲームになったとき、優勝争いをしていたタイガースは、とうとう4位にまで転落した。トップの広島とは5ゲームも開いていた。
暗い雰囲気におおわれたタイガースに、追い討ちをかけるようなニュースが流れた。休養日の朝、貴史は電話のベルで起こされた。チーム仲間からだった。
「タカ、新聞を見たか?」
「どうしたんです?」
「まだ見ていないのか?来年は、大川監督が辞めるらしいぜ」
「なにっ!ちょっと待ってください」
貴史は新聞を取りに行った。
スポーツ紙の一面に、大川監督の写真と、見出しにでかでかと『大川監督、今期限りで勇退か?』とあった。
記事は大川監督に同情的に書かれていた。
万年Bクラスのタイガースを、Aクラスに導いた功績にもかかわらず、タイガース・フロントは、今期のチームのもたつきを理由に、大川を解雇するらしい。それに、もともといい成績を収めてきたのは、不出世の選手、高山貴史がいたからだ、というフロントの考えも書かれていた。
貴史はそのスポーツ新聞を片手に、小津の部屋にすっ飛んでいった。球団社長の小津は、同じマンションに住んでいた。
「小津さん、これはどういうことですか?」
パジャマ姿で新聞片手に、血相を変えて飛び込んできた貴史を見て、小津は目を白黒させた。
「高山くん、落ち着きなさい。そのことなら、お茶でも飲みながらゆっくりと話そう」
「お茶なんか飲んでおれるかっ!どうして監督を首にするんですか!」
貴史は、小柄な小津の体に覆いかぶさるようにして、詰め寄った。
その剣幕に、小津は後ろの壁にへばりついた。
「きみ、それは違う!とにかく落ち着きなさい」
ソファーに落ち着くと、小津はぽつぽつと話しだした。
あのニュースがどこから洩れたのか知らないが、引退の話はまんざら嘘でもない。しかし、事実をゆがめている。大川監督のほうから、今期限りでやめたいと言ってきたのだ。それもオールスター戦のときに。球団側は監督の慰留に努めているが、彼の意志は固いようだ。もっとも、まだ結論はでていない。
それを聞くと、貴史はだまって小津の部屋を出ていった。
「監督、なんでやめるんだ!」
「ああ、あのことかい」
「そう。あのことだよ!」
「まあ、そんなに突っかかるな。おれがタイガースにきたときは、もともと2年契約だったんだ。それがいつのまにか今年で4年も居座っちまう。そろそろおれも、年貢のおさめどきだ」
「へっ、かっこよく、老兵は去るってわけか。後に残されたぼくたちは、どうなるんだ?」
「おめえたちは、もう立派なおとなだよ。おれがいなくても、ちゃあんとやっていけらあ」
「そうかい。今のチームの状態をどう思っているんだ?」
「いずれ立ち直るさ。いまはおめえのように、ガキっぽい傷心にひきずられているがな」
そこで大川は、貴史の顔をまっすぐに見ながら、息子を諭すような口調で言った。「恋人を殺されたおめえの悲しみはよくわかる。だけど、どうだい、そろそろ後ろにばかり目を向けていないで、まっすぐ前を見ることにしたら」
「――」
貴史は黙って大川の顔を見た。
グラウンドでの鎧を脱ぎ去った大川は、そのへんにいる好々爺のように、やさしい表情をしていた。温厚そうな目尻の皺に、老いを感じた。
ふいに、友見に続いて監督がいなくなるという思いに、貴史は愕然とした。彼は性急に言った。
「監督、やめないでくれよ。監督が好きなんだ」
「おい、よせやい。愛の告白かい?」
「ああ、愛の告白だ。それでどうなんだい。野球をやめると、ボケて、ただの老いぼれになっちまうぞ」
大川はじっと貴史を見た。それから、しんみりとした口調で話しだした。
「タカ、ありがとうよ。おめえがおれのことをそんなに思ってくれているのは、本当に嬉しいぜ。でもな、おれは自分の限界を感じたんだ。オールスター前の試合な――ほら、おれがゲイルの三振で審判に抗議したときだ。
あのとき、おれはすぐ反応しなかった。おめえのほうを見なかったら、おれの役割を忘れていたところだ」
そこで大川は、フッと溜め息をついた。
「年は取りたくないもんだな。人間、怒りを忘れちまったら、もう終わりだね。――おれもおめえが好きだよ。おれには子供がいないが、じっさい、おめえがおれの息子だったら、どんなに誉らしいかと思っている。おめえは、おれが会ったプロ野球選手の中で、最高の男だ。お世辞じゃねえ。本当にそう思っている。でもな、おれはもうゆっくりしたいんだ。気力が続かないんだ。次の作戦をあれこれ考えずに、おめえたちが活躍するのを、試合の外からゆったりと観戦していたいんだ」
貴史は言葉を失った。いま目の前にいる大川は、彼と同じように魂の抜けた、ただの老人だった。
貴史は言葉少なに、おいとまを告げた。大川夫婦が玄関まで見送った。
「監督、ちょっと――」
ドアの外で大川をよんだ。
「なんだい」
大川が外に出てくると、貴史はまっすぐに向き合った。
「監督、ひとつ約束してほしいんだ。いまチームは優勝争いの大事なときだ。それが――あんなニュースが本当だと知れると、みんなの志気に影響する。シーズンが終わるまで、来年のことはいっさい口に出さないでほしいんだ」
貴史は大川に歩み寄ると、ふいに片手を伸ばして、大川の急所をむんずとわしづかみにした。
彼は、大川の顔に自分の顔を近づけて、ささやいた。
「一言でもしゃべったら、監督のタマを引っこ抜くぜ」
「あ、ああ――わかった」
大川は額に脂汗を浮かべて、頭を縦に振った。