(6)
「タカ、どうだい、来年の年俸は無事、妥結したか?」
「サインしました。ぐだぐだ言ってもしょうないですから」
「そうかい。まあごねるより、きっぱりと決めるにこしたことはないな」
貴史は大川監督の住むマンションを訪れていた。そのマンションは、甲子園球場の近くにあり、バルコニーから球場の蔦の絡まる外壁の一部が見えた。
夫人と二人住まいの大川の部屋は、和風の内装に統一されて、家具調度類も趣味のよいものが揃えられていた。
私服姿の大川は、グラウンドでの威厳が消え去り、どこにでもいる暖か味のある老人に戻っていた。
「ところで、タカ。来年はおめえを4番にまわすからな」
「ぼくは何番だっていいですが、急にまたどうしてですか?」
「おめえとゲイルの1、2番コンビは史上最強だと思っている。しかしな、うちのチームは得点力がもうひとつなんだ。それでおめえを、4番に据えることにした」
「いいですよ。ところで監督、今晩、パアッーと繰り出しませんか?ぼくがおごりますから」
「おめえのおごり?気持ち悪いな。なにかいいことでもあったのかい?」
「なーに、なんでもないですよ。ただちょっと、監督とデートでもして、師弟愛を温めたくなりましてね」
「ますます気持ち悪くなってきたな。おめえ、へんな趣味でも持ったんとちがうか?」
「監督さえよければ、いつでもお相手をしますよ。さいわい、ぼくは独身だし」
「よせやい!」
その夜、貴史は、大川監督と大阪の道頓堀にくり出した。
いつもはピアノがあり、若い女たちのいるクラブに行くのだが、その夜は、年配の大川の好みに合わせて、気取らないこざっぱりした小料理屋に入った。その店は、貴史の後援会の宇野社長に連れていってもらったことがある。
店に入ると、大川や貴史の顔を知っている客たちが、好奇心いっぱいの視線を送ってきた。中には声を掛けてくる者もいた。
貴史は客たちに向かって、気軽に挨拶を返した。すでに彼は、ファンやマスコミに対応するコツを呑み込んでいた。
二人はカウンター席に並んで腰掛けると、酒を注文した。大川はチョコを片手に、もの珍しそうに店内を見回した。
「タカ、おめえの来る店にしては、珍しく女っ気のない、落ち着いたところじゃないか」
「監督、それを言うなら、ぼくにぴったしの、シックで日本情緒あふれる店だって言うんでしょう」
「バカこけ。おめえのよく行く店は、ネタがばれてんだよ」
そのとき奥のほうから、のんびりとした声が聞こえてきた。
「きれいなネエちゃんたちが大勢いて、パフパフしてくれるとこでっしゃろ」
声のしたほうを見ると、白いあご髭を生やした初老の男が、からかうような顔つきでこちらを見ていた。その横には、老人の連れらしい律儀そうな顔つきの、50前後の小柄な男がいた。
小柄な男のほうが、貴史に向かって頭を下げた。
「すんません。礼儀知らずの年寄りなもんで」
あご鬚の老人が抗議した。
「ちょい待ち、おっちゃん。礼儀知らずやて、わしのことか」
貴史は、その二人連れの客に見覚えがあった。年配者のほうは多岐タローという名の劇作家で、茶の間のテレビドラマなどの脚本を書いていた。小柄な男のほうは賀来泰平という、関西のテレビ局の中堅アナウンサーで、トーク番組などによく出演していた。
貴史はアナウンサーに向かって、愛想よく笑いかけた。
「賀来さん、気にしてませんよ。人間、年を取ってくると、皮下脂肪だけじゃなく、ツラの皮も厚くなってきますから。そんな厚かましい年寄りは、ぼくの回りにいくらでもいますわ」
横から大川が、おもむろに言った。
「タカ、わしもその一人か?」
「とんでもないス。監督は礼儀も節度もある、理想的なお年寄りです」
大川が苦笑した。
「ケッ、よく言うぜ。そんなに調子のいいことを言っても、今日の奢りはお前だからな」
そのとき、先ほどの老作家が口を挟んだ。
「監督、おたくの88番は、打順だけ1番やと思うとったが、口の調子がいいのもチーム1番やな」
「センセ、やめときなはれ」
賀来があわてて作家を遮った。それから申し分けなさそうに、貴史に向かって言った。
「すんまへん。今日の多岐先生、ちょっと虫の居所が悪いんですわ。それはそうと、高山さん、2年連続の3冠王、おめでとうございます」
「ありがとうございます。ぼくは、賀来さんの番組をよく見てるんですわ。賀来さんも阪神ファンですってね」
「ええ、根っからの阪神ファンですわ。それに、高山さんと監督がタイガースに入ってからは、ドキチのファンになりましたわ」
「おおきに。賀来さんのようなファンがいて、それがぼくらの一番の励みになりますわ」
それまで二人の会話に加わりたくて、口元をムズムズさせていた作家が割って入った。
「ちょい待ち!二人して、いい子ぶって、ペラペラとしゃべりおって」
「なんや、センセ。お仲間になりたいの。なら、素直にそう言いなはれ」
「おっちゃん、わしはあんたのそんなとこがいやなんや。刺をオブラートにくるんで、チクチクと言いおって」
「センセ、わたしのしゃべりのお師匠は、センセでっせ」
「それや。また、チクチクと言いおって」
貴史はニヤニヤしながら、二人のやり取りを聞いていた。
その作家には、関西人特有のとぼけたユーモアがあったが、賀来アナウンサーのほうも、几帳面そうな顔つきに似合わず、根っからの関西人らしい軽妙なとぼけ味があった。
貴史のにやけた笑顔に気づいて、多岐が矛先を向けてきた。
「なんや、あんちゃん、気色悪い。にやけた顔でわしを見おって。わしの顔に何かついてんのか?」
貴史はおどけて肩をすくめた。
「何もついてませんわ。ただ、先生の艶っぽいお顔に見とれていただけですわ」
「上等やんけ。なんなら一晩つきあってやってもいいぞ」
「おおきに。髭のおじいちゃんは大好きやし。たっぷりと可愛がってやりますわ」
「タカ――」
大川が貴史のわき腹を肘で突ついた。
ふたたび多岐の声がした。
「監督、かまいまへん。どだいこの若造に礼儀を教えようたって、百年はかかりますわ。この若いのは、2本のバットを使うことしか頭にないんやからな」
「なんや、2本のバットって?」と貴史。
待ってましたとばかりに、作家が言った。
「決まってるやないか。野球のバットと股座のバットや」
貴史がせせら笑った。
「面白い――じっちゃん、おもろいこと言うやないか。ところで多岐タローってペンネーム、ちょっと変えたほうがもっと売れるんとちゃいますか」
「どんな風に変えるんや?」
「苗字の間に『ヌ』を入れるんや。タヌキタローってね」
「おもろい――あんちゃん、おもろいこと言うやんけ。ところでお前さんもアッパッパて言われたことないか?」
「なんで、ぼくがアッパッパなんや?」
「背番号88番やろ。88ってのはパッパっていうんや」
「今のは減点。点はあげられまへん。ちーっとも面白くない駄洒落や。ま、暇なときに笑っときます」
「ケッ、気の効いた口を――で、なにか、この前、あるアナウンサーがあんちゃんのことを、阪神の種馬って言うとったが、あんさん、そんなに種付けが好きなんか?」
「センセ!」
賀来があわてて多岐の言葉を遮った。「高山さん、そのアナウンサーはわたしじゃないよ」
「分かってますよ、賀来さん。そんなこと言うのは、どうせシモの衰退を嘆いてる、どっかの年寄りしかいませんわ」
そこで貴史は、意味ありげに老作家を見た。「なんて言ったかなあ、ほら、妙に若作りして、白髭をはやしたじいさんですわ」
多岐が、憤慨して言った。
「ちょい待ち!あんちゃん、わしに喧嘩を売っとんのか」
「センセ、とんでもありません。ぼくが売ってるのはラブですわ。お年寄りにはラブをってね」
それを聞いて、多岐は待ってましたとばかりに言った。
「ケッ、よく言うよ。おまえがラブを売るのは、奇麗なねえちゃんたちだけやろが」
