(1)
「いいかい、貴史くん。今年はどこのピッチャーも、きびしい球で攻めてくるぞ。さもなければ敬遠だ」
「ああ、分かっていますよ、ドクター。ぼくもピッチャーをやってましたからね。デッドボールすれすれの内角球でのけぞらせておいて、外角低めで三振ってやつだ」
「それだけならいいけど――なかにはコントロールの悪いピッチャーもいる。デッドボールすれすれどころか、デッドボールそのものも増えてくるよ」
「打ち身だらけの人生ですか。それでドクター、どうしたらいいんですか?」
鎌倉の両親のもとで正月を過ごした貴史は、正月明けに村松博士と山陰地方のひなびた温泉宿に来ていた。
二人は部屋付きの風呂につかって、のんびりと話をした。岩を組んだ露天風呂は、外部からの視界を遮る竹柵があり、プライバシーが守られている。
たゆたう湯煙の向こうから、村松の慈眼が貴史を見ていた。
「当たり前のことかもしれないけど、選球眼を養うことしかないな。ピッチャーがボールを投げたら、瞬時に球筋とコースを見極める――」
「至難の技ですね。どんな練習をすればいいんですか?」
「そうだな――まず前にもやっていたように、バッティングマシーンを1メートルほど近づける。それから直球にシュート、スライダーと横の変化球をおりまぜて球を送りだす。内角球を中心にね。それに慣れたら次は縦の変化だ。カーブ、フォークと。そして、ストライクの球だけを打つ練習をする。もちろん事前にビデオで、それぞれのピッチャーの癖を、よく掴んでおくことも大切だよ」
「分かりました。今度、練習に取り入れてみます」
言って貴史は湯の中で立ち上がった。その股間を、村松がハッと息を呑んだように見た。
貴史は以前から気づいていた――自分に対する村松博士の気持ちを。それは若い教え子に対する親愛の情、と言うにはあまりにも密度の濃い気持ちのように思われた。
彼とて世の中のことに、まったく疎いわけではない。チームメイトのポール・ゲイルがいい例だ。ポールはゲイだった。私生活では10歳ほど年上の男性音楽家と同棲している。いつだったか二人と一緒に食事をしたことがある。そのアメリカ人の音楽家は、スリムな体型だがムチのようなしなやかさがあって、ごく普通の物静かな男だった。
男が男を好きになる――村松を見ていて、それもありうることだと思う。この60歳にもなって独身の年配者は、貴史に性的な欲望を抱きながら、それをひた隠しにしているようだ。時折見せる、年配者らしからぬ、恥じらいやあわてた仕草――そんな様子を見ていると、無償の好意をよせるこの老医師がいじらしく思えた。
なにが貴史にそうさせたのか――。彼は湯の中を、まっすぐ村松めがけて歩くと、すぐ目の前で立ち止まった。
村松はあわてて目を反らし、少しして視線を戻した。
すぐ前に剥き出しの性器があった。こんなに間近に見るのは初めてだった。
健康的に発育した若々しい男性器――それでいて、壮年男のようにカリ首の太い、ふてぶてしい形状をしている。
高まる鼓動とともに、村松はいぶかるように貴史を見上げた。
若者はだまってこちらを見下ろしている。彼の気持ちを代返するように、若い茎がゆっくりと頭をもたげ始めた。
村松は魅せられたようにそれを見つめ、くぐもった呻き声をあげると、貴史の腰にしがみついた。そして――唇を開いた。

村松のアドバイスによる練習のかいあって、貴史は2年目のシーズンも絶好調だった。他球団のピッチャーたちは案の定、きわどい内角を攻め、つぎに外角球を投げてきた。貴史は内角球にも動じず、その球がすこしでも甘く入れば、躊躇せずに弾き返した。
横浜3連戦で2勝1敗と勝ち越したタイガースは、中日戦も2勝1敗で勝ち越し、つづくジャイアンツとの試合をひかえて、後楽園のドームに乗り込んだ。
史上最高額の30億円をつぎこんで、国内外からホームランバッターを補強したジャイアンツは、昨年につづく盤石の体制を築こうとしていた。しかしジャイアンツは、開幕戦でヤクルトによもやの3連敗を喫し、横浜戦でも1勝2敗と負け越していた。
巨人阪神の第1戦は、これまでのうっぷんをはらすかのように、ジャイアンツの重量打線がタイガースのピッチャーに襲いかかった。
2回を終えて7対0、すでに勝敗の行方は決まっていた。あとはどれだけ、長嶋監督のいう5点打線から点数を伸ばせるか、それだけが興味の対象だった。
ところが、タイガースの中継ぎ投手陣のふんばりがきいて、ジャイアンツは追加点がなかなか奪えなかった。いっぽうタイガースは、貴史の打席でことごとくタイムリー打がでて、着実に得点を積み重ねていた。
ついに9回の表、タイガースの攻撃のときには7対5となり、2点差まで追いつかれていた。
ワンアウト満塁、しかもバッターは貴史だった。
ジャイアンツの長嶋監督は、彼特有の勘でいやな予感がしていた。早い回の大量得点に気分を良くしていたが、2年目の高山ひとりのタイムリー打によって、いつのまにか2点差に詰め寄られていたのだ。彼は、打席に立つタイガースの若い打者を見た。若者にはなんの気負いもなく、いつもどおりの飄々とした構えだった。
長嶋監督はいっしゅん、敬遠のサインを出そうかと考えた。しかしマウンドに立つ抑えのピッチャーは、これまでフォアボールもなく、余力も充分ありそうに見えた。それに、敬遠すれば押し出しの1点を献上することになり、点差もわずか1点になる。
彼はマウンドに歩み寄りたいのをぐっと我慢した。
ピッチャーが第一球を投じた。
外角寄りのボールは小気味よい快音を残して、ライト上段に突き刺さった。
長嶋監督は、その音を聞いたとたん下を向いた。打球の行方を見るまでもなかった。
彼が顔をあげたとき、涼しい顔で淡々とダイヤモンドをまわる、タイガースの若い選手の姿が目に映った。そのとき若者が走りながら、彼のほうをまっすぐに見た。若者はかすかにおじぎをしたように見えた。
伝統の阪神戦でよもやの3連敗を喫したジャイアンツは、絶不調におちいっていた。かわって首位を走りだしたのは、野球評論家たちの予想をくつがえして、ヤクルトスワローズだった。それを2ゲーム差でタイガースが追っていた。
貴史はあいかわらず打ちまくっていた。彼の好調に触発されたかのように、他の選手たちも打ちだした。
とくに貴史と仲のよいゲイルが好調だった。彼は、他球団に移籍した選手のあとがまとして、1塁のレギュラーの座を獲得していた。
貴史とゲイルの1、2番は、絶妙のコンビだった。貴史が出塁してゲイルが打席に立つと、相手ピッチャーは落ち着きをなくした。貴史の単独盗塁か、ヒットエンドランか、それともバントか――。貴史とゲイルの二人は必ずなにかを仕掛けて、相手ピッチャーをゆさぶった。
ずんぐりむっくりしたゲイルは、意外にも器用だった。貴史の盗塁の成功率が飛躍的に伸びたのも、ゲイルの粘っこい打撃のおかげだった。
そして、貴史のバッティングには、どこにも死角がないかに見えた。内角も外角も、彼はそれを予期していたかのように、左右に打ち分けた。それも、ほとんどバットの真っ芯で捕えることができた。
思いきりよくフルスイングする彼は、昨年同様、長打のでる確立が高かったが、今年は特に空振りがすくなくなっていた。村松博士の指導のもと、バッティングマシーンを使った練習がものをいって、彼の選球眼は予想以上に向上していたのだ。
しかし、貴史が打てば打つほど、彼にたいするピッチャーの攻めは、ますます過激になってきた。内角の球はえげつないほど、胸元や顔すれすれに飛んできた。なかには、本気でぶつけにくるピッチャーもいた。
フォアボールだけならまだしも、デッドボールの回数も増えてきた。
しかし、貴史はけっして逃げようとしなかった。内角の球にもびくともせずに、向かっていった。
その彼の態度に、ファンや野球評論家は感動し、彼の闘志溢れるフェアプレーに心酔した。貴史の体には、デッドボールによる生傷が絶えなかったが、彼は不平ひとつ洩らさなかった。かえって監督の大川のほうが、もっと怒れとたきつけるくらいだった。
あるとき、まっすぐ顔に向かってきた球をよけようとして、貴史はもんどりうって後ろに倒れた。地面に倒れた衝撃に軽い脳震盪をおこして、しばらく立ち上がれなかった。
大川監督が血相をかえて、グラウンドに駆け込んだ。彼は、ビーンボールじゃないか、と猛烈に抗議した。しかし審判は危険球とは見なさなかった。
すっかり頭に血ののぼった老監督は、審判にむかって暴言をはき、相手の胸を突き飛ばした。
「てめえ、どこに目をつけてんだ!あさってのほうばかり見てんじゃねえよ!」
審判が叫んだ。
「退場!」
「なにおっ!このヘボ審判め!」
大川は審判に詰め寄った。あわててコーチや選手たちが大川監督を押しとどめるのを横目に、貴史は立ちあがると、悠然としてユニフォームから土をはたきおとした。
試合が再開され、打席に立った貴史は、バックスクリーンに特大のホームランをかっとばした。