■ スーパースター第一部 - (3)
(3)
大川監督の血圧はいつになく高かった。それもそのはず、試合開始の1時間前になっても、新人の高山の行方がつかめないのだ。
「あのひょうろく玉、どこに行きおったんや」
大川はコーチ陣に当たり散らした。
そのとき選手用通路のほうを眺めながら、打撃コーチの島野がつぶやいた。
「そのひょうろく玉が、どうやらご出勤のようですよ」
そちらを見て、にが虫を噛みつぶしたように監督がつぶやいた。
「けっ、お早いお着きで。まるで重役きどりだな」
ユニフォームを着た貴史は、すっかり焦燥しきった顔をしていた。目の下にうっすらと青い隈ができている。
いつ監督が雷を落とすかと周囲が緊張するなか、貴史が平然と監督に挨拶した。
驚いたことに、大川監督は新人をジロリと一瞥したが、手すりを握ったまま黙ってうなずいた。しかし、彼の握り締めた拳が怒りに震えているのに、数人の選手が気づいていた。
ベイスターズを迎え撃つはずのその夜の試合は、0対7――完敗だった。
貴史の打席も4の0、うち三振がふたつ。相手ピッチャーに翻弄されるように、彼のバットはことごとく空を切った。
試合後に緊急のミーティングが開かれた。
選手やコーチの息づまるような緊張のなか、大川は意外にも淡々と話しだした。気合いと自信を強調して話を終えたあと、彼は貴史のほうを見た。
「タカ、おめえ、蒼い顔をしてるな。ゆうべは飲み過ぎか?それとも女とやりすぎか?」
貴史は黙っていた。
「まあいいや。おめえだって未成年じゃないんだ。しかし今日のバッティングはなんだ。あれじゃ、まるでウチワじゃねえか。いくら熱い季節だからって、敵のピッチャーを扇いでやることもないだろうが。どうなんだい?」
数人の選手が、笑いをかみ殺した。当の貴史は黙って、平然と監督の方を見ている。
「ちったあ、特打ちでもしたらどうだい?このまま線香花火と言われたくないだろうが」
貴史がぽつりと言った。
「やってますよ」
大川は、おやっと言うように薄い眉を吊り上げた。
「どんなことをやってるんだい?今日も昼までいなかったようだが」
「ぼくのやり方がありますよ。そのうち打ちだしますから――気長に待っててください」
大川が黙り込んだ。ほかの選手は監督の沈黙に危険な兆候を感じとり、体を固くして二人を見守った。大川はゆっくりと貴史のほうに歩み寄った。彼の動きは、高ぶる神経をつとめて鎮めようとしているようだった。
「タカ、それじゃ遅いんだよ。おめえが打ちだす頃には、シーズンが終わっちまってらあ」
監督の声は、無気味なほど低くなっていた。彼はつづけた。「いいか、坊や。いつまでも粋がってないで、明日からはコーチの言うことを聞いて、特打ちするんだ」
そこで、大声で怒鳴った。「わかったかっ!」
貴史はびくとも動じないで、平然と言った。
「だから、ぼくのやり方があるって言ったでしょう。悪いときは、焦っても仕方がないでしょうが」
「バカ野郎!このヒヨッコが!」
大川が爆発した。「おめえは、自分を何様だと思ってやがるんだ。いいか、おれはおめえが生まれる前から、プロで野球をやってるんだ。それにくらべりゃおめえなんか、まだ大人にもなりきってない、皮かぶりの小僧っ子だよ」
貴史は、目の前で怒鳴り散らす老監督をにらみつけた。彼の顔も怒りに赤らんできた。
「ぼくは皮かぶりじゃないっス。それも、監督よりでかいのをぶら下げてるんだ。その点じゃあ、監督より立派な大人だよ」
「なにおっ!口先だけ達者になりやがって」
大川がふんぞり返り、ぐっと体を押しつけて睨んだ。
貴史も負けていなかった。彼も監督に向かって、体を押し返しながら言った。
「監督、思ったことは遠慮なく言えって、言ってたじゃないスか。だいたい粋がってるのは監督のほうですよ。たかが数試合負けが込んだからって、ぎゃあぎゃあと騒いで。シーズンは130試合あるんだ。そんな過敏にならずに、もうちょっとゆったりと構えていたらどうなんスか」
「バカ野郎!きいた風な口をききやがって。てめえなんか、野球をやめちまえっ!」
大川の言葉に、貴史はカッとなった。
「ああ、分かったよ!ただし、ぼくはあんたに雇われてんじゃない。球団と契約してるんだ。社長がぼくをクビにするってんなら、辞めてやらあ!」
「なにおっ、この野郎!」
大川が貴史に掴みかかった。60過ぎの監督と、かたや20歳そこそこの若い新人が、顔を突き合せてどなりあうのを呆然と眺めていた選手たちも、あわてて二人を引き離しにかかった。
翌日の横浜ベイスターズ戦も、貴史は絶不調だった。
ランナーを2塁に置いての打席であえなく三振。しかも守備のほうでも、レフト前ヒットの捕球をもたつく間に、ランナーを3塁まで進めてしまい、これが結果的に、相手チームに先取点を許すことになった。
4回の裏に、ネクスト・バッターズサークルに向かおうとする貴史を、大川監督が押しとどめた。
「タカ、お前はもういい。おい、ピンチヒッターだ。佐々木、お前が行け」
すかさず貴史が、大川に噛みついた。
「監督、きのうのことを根に持ってるんなら、大人げないぞ」
「バカ、純粋な戦術上のことだ」
「こんなことってあるか!たまたま一打席、打てなかっただけじゃないか!」
「黙ってすっこんでろ」
大川は、打席に向かう選手の方を見ながら、貴史を相手にしなかった。
「これが黙ってられるかってんだ!ちゃんと説明しろっ!」
貴史はくいさがった。
そのとき、アンパイアが試合を中断して、二人のほうに歩み寄った。
「おい、監督、そこでなにやってんだ」
「こいつが、ぎゃあぎゃあとうるさいんだ」
大川監督が貴史を指さして言った。「試合妨害で退場させてくれ」
翌日のスポーツ紙は、大川監督と新人選手のダッグアウトでの口論を、いっせいに報じていた。望遠レンズでとらえた二人の写真――顔を突き合わせ、にらみ合うカットまで掲載したスポーツ新聞もあった。
その日のナイターでは、周囲のほうが気を使って、気まずいムードが流れていた。チーム全員がしっくりしない中で、試合は始まった。第一打席で三振した貴史は、淡々とした表情でダッグアウトに戻った。
その彼を、大川はまったく無視していた。
次の打席では、前日に続いて貴史にピンチヒッターが出された。ほかの選手はまたひと悶着あるかと、いやな気分になっていた。ところが案に相違して、貴史は何も言わなかった。打席に向かおうとした彼は、持ったバットをグラウンドに叩きつけて、ダッグアウトを通り抜けた。
大川がのっそりと立ち上がって、貴史の後を追った。バッティングコーチの島野がその後に続いた。
「おい、タカ、ちょっと待て!」
大川は、前を行く貴史に声をかけた。
「なんスか、監督?」
貴史は振り返ると、ふてくされて返事をした。
その態度に、大川はカッとなった。島野が止める間もなかった。大川は貴史に駆け寄ると、彼の顔を平手で殴りつけた。
貴史はよろめいたが持ちこたえた。
大川の顔に、悪いことをしたという表情がよぎった。
貴史は、監督の顔をまっすぐに見ながら言った。
「監督、なんでぼくを信用してくれないんです?確かにぼくは今、スランプですよ。だけど前にも言ったように、そのうち打てるようになりますよ。ぼくは誰が何と言おうと、ぼくのやり方を通しますからね」
貴史は醒めた目で、大川を見た。「それから、ぼくは暴力を振るいませんよ。スポーツの世界では、ワン・ペナルティーですからね」
そう言って彼は足早に歩き去った。
大川は、気まずそうに若者の後姿を見送っていた。
貴史は監督から離れると、自分への歯がゆさに壁を殴りつけた。彼はそのまま壁に額を押しつけて、鳴咽をかみ殺していた。ようやく興奮がおさまると、彼はロッカールームに向かった。
島野は、物陰から貴史のようすを見ていた。今、タカを慰めてもかえって逆効果になる。ゲームは続いていたが、彼は密かにタカの後を追った。
次の試合では、貴史はスターティング・メンバーから外された。そのことを知ると、貴史は勝手に行方をくらませた。そして、貴史抜きの試合は、中日ドラゴンズにいいようにあしらわれた。
試合後、大川監督のもとに島野コーチが訪れた。
「監督、タカは村松先生のところにいますよ」
「あんなのほっとけ!」
「あいつを説得できるのは、監督しかいないんですよ」
「俺も匙をなげたよ。あいつはしばらく二軍行きだ」
島野は大川の顔をまじまじと見た。
「監督、タカは監督が好きなんですよ」
「よせやい。おれはそんな趣味ないぜ」
「まじめに聞いてくださいよ。このままじゃあ、タカだけじゃない、他のみんなまで駄目になる。あいつはチームのムードメーカーですからね。それにタカをチームに引き戻すのは、監督しかいない。いいですか、タカは監督と性格がよく似ている。言い出したらきかない。――それに、意地っ張りだし」
大川がなにか言おうとすると、それを押しとどめて島野が言った。「とにかく、村松先生のところに行って、タカが何をやっているか、一目見てやってください」
島野が退室したあと、大川は考え込んだ。しばらくして、彼は意を決して立ち上がると、上着を手にとった。
深夜の住宅街は、ひっそりと静まり返っていた。
タクシーを降りると、大川は村松博士の家に向かった。家に近づくにつれ、なにやら風を切る音が聞こえてきた。
大川は門扉を開け、脇の植え込みから音のするほうを覗き見た。
パンツ一枚の高山が、素足で庭先に立ち、素振りをしていた。広縁では、若者の素振りを村松博士が見守っている。
上半身裸の高山の首や胸は、すばらしく発達した筋肉が浮きでて、汗でしとどに濡れていた。まるで彫像のようだった。
ときどき村松がなにかを指示し、そのたびに高山はスイングをチェックして、ふたたび素振りを繰り返す。
こんなに真剣な表情の高山を見るのは、初めてだった。バットが鋭く空を切る音――若者の体から汗が飛び散った。そこには他人の入り込む余地のない、張りつめた緊迫感があった。
大川は植え込みの陰からそっと退くと、村松の家を後にした。途中、思い出したように、村松博士に電話をした。明日からの遠征に、高山に出てくるように言ってくれと。