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風の新之輔第三部 - 第三部邂逅(七)
(七)

赤坂にある徳川頼信の屋敷は、御城の西方に位置し、広大な敷地にあった。すでにあたりは宵闇に包まれ、人通りもまばらだった。
新之輔は、どこまでも長々と続く塀沿いに歩いていた。前後に人のいないのを確認して、塀に剣を立てかけ、鍔に爪先を乗せてよじ登った。紐をつけた剣を回収すると、背中に結んだ。保科に貰った脇差は、腰に差している。
塀の上より、中を見渡した。そこは雑木林になっていた。
内部に飛び降りると、懐より頭巾を取り出して、手早く顔を隠した。
屋敷の絵図面は無いので、勘で動くしかなかった。
外から窺った限りでは、母屋は東門に近いとみた。現在場所は、南側の通りから入ったところで、ここからだと東北の方向へ行かなければならない。
とにかく広かった。
いくつかの丘を越えて、ふたつある大きな池の間を通り抜けた。
常夜灯でほのかに照らされた庭が見えた。その先に母屋と思える大きな黒い影がある。

新之輔は大きく回り込みながら、庭木越しに頼宣の部屋を探した。白砂を敷き詰めた庭に面して、広縁のある箇所に出た。
白砂の上を歩けば音がする。おそらく頼宣の部屋はこの奥だろう。
新之輔は庭木から石灯籠の陰へと、闇を利用して母屋に近づいた。そこで人の気配がないのを確認して、床下にもぐりこんだ。
床下は何箇所か遮られていたが、完全な忍び返しの構造にはなっていない。武家屋敷は通常、敵の忍び込むのを防ぐため床下を低くしているが、ここは通れないほどでもなかった。泰平の世が続いて、新しく建てられた屋敷だからであろう。
膝をついて、見当をつけた方向に進んだ。
かすかに笑い声が聞こえた。
新之輔は、その声のした方へと進んだ。

「ほう、これは良い刀だ。手入れもよくされている」
「――」
「そのほう、この刀をどこで手に入れた」
「はっ、元は唐から伝わった刀でございます。それをある男が打ち直して、日本刀に致しました」
「ほう、唐のものでも打ち直すと、こんな見事なものになるのかのう」
「御意にございます」
新之輔は、床下で耳を澄ませて聞いていた。言葉少なに受け答えする声は、羽山竜之進の声だった。
ということは、もうひとりは徳川頼宣であろう。年配者の声だが、張りがあってよく通る声だった。
(今はたしか五十九歳のはず)
新之輔は、千住で見かけた頼宣の姿を思い浮かべた。その姿に声がぴたりと嵌った。
「余も昔は名刀を集めておった。それで囚人を試し斬りにしたものじゃ」
「――」
「それを吹聴しておったら、ある男に諫言(かんげん)された。殺人を面白がるのは、人の行いでない、とな」
「――」
「目が覚める思いがした。余はそれから、試し斬りを一切やめた」

新之輔は聞いていて、頼宣は貴人の残酷さがあるが、度量の大きい人間ではないかと思った。ふと頭に浮かんだのは、海滑藩主の首藤頼宗だった。癇癪持ちの頼宗なら、人に諌められたら逆にその人間を許さないだろう。
そのとき、竜之進の声を聞いて、ハッとした。
「――大納言さまは、紀州にお戻りにはならないのですか」
「戻りたいのはやまやまじゃ。紀州を留守にして、もう十年近くになる。しかし、伊豆が意地悪しおる」
「松平伊豆守さまですか――」
「そうじゃ。あやつとは、ことごとく考えが合わん。くそ真面目で酒も嗜まん。とにかく、あやつは嫌いじゃ」
新之輔はなんとなく理解した。徳川一族の元気の良い長老、徳川頼信、それを煙たがる幕閣。それにしては、保科正之の名前が出てこない。
(やはり、保科さまを襲った浪人者たちは、頼宣さまと無関係か)

そろそろ引き上げようと身動きしたとき、背中に差す刀の柄が、床板に当たった。
しまったと思った途端、殺気を感じて、新之輔は身を反らした。
すぐ目の前に、切っ先が突き出た。
「曲者っ」
上の部屋から、竜之進の鋭い声が聞こえた。
新之輔は素早く、もと来た方向へと逃れた。
「おのおの出会え。曲者でござる」
声と共に、襖を開ける音、廊下を走る足音が聞こえた。
新之輔は広縁に出ると、すかさず建物から這い出て、庭木のほうへと走った。そのまま自然木の生える茂みに入った。
背後を振り返ると、建物から出てくる家士たちの姿が見えた。手には灯りを持っている。その先頭に羽山竜之進の姿があった。

新之輔は西側の塀を目指して、樹林の中を走った。途中で、北の方角に転じた。そちらのほうに行けば、家士たちの住まう長屋がある。裏をかいて、あえてそちらへ向かったのだ。
塀際に松の木があった。その枝に飛びついて、反動をつけて塀の上に着地した。すぐ外の通りに飛び降り、北の方角に走った。
後ろから声が聞こえる。追っ手は裏門から出てきたようだ。
意外に早い対応に、新之輔は舌打ちした。
(くっ、追っ手をあなどっていたか)
新之輔は左の路地に飛び込み、大きな屋敷の塀を乗り越えた。
追っ手の声が聞こえた。
「そっちに曲がったぞ」
「どこだ」
「おらぬぞ」
そこに羽山竜之進の声が聞こえた。
「なんとしても曲者を捕える。おのおの、一帯を家探しするぞ」
新之輔は飛び込んだ敷地の隅で、屋敷のほうを窺った。まだ外の騒ぎに気付いた動きは無いようだ。そのまま屋敷に近寄り、広縁のある床下にもぐりこんだ。

「お出会い下され――お出会い下され」
ほどなく表門の方から、声が聞こえてきた。
「こんな夜中にどなたですか」
眠そうな門番の声が聞こえた。
「紀伊大納言さまの家中の者でござる。当家を襲った賊が、こちらのお屋敷に逃げ込んだやも知れませぬ。お館を改めさせていただきたい」
羽山竜之進の声だった。
「それは大変だ。しばしお待ちくだされ」
門番はあわてて屋敷の玄関へと走った。

しばらくして、おっとりとした声が聞こえた。
「開けてやりなはれ」
まったりした京言葉だった。
「へい」
老いた門番の声。次いで、門の開く音がした。
「夜分にご無礼つかまつる。拙者、紀伊大納言さまの家臣、羽山竜之進と申す。先ほど当家に忍び込んだ賊が、こちらに逃げ込んだと見えました故、お屋敷内を拝見させていただきたい」
「よかろう」
「では、庭の方から拝見つかまつる」

新之輔は床下の暗がりに身を潜めた。
庭を探し回る家士たちの足が見えた。
しばらくして「見当たりませぬ」「おりませぬ」という声が聞こえた。

竜之進の声がふたたび聞こえてきた。
「庭にはおらぬようでござる。恐れ入りますが、屋敷の中を拝見したい」
それに対して、鋭い声が聞こえた。
「さればそのほう、皇室と幕府を取り調べ致すと申すのじゃな」
先ほどのやわらかい口調とは、まったく違っていた。「この屋敷は、徳川将軍家が宮家のために用意したもの。それを知っての取り調べか」
「宮さまのお屋敷であることは、重々承知しております。されど大納言さまのお屋敷に、賊が――」
「黙れっ!いかに大納言の屋敷に入った賊であろうと、当家には何の関わりもないこと。それを庭先とはいえ見せてつかわしたのは、こちらの気遣い。それを図に乗って、屋敷内まで見せよとは、無礼にも程がある」
それでも竜之進は粘っていた。
「しかし、賊が屋敷に忍び込んで、宮さまのお身体に、万にひとつのことがあってはなりませぬ。なにとぞ宮さまにお取次ぎを」
とたん、凛とした声が聞こえた。
「たわけ者が。大納言の手のものなら、余の顔を知っておろう。余が東山宮宗顕じゃ」
竜之進があわてて飛び下がって、平伏した。
「ご無礼つかまつりました」
「分かれば良い。余とて、ことを荒立てるつもりはない。帰ったら大納言に伝えよ。熱海の湯の件は、予定通り執り行うと」
「ははっ」
「では去るがよい」

しばらくして、広縁の上から声が聞こえてきた。
「さて、どうじゃ、茶でも一服していかぬか、縁の下の客人どの。そこは冷えるであろう」
その声には、暖かい笑いが含まれていた。それも、羽山竜之進たちでさえ気づかなかった、侵入者の気配を察知しての上だった。
新之輔はバツの悪い顔をして、床下から這い出た。
[17/01/20 21:45 神亀]
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