■ スーパースター第一部 - (2)
(2)
翌週、高山貴史は、村松博士の医療施設を訪れていた。
そこはもっぱら、怪我をした人たちのリハビリ用の施設だった。しかし、故障していないのに、村松の提唱する科学的なトレーニングを受けるために、プロのスポーツマンも何人か訪れていた。
そこで数人の知名度のあるスポーツ選手を見かけて、貴史は目を輝かせた。
村松は、貴史の体力測定すべてに立ち会った。
所長みずからがそんなことをするのは、珍しいことだった。その日は体力測定だけでなく、血液検査、尿検査、心電図、脳波測定――貴史のあらゆるデータが取られた。
「実験に使われるモルモットの気持ちが、多少なりと分かったような気がしました」
全ての検査が終わって、診療室に戻ったとき、貴史が軽口をたたいた。
達雄はおだやかな表情で青年を見ていたが、内心は驚嘆していた。
彼は独自の体力評価のグラフを作っていた。円を中心から10分割し、中心点から放射状に伸びた10本の線に、各測定値をそれぞれの尺度で記入する。各点を横に結びつけた形が、その選手の体力傾向を表わすというわけだ。
ふつう、スポーツ選手は、自分の専門分野に関係のあるテストで抜群の成績をあげるのだが、専門外の部分では一般人とさほど変わらない。
ところがこの若者は、すべてのテストで高得点を上げ、体力評価のグラフは円に近かったのだ。とくにジャンプ力は、いままでのデータのなかで最高値を出していた。
達雄は測定結果を説明しながら、若者にそのグラフを見せた。
「今までたくさんのスポーツ選手の体力測定をやってきたが、こんな高いレベルで円に近いグラフを見たのは初めてだよ。これで見る限り、きみは広範囲のスポーツに適応した、非凡な体力を持った人間ってことになる」
それを聞いて、貴史は他人ごとのように言った。
「へーえ、そうですか。先生は、まるでぼくがスーパーマンのような言い方をされますね」
「わたしは事実を言ったまでだよ。もちろん、個々の測定値をとって言えば、きみの成績より上の選手はいる。しかし、きみのように、全てに渡って高得点をあげた選手は珍しい」
村松はひと呼吸おいて言った。「きみはプロ野球をめざすべきだよ。このグラフのデータから見れば、すべてにバランス感覚が要求される、野球や機械体操、十種競技などが最適だね」
村松博士の言葉に、貴史は黙って肩をすくめるだけだった。
達雄は、若者が医療施設から帰っていったあと、なにか大切なものを失った思いがしていた。
若者の体にじかに触れてテストをするときは、天にも昇る幸せな気分だった。
しかし、夢見るようなひとときは、あっという間に過ぎ去った。
彼はこれまで施設に来る何人かのスポーツ選手に、密かな思いを抱いたことはあるが、この若者ほどときめきを覚えたことはなかった。
遠い昔、ドイツに留学していたころ、ある白人男性と親密なつきあいをしていた時期があった。
若者はその白人男性に似ていた。達雄はこの先、若者に対して自分の気持ちを隠しておけるのか、自信が持てなかった。
――◇――
六甲大学は、リーグの決勝戦ともいうべき関西学院との試合で惨敗した。それでも、国立の大学が準優勝したということで、関西地区のマスコミは、普段より紙面のスペースを割いて、このニュースを取り上げた。高山貴史のことも、将来性豊かな新人選手として紹介されていた。
秋季リーグが終わると、学園祭が始まった。
貴史のような体育会系の学生たちにとって、文化系が中心の学園祭はあまりなじみのないものだった。それに国立大学であることから、私立大学のような華やかさもない。
その日、貴史はひとりで暇をもてあまして、ぶらぶらと学生会館のほうに向かっていた。館内のホールでは、ちょうど3人のジャズバンドが舞台に登場したところだった。
ドラムとベースが男、そしてピアノ兼ボーカルが女だった。
女は背が高く、170センチはありそうだ。大きく襟元をはだけた白のシャツに、ぴっちりと張りついた黒のスラックス。彼女は抜群のスタイルをしていた。そしてスタイルだけではなかった。頬骨が高く、エキゾチックな顔立ちをしている。
観衆が口笛を吹いた。
演奏が始まって、ジャズミュージックにのって女が歌いだした。
途端に場内が静まり返った。
シンとした場内に、パンチの利いたハスキーな歌声が流れた。
貴史は思わず聞きほれていた。彼はイギリス系ハーフの母親に、幼いときからピアノを教わっていたので、音楽の素養があった。その女の歌声には、非凡な才能があるのが分かった。
聴衆も静まり返って、彼女の歌に聞き入っていた。
心を揺さぶるような伸びやかな歌声がつづいた。そのバンドの演奏が終わったとき、割れるような拍手が場内を埋め尽くした。
「ハイ、きみ、ぼくにお茶をおごらせてくれるかい」
貴史は、ホールから出てきた女性に、思い切って声をかけた。
女が怪訝そうに貴史を見た。
「あなた、だれ?」
「きみのファンのひとりさ。親がつけた名前は、高山貴史っていうんだがね。まあ、お茶でも飲みながら、話をしようよ」
「だって、わたしはあなたを知らないわ」
「大丈夫。いま知ったじゃないか」
ふいに女が笑った。カラッとした笑い声だった。
「あなたっておもしろい人ね。わたし、本当はあなたを知ってるわ。野球部のピッチャーでしょう。いいわ、お茶をおごって」
女は後ろを振り返って、グループの男たちに声をかけた。「ねえ、みんな、高山くんがお茶をおごってくれるって」
女の背後で、警戒した目つきで貴史を見ていた2人の男子学生が、ニヤリと笑顔を見せた。太ったほうの学生が言った。
「じゃあ、遠慮なくご馳走になるか」
貴史は3人グループとすぐに打ち解けた。
彼らは全員、貴史と同じ1年生だった。女は朝丘友見と名のった。男たちは、がっちりした体格のほうが宇高、ずんぐりと太ったのが今岡。仲間内では、女がユミ、宇高は医学生であるところからドクター、今岡は子熊に似た体型からプーさんと呼び合っている。
「きみの歌を聞いていると、ジャズよりロックのほうが合ってるな」
貴史が批評すると、友見がにっこりと笑った。
「ロックもやるわ」
「じゃあなぜロックをやらないんだい。きみのパンチの利いた歌は、ぜったいロック向きだよ」
友見が溜め息をついた。
「人数が足りないの。ギタリストが、あと2人は欲しいところね」
「あと1人じゃ駄目かい?」
貴史は思わず言って、すぐにしまったと思った。
3人が貴史の顔を見つめた。
宇高がおずおずと尋ねた。
「きみ、エレキギターをやるのか?」
貴史は肩をすくめた。
「ごめん。実は、ピアノは小さいときからやっていて、すこしは自信があるんだけど、ギターはまったくの我流なんだ。それに、エレキはやったことがない」
3人は顔を見合わせた。楽天家の今岡がのんびりと言った。
「練習すればいいじゃないか。それにどっちみち、ユミをのぞけば、ぼくたちふたりは下手の横好きなんだから」
友見が面白そうに聞いた。
「でも、高山くん。野球をやっていて、私たちとバンドを組む余裕があるの?」
貴史は熱っぽい口調で言った。
「大丈夫。ぼくって中学生の時からマルチ人間で通してるんだ。スケジュールの調整と頭の切り替えじゃあ、自信があるよ」
貴史はアルバイトで貯めた金を使って、エレキギターを一式買った。足らない分は、鎌倉の父親に資金援助してもらった。
彼はバンドの仲間と一緒のときだけでなく、授業の合間や、下宿に帰ってからも、ギターの練習をした。何事も短時間に集中してやることは、彼の特技だった。そのお陰で、彼のエレキギターの腕前は、長足の進歩をとげた。
ベースの宇高もエレキギターを受け持ち、ボーカルの友見とドラムの今岡で、またたくまにロックバンドができあがった。
ロックを唄う友見は、見違えるように生き生きとしてきた。
半年も経つと、バンドの息が合ってきて、彼らは人前に出ても恥ずかしくないほどうまくなった。
そのうちアルバイトの口も増えてきた。彼らはクラブでジャズを演奏し、ディスコでロックをやった。
ときに貴史も、友見とデュエットで唄った。
貴史は、張りがあってよく通る声をしていた。仲間たちは、貴史の隠れた才能に驚き、そして喜んだ。彼と友見のデュエットは、まるで長い年月をかけて練習してきたように、息がピッタリと合って、声質もよくマッチしていた。
大学の授業にくわえて野球とバンド、それにときおり、大先輩の柴田とおつきあいのゴルフ――貴史のスケジュールはぎっちりと詰まっていた。
そんな超過密なスケジュールの合間に、貴史は友見への愛情を募らせていた。
大学2年の夏のある日、貴史は友見の下宿部屋にいた。貴史が彼女の部屋をおとずれたのは、その日が初めてだった。室内は女性の部屋らしく、きちんと片づけられていた。学習机と本棚、ギター、そして部屋の片隅には白いシーツのかけられたベッドがあった。
「福岡はいい所だったよ。食い物はうまいし、物価も安い。それに福岡の人たちの気質って、ぼくに合うんだ。明るくて、のんびりとして、それに人懐っこくて――」
「でも家族は鎌倉でしょう。どうして福岡の高校に行ってたの?」
「親父の仕事の関係さ。親父は建築関係の仕事をしていてね。それで家族は、ひととき福岡にいたんだ。ところが、ぼくが地元の高校に入学したあと、親父とおふくろは鎌倉に戻った。結局、ぼくだけが福岡に残って、単身生活さ」
「でも、お母さんは心配しなかったの?」
「おふくろは、親父にくらべると、すごく楽天家なんだ。ぼくが神戸の大学に行きたいと言ったとき、親父は反対したんだ。東京の大学にしろってね。ところが、おふくろはいともあっさりと言ったよ。あら、可愛い子には旅をさせろって言うじゃない、とね。それで、その問題は解決さ」
「いいお母さんね。わたしのところは逆よ。母は日本女性の典型なの。心配性で、なにごとも控えめで――。わたしが淡路島の実家を離れて、神戸で下宿すると言ったとき、母はすごく心配したわ。もうそれだけで、まるで一生離れ離れになるような沈み込みようだった。だからわたしは、貴史のお母さんのような人に憧れちゃうな」
「でも、すごい、おっちょこちょいなんだ。もっともこれは、じいさんの血を引いているらしい」
「おじいさんて、イギリス人でしょう」
「ああ――ぼくが小さいときに死んだけどね」
貴史は遠くを見るような目つきをした。
ふたりは、とりとめもない会話をかわしながらも、おたがいを意識していた。会話がとぎれがちになったとき、ふたりはお互いの目を見つめ合っていた。
友見の情熱的に輝く大きな瞳が、熱っぽくうるんでいた。すんなりとした鼻筋と、やや大きめの口――貴史は彼女の顔を見詰めていて、息苦しくなった。
ふたりの沈黙はつづいた。
静まり返った空気中で、お互いの胸の鼓動が伝わってくるようだった。
やがて――。
ふたりは、どちらからともなく抱き合った。
唇と唇が触れあい、若い熱情がいっきに燃え上がった。ふたりはそれまでの自制心をかなぐり捨てて、お互いの体を求め合った。それから抱き合ったまま、ベッドに倒れ込んだ。息詰まる興奮と甘酸っぱい痛み、一体になった充足感、そして極みでの喘ぎ声――。
その日ふたりは、初めて愛を交わした。