(1)
「村松先生、明日、大学野球を見に行きませんか?」
ベッドの中で、内科医の柴田和善が話しかけてきた。白髪、小柄な男で、大の野球ファンである。
二人は熱い交わりを終えて、ようやく呼吸が治まったところだった。
村松達雄はうつ伏せに横たわって、房事のあとのけだるさに身を任せながら、のんびりと返事をした。
「野球か――そういえば、しばらく見ていないなあ」
医学会の集まりで、スポーツ医学をテーマにした講演を終えたあと、達雄はお仲間の柴田を誘って、自宅で親密なひとときを過ごしていた。
ふたりは大阪のホモスナックで偶然知り合い、ともに医師という共通点で、それ以来の仲である。
柴田と時折、ベッドを共にするようになって2年近くになる。柴田は達雄より年下で小柄だが、元気の良い男の道具を持っていた。さほど大きくないが、形が良くて、口に含んでも後ろに受け入れても、心地よい刺激を与えてくれる。
柴田は念押しするように言った。
「ぜひ行きましょうよ。万年Bクラスだった我が母校も、今年は初めてベストフォーの位置にいるんですわ」
「それはお楽しみだ。六甲大学でしたね」
「そうです。なにしろ、すごい新人がいるんですわ。まだ1年生なのにエースピッチャーで4番バッター。とにかく、すごい男ですわ。先生のご専門分野から見ても、なかなか興味深い選手だと思いますよ」
「――」
リスのような愛らしい瞳を輝かせて話す柴田を、達雄は黙って見つめた。
「じゃあ明日、昼の1時に車で迎えに来ます」
柴田は勝手に決めこむと、達雄の尻に手を這わせた。
オリックス・ブルーウェーブの本拠地になっている神戸グリーン・スタジアムに来るのは、1年ぶりだった。あのときは地元オリックスが日ハムに3対1で勝ったときだ。
関西大学野球のリーグ戦も後半に移り、その日は同志社大学対六甲大学の試合――前評判では前年の優勝校、同志社の圧倒的優位だった。
試合は同志社の先攻で始まった。
プレー開始のサイレンの甲高い音。目に鮮やかなグリーンと茶色のグラウンドに散っていく、六甲大選手たちの白いユニフォーム姿。
若人たちの溌らつとした姿を見ていると、達雄はいつもながらに、わくわくとする胸の高まりを覚えた。
試合が始まった。
きのう柴田の言っていた新人がどの選手であるか、すぐに分かった。
マウンドに立つ長身のピッチャーは、遠くて顔の詳細は分からないが、白人系ハーフのようだ。
まず先頭バッターをあっさりと三振に切ってとった。ストレートは打者の手元でグンと伸び、カーブは大きくブレーキがかかって、落差が大きかった。
その選手の投球は、伸び上がるようにワインドアップして、投げる前に打者に背中を向ける変則フォームだった。
しかし、上半身がバネのようにたわみ、長い腕が鞭のようにしなる。それを支える下半身は、大地をがっちりと掴む粘っこい葦のようだった。柔軟な肉体をしているからこそ出来るフォームだ。
達雄はたちまち、このピッチャーの流れるようなフォームに魅了された。優雅で、しなやかで、それでいて力強かった。その動きには寸分の無駄もない。まるでスポーツの芸術作品を見ているようだった。
同志社が3者凡退して、1回裏の攻撃が始まった。
先頭打者が2塁手のエラーで生き、バントで2進、続くバッターがセンターフライに打ちとられた。そしてバッターは背番号1、先ほどのピッチャーだった。彼は3球目を強振した。鋭い打球音とともに、白球が糸を引くようにレフト方向に飛んでいく。
横の席で柴田が歓声をあげた。1点が入って、打ったバッターは、ゆうゆうと二塁に進んでいた。
達雄はその選手のプレーを見ていて、奇妙な感覚にとらわれていた。こんな場面は前に見たような気がした。若者の走る姿は、まるで豹のようだった。あの走るフォームは、以前――達雄は横の柴田に、その選手の名前を聞いた。
高山貴史!
やっぱりそうだったのだ。一昨年の福岡国体、ハードル競技で優勝した高校生だった。とたんに、長い間、行方不明だった恋人に出会ったかのような、感動を覚えた。
結局、試合は2対0で六甲大学が勝ち、関西学院と同率首位に立った。柴田の喜びようは、並大抵ではなかった。彼はこれから選手たちを集めて、夕飯をご馳走すると言う。その席に達雄も誘われた。
間近に見る若者は、体格だけでなく顔立ちも、すっかり青年らしくなっていた。見ているだけでも、たくましい精神力が伝わってくる。彫りの深い端正な顔は、初老の達雄でさえ、思わずゾクッとするような魅力をたたえていた。切れ長の目が達雄を涼やかに見おろしている。
「きみには以前会ったことがあるんだよ」
達雄は、柴田に紹介されたときに言った。
「ぼくも村松さんを覚えています。福岡国体のときでしょう?」
達雄は嬉しくなった。まさか若者が自分のことを覚えていようとは、思ってもいなかったのだ。
「記憶力がいいね。陸上競技はやめたのかい?」
高山は、にっこりと微笑んだ。
「ええ、団体競技の野球のほうがおもしろくなりました。それに、高校までは欲張って、あれやこれやとやっていましたが、大学ではなかなかそういうわけにはいかなくて――」
「スポーツ万能なんだね。将来はプロ野球選手かい?」
高山は肩をすくめた。
「とんでもないです。ぼくなんか、とてもプロの世界では通用しません。それに、ひとつのことをずっと続けるのは、あまり得意じゃないんです」
横から柴田が口をはさんだ。
「村松先生、高山くんは建築を学んでいるんですわ。将来有望な、建築家の卵だな」
「ほう、きみは建築家の道を目指しているのか」
達雄は意外な気がした。
高山は恥ずかしそうに微笑んだ。
「ええ、父が建築関係の仕事をしていますから」
「お父さんと同じ道を歩むんだ。しかし残念だな。きみのようにスポーツの才能があれば、プロの世界でも立派に通用するのに」
柴田が、達雄の言葉にあいずちをうった。
「わたしもそう思います」
それから青年のほうを見て「スポーツ医学の権威者である村松先生が太鼓判を押すんやから、間違いなしだ。高山くん、考え直したらどうや?」
若者は、見ていてほのぼのとしてくるような笑顔を浮かべた。
「そうおっしゃっていただいて、正直言って、悪い気持ちはしません。でも、さっきも言いましたように、ぼくはいろんなことをやってみたいんです。実はいま、柴田先輩に、ゴルフを教えてもらっているんです」
柴田がおどけて言った。
「教えるやなんてとんでもない。コースに出て3回目で80台を出す男を、なんでわたしが教えるんや」
「3回で80台――たしかにきみは、もって生まれた運動能力をもっているようだね。どうだい、一度わたしのところで体力テストを受けてみないか?」
高山は軽く承諾すると、仲間たちのほうに戻っていった。
達雄が見ていると、青年は新人らしく、ビール運びや食事の準備で、かいがいしく働き出した。ときおり他の選手に肩を叩かれて、今日の活躍を祝福されている。そんなとき青年は、けっして天狗にならず、それでいて先輩たちに対して卑屈にもならず、さわやかに受け答えしていた。
達雄の視線の先を追って、柴田が言った。
「いい男でっしゃろ」
「ああ、感じのいい青年やね」
「彼を見てると、新しい世代のいいところがよう分かります。誰に対しても物怖じしないし、明るくてさわやかや。それに――どんな難しい局面でも、深刻に考えず、あっさりとやってしまう。わたしたちにない生きかたです。うらやましい限りだ」
「――」
「彼のような性格と才能があれば、何でも出来そうな気がしますわ」
「――」
達雄は、若者を称賛する柴田を見ていて、ふと二人の関係を疑った。
それに気づいたのか、柴田が顔を寄せてささやいた。
「あの若者とは何もありません。彼は純情なノンケやし、わたしは先生のような年配の男性しか興味がありません」
そこで彼はウインクした。「それより村松先生にお願いがあります」
「何ですか?」
「わたしは、我が母校からプロ野球選手が出ることを、長年、夢見つづけてきました。その最有力候補が、今、六甲大の野球部にいるんです」
柴田は視線を学生たちのほうに転じた。
「先生はスポーツ医学の権威です。どうか高山くんの潜在能力を引き出して、わたしの夢をかなえてくれまへんか」
達雄は、柴田の熱っぽい口調にとまどいを覚えたが、一方で、あの若者の才能を開花させてみたい、という欲望も感じていた。
(しかし、あの青年はその気になるのだろうか)
達雄は柴田に向かって、あいまいに肯いた。
