■ 風の新之輔第三部 - 第三部邂逅(四)
(四)
ふたりはまだ夜の明けきらぬ六つに宿を出て、荒川の渡し場、羽根倉を目指した。
道に不案内な上、人通りもないので難儀した。それでも荒川に突き当たって、なんとか渡し場に着いた。
渡しは木の筏に乗って、船頭が竿差して水上を進む原始的なものだった。
そしてまた、じょじょに明るさを増す原野の道を、七、八町ほど歩いて、ようやく新河岸川の宗岡河岸に辿り着いた。
そこで四半刻ほど待って、やってきた屋形船に乗り込んだ。船客は十人ほどで、商人や職人らしき者がいたが、武士の姿は無かった。
川は右へ左へと蛇行しながら流れていた。これは船の運行に適するよう、水量保持のためにわざと曲げているという。
新之輔と保科は船縁に座って、外の景色を見ながら、ときおり思いついたように話をした。二人が武士であることから、ほかの乗客たちは遠慮して、すこし間をあけていた。
「お身体の調子は、いかがでござりますか」
新之輔が気遣って、保科に声をかけた。
「まだそなたが入っている気がする」
「痛い思いをさせて、申し訳ございませんでした」
「いや、それほどでもなかった。ただあのときは、気持ちだけが先にきて、怖かっただけじゃ。それに、余もこれで衆道を経験することができた」
そこで保科は、上目使いに新之輔を見た。「どうじゃ、丁子油と言うたか、あの滑り薬を余に譲ってくれぬか。汁の少ない女子に使うてみたい」
「駄目です」
新之輔はにべもなく断った。
実のところ新之輔は、保科正之と強引に衆道の契りを結んだことを、後ろめたく思っていた。昨夜はつい肉欲に負けて、年配者のやわらかい身体を押し開いてしまった。しかし、冷静になると空恐ろしいことをやったと思う。
なにしろ、大身の大名、それも神君徳川家康公と血のつながりのある人物を、慰み者にしたのだ。
しかし一方で、保科正之の品のある楚楚とした容貌や、驕らないすなおな性格に、深い情愛を覚えていた。
新之輔に限らず、正之の容貌や性格は、多くの男たちを惹きつける魅力があったようだ。
正之が成人後、兄弟であることを知った次兄の徳川忠長に大変気に入られ、祖父徳川家康の遺品を与えられている。
また将軍である長兄の徳川家光にも、ことのほか可愛がられ、信頼された。正之は、兄弟としてではなく臣下として家光に接し、そのことがますます家光の信頼を得たのだ。
そのお蔭で、高遠藩三万石の小さな藩主から、最後は会津藩二十三万石の藩主となったのである。
しかし、一見幸せそうに見える彼の人生も、苦難の連続であった。
幼い頃には父である二代将軍秀忠の正室から命を狙われ、のちに成人して多くの子を設けても、そのほとんどが早逝している。
また、徳川家光が死んで家綱が十一歳で後を継いだとき、正之はこの甥にあたる将軍を、幕閣の中心となって支えた。このため正之は、会津藩の政(まつりごと)を家臣たちに任せて、本人は会津に戻らず、江戸城で幕政のために滅私奉公していたのである。
家綱の時代に安定政権を築けたのは、この保科正之たち老幕閣のお蔭である。
船頭ののどかな歌声が聞こえてきた。
川越舟唄である。
千住節とも呼び、千住宿の遊郭から流行したと言われている。この唄は口から出まかせに歌うため、決まった順番はない。
――千住女郎は錨か綱か、上り下りの舟とめる――
千住は、船頭たちあこがれの遊里でもあった。
「やはり、戰(いくさ)の無い時代は良いのう」
舟唄を聞きながら、保科がしみじみとした口調で言った。
「ご前は、戦を経験したことがおありですか」
「いや、無い」
新之輔の問いに、保科はあっさりと否定した。
「余が生まれたのは、大坂夏の陣の四年前じゃ。しかし、戰の爪痕はずっと見続けてきた。戰は終わっても、その辛苦は容易に治まらぬものじゃ。――そのほう、慶安の変を知っておるか」
「拙者は豊後の国にいましたが、その事件は、風の便りに聞いております。十年ほど前、由井正雪らが浪人者どもを集めて、幕府を転覆させようとしたのでござろう」
新之輔は思い出しながら答えた。
「そうじゃ。由井正雪は優秀な軍学者で、幕府はもとより各地の大名からも仕官の誘いが来ていた、と聞いておる。そんな男が、なぜ仕官の誘いを断ってまで決起したのか、そのほう分かるか」
「それは――幕府に不満があったからでござろう」
「ふむ、誰しも考えつきそうな、凡庸な答えじゃな」
揶揄するように新之輔の顔を見て、保科は話をつづけた。
「徳川幕府になって、多数の大名が厳封改易されてきた。結果、浪人の数が激増した。
彼らは再仕官の道も険しく、それかといって、百姓町民に転じる者も少なかった。そんな彼らは、ご政道に不満を持ち、生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者もいた」
保科は息をついた。
「由井正雪は、そうした浪人たちの支持を集めた。そんな折、厳しい武断政治を推し進めてきた家光公がお亡くなりになり、まだお若い家綱さまが後をお継ぎになると決まった。正雪はこれを好機とみて、幕府の転覆と浪人の救済を求める行動を開始した」
そこで保科は、新之輔の顔をまっすぐに見た。
「そなたも主を持たぬ浪人者だ。由井正雪の動きをどう思う」
新之輔は腕を組んで、しばし考え込んだ。そして顔を上げた。
「拙者には、それを語る資格がござらぬ。幕府に不満を持っておらぬし、どこぞの大名に仕官する気もない。ただ風の吹くまま気の向くまま、自由に生きていくのが、拙者の本懐でござる」
「しかし――海滑藩を怨みに思うておろう」
「――!」
保科の言葉に、新之輔は愕然とした。海滑藩のことは一言も口にしていない。なのに、なぜ保科は知っているのか。
「そのほう先ほど、豊後の国にいた、と申したではないか。余も幕政に就く者、津々浦々の情報は入っておる。――三年前、海滑藩の首藤宗顕という男が急死した。藩主の叔父にあたり、普段から藩政に批判的な男だったようだ。一応、病死とされたが、その実は、ひとりの武士に切り殺され、その武士は海滑藩から脱藩したと聞く」
保科は、新之輔の顔をまっすぐに見た。
「その武士とは、そなたのことであろう」
(やはりこの男は鋭い)と思ったが、新之輔は無表情を装った。
「余はその話を聞いたとき、捨ておけ、と大目付に申した。前の世なら、なにかと難癖をつけて藩の取り潰しを画策しようとするじゃろうが、今の世は武断よりも文治だ。これも慶安の変の教訓からじゃ」
「――」
「そなたの顔を見たとき、以前会ったような気がした。そして豊後の国と聞いて、思い出した。海滑藩の前藩主、首藤宗定じゃ。人物の大きい立派な大名じゃった。そなたは、顔も身体つきも、その宗定に良く似ておる。そこで思うた。いろいろ複雑な事情はあるようだが、おぬしは宗定の隠し子ではないかと」
「――」
新之輔は沈黙を押し通した。しかし、そのこと自体が、保科の呈した疑問の答えになっていた。
「余も隠し子じゃった」
ふと保科がつぶやいた。しかしそれ以上、口に出さず、新之輔もあえて聞かなかった。
保科正之は二代将軍徳川秀忠の四男であったが、母親の身分が低く、庶子であることから素性を隠して育てられた。秀忠の正室が嫉妬深くて、闇に葬り去られる恐れがあったからだ。
正之は武田信玄の次女見性院に預けられ、その縁で六つのとき、武田氏の家臣だった信濃高遠藩主の保科正光の子として養育され、元服後、保科姓を名乗るようになった。
後に幕府より、由緒ある松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。
子孫が松平姓を名乗って、葵の御紋を使うようになったのは、三代目からである。
船が千住に着いたとき、保科はここで降りると腰を上げた。
「ご前、急にどうしてでござるか?」
新之輔があわてて聞くと、保科はこともなげに言った。
「どうも浅草まで乗るのは、敵が待ち受けているような気がする。それで大事を取って、手前で降りて駕籠でもさがそうと思う」
確かにそれは一理ある考えだった。それに新之輔には別の問題――黒鉄衆のことがある。本庄で襲われて以来、黒鉄衆の動きはなかった。しかし、安心はできない。それに終着地の浅草は、人目につきやすい。
(そういえば新造は言っていた、小壺芳美は浅草寺の近くのあさがお横丁にいると)
芳美の顔を思い浮かべると、すぐにでも会いたくなった。しかしその前に、保科を江戸屋敷まで送るのが先だ、と思い直した。
船を降りたところで、保科が妙に浮きうきとした様子なのを見て、新之輔はくぎを刺した。
「ご前、千住で降りたのは、まさか宿場女郎が目当てではなかろうか」
保科は気分を害したようだ。
「馬鹿を言うな。余はそのようなことを考えておらぬわ」
言ったあと、保科は少し心残りの表情をみせた。
道を歩いていると、保科がふいに新之輔の袖を引いて、物陰に寄った。
見ると、物々しい格好をした行列が、脇道から出てくるところだった。服装から見て、鷹狩でもした帰りのようだ。
千住にも将軍家のお狩場があって、白鷺や川鵜が生息していた。
馬に乗る堂々とした風采の人物が、一段と目を惹いた。歳の頃はすでに老境にあるようだが、見た目は壮年の覇気を漂わせていた。恰幅の良い身体つきをして、福々しい顔にいたずらっ子のような目が輝いていた。
「紀伊さまがなぜ――」
保科がつぶやいた。それから新之輔に説明した。「紀州藩主の徳川頼宣さま――御三家のおひとりだ。故あって、この十年ほど江戸詰めとなっておるが」
しかし、新之輔の関心は、ほかに向けられていた。徳川頼宣を警護するように、油断なく目を配らせるお付きの者がいた。その武士はなんと、下関で剣を交えた風神流の羽山竜之進であった。
結局、その日は千住で宿泊した。
千住で一夜を過ごす二人の思惑は違っていた。
保科は宿場女郎に興味があった。生活感のある庶民の女はどんな具合なのか、それを知るいい機会だった。
いっぽう新之輔は、何とかもう一度、保科と情を交わしたかった。年配者のやわらかい身体を押し開いて入ったときの、息詰まるような悦楽が思い出されて、気も狂わんばかりの肉欲が募っていた。このあと江戸に戻れば、保科は雲上人だ。とても近寄れるような存在ではない。
結局、路銀を持っている新之輔の思いが通った。
その夜、新之輔は思いのたけを込めて、年配者の身体を愛撫した。
やわらかい腰から尻へと、無骨だが思いやりのある手が撫でる。指の腹が尻の穴の縁にあてがわれ、ゆっくりと押し滑る。丁子油のつけられた指は、滑りが良い。
「どうですか、ご前」
「なんだか――妙な気分じゃ」
「それでは――これはどうですか」
指の先がツルリともぐり込む。
「ぬぬっ――そ、それは」
ツルリ、ツルリ――指が無遠慮に出入りしだした。
「ひいっ――なんだか、これは――ぬああっ」
女たちの嬌声と男たちの野太い唸り声が行き交う宿で、ひと部屋だけは、男同士の奇妙なうめき声が続いていた。