目 次
風の新之輔第三部 - 第三部邂逅(三)
(三)

朝、目覚めた新之輔は、左腕の痺れを覚えた。夜通し保科を抱いて寝て、腕枕をしてやっていたからだ。
立ち上がった新之輔につられて、保科ももそもそと起きだした。
ようやく乾いた衣服を身に着けて、保科は人心地ついた表情をしていた。
心張棒を外して板戸を引き開けると、外はまだ薄闇だった。
ざっと見渡して、異常がないのを確かめた。川まで行って、顔を洗った。水はしびれるように冷たかった。

保科と相談した末、舟を捨てて、歩いて中仙道に出ることにした。
皮の鎧はかさばるので持っていくか迷ったが、結局、人目につくことを覚悟で身につけることにした。
二人は雑草地や雑木林を歩き、小さな集落をいくつか通り抜けた。
途中で農家に寄り、豆板銀を与えて、朝飯を食べさせてもらった。麦飯に味噌汁、大根の葉のお浸しが出た。質素な菜だが、腹の減った二人にはご馳走だった。
二人が食事をする間、百姓は貰った豆板銀を珍しそうに見ていた。当時の貨幣は、西は銀貨、東は金貨が普及していて、百姓たちが目にするのは、もっぱら銅貨であった。それぞれの貨幣を交換する、為替業を営む商人もいたが、交換比率は一様でなかった。

畷道(なわてみち)を歩いて、ようやく中仙道に出た。道行く人に尋ねると、鴻巣と桶川の中間にあり、鴻巣のほうが近いと言う。
しかし保科は、桶川のほうが江戸に近いと言って、先に立って歩き始めた。歩くより駕籠に慣れていると思えるのに、年配者の足取りは意外に早い。
桶川宿に着くと、保科はまっすぐ本陣に向かった。
本陣は参勤交代などのとき大名や公家の宿泊する施設で、有力旧家の邸宅をあてていることが多い。ここ桶川は府川家の屋敷で、主に加賀百万石の前田家などが定宿にしていた。
保科が名を告げると、「しばらくお待ちくださいませ」と言って、家士は慌てた様子で奥に引っ込んだ。
すぐに主らしき男がやってきた。歳の頃五十代、穏やかな顔と恰幅の良い体つきをしている。男はその場に平伏して言った。
「これは肥後守さま、栗橋で襲われたと聞き、心配しておりました。どうぞ奥へお上がりください」
主は、保科と顔見知りのようだった。それに、保科が浪人者たちの襲撃にあったことは、すでに知っていた。

奥の部屋で落ち着くと、保科は家の主に事の顛末を話した。新之輔は二人に遠慮して、部屋の隅で控えていた。
二人の話を聞いていて分かったことは、主の名前は府川宗右衛門ということ。保科正之は陸奥会津藩の藩主であること。そして驚いたことに、どうやら徳川将軍家の血を引いているらしいのである。
(これは少々、言葉を変えねばならぬか)
新之輔は、ひそかに思った。
「それで、供の者の消息は聞いておるか」
保科の問いに、宗右衛門は沈痛な面持ちで答えた。
「お名前はお聞きしておりませぬが、お一人だけ一命をとりとめたようです。あとのお方は残念ながら――」
「そうか――。して、襲った者は捕えたのか」
「それも残念ながら、ひとりとして捕えていません」
「――」
腕を組んで思案する保科に向かって、宗右衛門は言った。
「ご前が無事こちらにおられることを、栗橋関所にお知らせしておきます」
保科は少し考えて言った。
「それは待て。すぐに人が来ると煩わしい。余はゆっくりしたい。それから、江戸表にはあとで文をしたためるから、飛脚を頼む」
「承知いたしました。他に何かございますか。わたくしで出来ることでしたら、なんなりとお申しつけ下さい」
「そうよのう――」
保科は腕組みを解いて答えた。「暖かい湯に浸かりたい」

「やはり風呂はよいのう」
湯に浸かりながら保科正之は、向かいにいる新之輔にのんびりと話しかけた。本来なら身分の違いから、とても一緒に湯に入ることなど出来ないが、保科の一言でこうして湯屋にいるのだ。
「ご前が雲上人と知ったからには、ご一緒すること自体が、恐れ多いことでござる」
新之輔が多少緊張気味に答えると、保科は鷹揚に言った。
「案ずることはない。なにしろそなたは、余の念者じゃからのう」
念者とは男色関係の兄貴分のことである。ご前はその意味を本当に知って言っているのか、と新之輔は訝った。
「それにしても、そなたは立派なへのこを持っているのう。さぞかし大勢の女どもを泣かせたであろう」
保科が含むところのある顔で言った。そう言う保科も、凡庸な身体つきながら、胴太いへのこをぶら下げている。
新之輔は正直に答えた。
「いや、拙者は女を抱くことができませぬ」
「――」
保科は新之輔の顔を無言で見ていたが、静かに言った。「おぬしの身体の無数の刀傷といい、どうもおぬしには深い事情がありそうだな。いますぐとは言わん、おぬしがその気になったら話してくれぬか」
新之輔は、年配者のなめらかな肌を見ながら言った。
「話したら、拙者の悩みに応えてくれますか」
「――意味がもうひとつ分からんが、余で出来ることなら、なんなりと応えてやろう」
保科は実直そうに言った。

桶川は江戸から十里の位置にあり、一日で歩く道程であることから、定宿としてよく旅人たちに利用されていた。さほど大きな宿場ではないが、周辺で生産される農作物の集散地として賑わっており、とくに、ここで生産される桶川臙脂(おけがわえんじ)と呼ばれる紅花は、この地を経済的に潤わせていた。
そのせいもあって、桶川宿は活気にあふれていた。
翌日、ふたりは町中をぶらついた後、旅立つことにした。

「世話になった。文を出したから、追って江戸表から礼も届くじゃろう」
「とんでもございません。肥後さまにお泊りいただけるだけでも、とても名誉なことでござります。ところで、もう栗橋関所にお知らせしてもよろしゅうございますか」
「おお、頼む。あまり大げさにしたくないので、余はこの者と二人ですぐに出立する。
では府川どのも達者でな」
保科は府川宗右衛門に別れを告げると、新之輔を伴って本陣の屋敷を出た。ふたりの衣服は、本陣で働く女の手入れで、すっきりと整えられていた。そして頭には、本陣で用意してもらった菅笠をかぶっていた。
保科は脇差を身につけていたが、府川が太刀を用立てしようとすると、「余には用心棒がいるから大丈夫」と言って断った。

遅い出立だったので、大宮宿には八つ(午後二時)頃に到着した。
保科は問屋場に行ってなにやら聞いていたが、今日は大宮に泊まると言いだした。初冬とは言えいくらなんでも早すぎる。そのことを新之輔が指摘すると、保科が説明した。
「じつは新河岸川の舟運に乗ってみたくてな。伊豆どのがいつも自慢するので、興味があった。ちょうどいい機会だから、乗ることにした」
伊豆どのとは、知恵伊豆と呼ばれる、松平伊豆守信綱のことである。
松平信綱が川越藩主になってから、新河岸川の舟運が本格的に開始された。川越藩の年貢米輸送が主であったが、帰り荷に周辺畑作地帯への肥料を積むことで、農村部との結びつきを強めていた。やがてこの舟運の中に、早船と呼ばれる、乗客を主として運ぶ屋形船が加わった。
保科はその屋形船に乗ろうと言うのだ。
「ところがこれから行っても、荒川の渡しが終わっている。だから明日早くに立つことにした」
新河岸川は、しばらくの距離を荒川と並行して流れている。従って、新河岸川まで行くには、まず荒川を渡らねばならなかった。
「それでは江戸にもどるに、遠回りになりませぬか」
「若いのがそういうことでは困る。なにごとも経験じゃ」
保科は威張って言った。
「しかし、物見遊山とも思えますが――」
新之輔は小声で嫌味を言ったが、保科は聞こえぬふりをしていた。

ふたりは一般客の泊まる旅籠に入った。湯屋で時間をたっぷり使って身体を洗い、部屋に戻ると、少々行儀は悪いが畳に寝そべって話をした。
新之輔は、保科と一緒にいると、なぜか心が安らぐのを覚えた。保科の醸し出す雰囲気が、医師の小壺芳美を思い出させた。
いつしか新之輔は、自分がなぜ女を抱けぬのか、また、昌造爺との衆道の契り、そして身体の刀傷の理由などを語っていた。しかし、海滑藩や関わる人物の名前は伏せていた。
新之輔が話し終ると、保科はため息をついた。
「やはり、かなり複雑な事情があったのだな。で、その爺とか申すのは、今どうしているのだ」
「爺は――死にました」
「そうか――」
「今でもときどき爺の夢を見ます。爺は生涯ただ一人の、衆道の連れ添いでした」
「しかし、そなたは前に、大寺の僧侶の言葉を引き合いに出していたのう。その僧侶とも契りを結んだのであろう」
(――うっ、鋭い)
保科の記憶力の良さに、新之輔は言葉を失った。そこで無理矢理、攻勢に出た。
「これで拙者の事情はお話申した。あとはご前が、拙者の悩みに応えて戴くだけです」
「なんのことだ」
「ご前はお約束なさいました。拙者の悩み――衆道の相手をしてやると」
「悩みに応えるとは言ったが、衆道の相手をするとは申してない」
「同じことです」
「同じではない。衆道と申さねば分からぬではないか」
「武士に二言は無い、と申します」
「そんなの、屁理屈だ」
「それに、命を助けられた恩義もあるでしょうし――」
「――」
とうとう保科が折れた。「――分かった!ただし、一度だけだぞ」
そこで初めて、新之輔は、自分の強引さに嫌気がさした。しかし、衆道の契りを許すとは言わなかった。

部屋に敷かれた寝具の上に、保科は落ち着かなげに座っていた。少し上体をねじって、うっすらと脂肪の載った滑らかな腰や、丸みをおびた白い臀が、いやでも目についた。
それが薄明かりにぼうっと浮かび上がり、妙になまめかしく感じられた。
柔らかく息づく身体を見て、新之輔は、肉欲が漲ってくるのを覚えた。
彼は夜着を肩から落とし、下帯を解いた。
ギンと隆起した魔羅を見た途端、保科は怖気づいた。
「ま、待て!やはり取りやめじゃ」
「この期に及んで、止めることはできませぬ。男らしく、拙者を受けてくだされ」
「そうは言っても、出来ぬものは出来ぬのじゃ」
「ならば、力づくにてやりまする」
「待ていっ!――ひいっ、殺されるっ!」

翌朝、二人のお膳の前でお茶を入れながら、旅籠の女が訊いた。
「昨夜は、悲鳴のような声が幾度となく聞こえましたが、大丈夫でござりますか」
新之輔は、やつれた表情の保科のほうをちらりと見て、何食わぬ顔で言った。
「なあに、連れが悪い夢でも見たようだ。大丈夫でござる」
[17/01/17 10:29 神亀]
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