■ ウィタ・セクスアリス(胎動の門) - (プロローグ)
(プロローグ)
ぼくは東京で生まれ、6歳になったとき北九州に移り住んだ。父が他界して、九州にいる母方の祖父母のもとで暮らすことになったのだ。
さいわい祖父は資産家だったので、生活に苦労することはなかった。
ぼくには3人の姉がいた。祖母と母、姉たちの女性5人に対して、祖父とぼくの男性2人の家族構成である。
おとなしい祖父の存在感は、きわめて薄かった。対する女たちは、いつも賑やかだった。女はかしましい生き物というのが、幼少期から植え付けられたぼくの考えだった。
祖父は田舎町でも評判の男前だったようで、古い写真を見ると、古風なタイプの二枚目である。すんなりと鼻筋がとおって、目は優しく涼やかで、口もととあごの線に、熟年男の甘い色気が、そこはかとなく漂っている。
少年時代のぼくは、老若男女を問わずに人気があったようだが、それは多分に祖父の血を継いでいたからだ。
母は機嫌の良いときに、よく話してくれた――幼い頃のぼくが、どんなに愛らしかったかと。艶のある髪の毛と色白の顔、生きいきと輝くつぶらな瞳と無垢な口元――まるで五月人形のようだったと言う。
そのため、まわりの大人たちが競ってぼくの世話をやいてくれたので、子守には不自由しなかったらしい。
もっとも性格だけは、祖父の血を継がなかったようだ。
祖父は優しい性格をしていたが、裏を返せば気が弱いということになる。ぼくは子供心にも、祖父が恐妻家だったのを覚えている。祖父は男前だけに、浮いた話も多く、そのことで祖母に、こっぴどく叱られていた。大きな体の祖父が、小さな体の祖母の前で縮こまっている姿は、微笑ましくもあった。
そんな祖父と違って、ぼくは気が強かった。おかげで子供のときは、いつも生傷が絶えなかった。相手が体の大きな年上の子供でも、無鉄砲に向かっていったからだ。
いっぽう、記憶にある父は優しかった。
恰幅のよい体とあったかい笑顔――それが子供心に残る、父の印象だった。
月日が経ち、父を失った悲しみは薄れたが、ぼくの心の中では、いつも父の面影を追い求める気持ちが残っていた。
そんな思いから、ぼくは年配の男性に、淡い憧憬の念を抱いて育った。
思春期になると、年配者への思いは変化した。性欲という罪作りの生理的現象が、ぼくの精神を蝕んだ。眺めているだけでなく、直に接してみたい。温もりと柔らか味を感じたい。ときには性の対象として――みだらな思いが錯綜した。
無邪気な憧憬の念が複雑に屈折して、青臭い欲望へと変わったのだ。
身体的特徴も、原因のひとつだった。ぼくは陸上競技で鍛えた、筋肉質の体をしていたが、問題は精力が強すぎたことだ。
まだ童貞だった高校生のときは、夜毎、夢精に悩まされた。スポーツで肉体を酷使することにより、煩悩を昇華しようとしたが、あまりうまくいかなかった。当然、自分の手を使うすべしかなかったが、いつも後ろめたさがあったので、回数は極力押さえていた。
しかし、汲めども尽きぬ泉のように、あふれ出る精力を押さえるのは、修道士並に克己的な努力を要すことだった。
そしてもうひとつの悩みも抱えていた。性器が大きすぎるのだ。
水泳の授業や共同浴場で服を脱ぐときは、いつも恥ずかしい思いをした。
ぼくの大きさを見たクラス仲間が、ぼくをからかうのだ。おまけに教師や大人たちまでが、興味深そうにぼくの股間を見ている。
思春期をむかえた頃には、ぼくの性器は既に包皮が剥け、大人の形状をしていた。ぼくはクラス仲間たちに、デカチンとかズルムケとか言われて、からかわれた。そしてぼくは、強い性的欲求と人一倍大きな性器に、自分がかたわではないかと思い悩んだ。
高校3年生のとき、思いあまってクラスの先生に相談した。
40代半ばの、水原という男の先生だった。中背やや小太り気味で、いつも穏やかな笑みを浮かべ、やさしい声をしていた。
その先生のやさしさと親しみやすい外見が、悩みを打ち明ける決心をさせたのだ。
場所は水原先生の自宅だった。そのとき、先生の奥さんは外出していた。
ぼくの悩みを聞き終わった先生は言った。
「そんなことは、まったく悩む必要はない。思春期には誰だって、性欲が強くなるのは当たり前のことだ。それに性器が大きいってことは、逆に誇るべきことだよ。君が大人になれば分かってくる」
そこで先生は、いたずらっぽくぼくを見て、妙に恥ずかしそうな笑みを見せて言った。
「さあ、きみの悩みのもとを見せてごらん」
先生の言葉に、ぼくは驚いた。しかし、からかわれているのではないことが分かって、おずおずとズボン、そしてパンツを脱いだ。
先生は目を丸くして、「ほう、これはすごい」と言いながら、ごく当たり前のようにぼくの性器に手を伸ばした。
ぼくは慌てたが、じっとしていた。
先生は診察するような手つきで、ぼくの陰茎を握り、睾丸をいじった。
心臓が早鐘を打つように高鳴った。それに温かくて柔らかい手の感触が、興奮を高めた。ぼくは先生の手のなかで、勃起させていた。
そしてなおのこと驚いた。先生はぼくの性器を扱きだしたのだ。
ふっくらとした小さな指が絡みつき、じらすようにゆっくりと、先端から根元へと移動した。動きがじょじょに早く、そしてぼくは、アッという間に射精した。先生は器用に、それをハンカチで受け止めた。
乳白色の液体を吐き出して、なおもビクンビクンと揺れ動く性器を握りながら、先生は言った。
「ふむ、機能は正常だ。しかし、やりすぎは勉強にさしつかえる。できるだけ我慢しなさい」
そこで先生は、内緒話をするように、ヒソヒソ声で言った。「どうしょうもなくなったときには、私のところに来なさい。ただし、このことは、きみと私だけの秘密だよ」
その後、先生との秘密の面接は続いた。ほんのひとときの目くるめく行事――。
そのうちぼくは気づいた。水原先生は、若い教え子の性器をいじって、楽しんでいるのだ。だが、先生の性癖に気づいても、女のように白くてふっくらとした手の感触は、捨てがたいものだった。
ぼくは、まだ気づいていなかった。先生との出会いは、ぼくが将来歩むことになる道のりの、第一歩だったということを。
ぼくが東京の生活にあこがれを持つようになったのは、中学生のときに修学旅行で東京に行ってからだ。
立ち並ぶ大きなビルディング群や、発達した交通網に惹かれたわけではない。
そこで見かけた年配の男性たちに、魅了されたからだ。ぼくの生活圏にいる、九州男子の男っぽさとはまったく違っていた。
きれいに髭を当たった艶やかなほほ、薄い眉毛と優しそうな目――彼らのおっとりとした立居振舞は、まさに、ぼくが追い求めていた父親像に、ぴったりの人たちだった。
東京の大学に行くと言ったとき、母はあっさりと同意してくれた。どうやら母は、必然的にそうなることを予想していたようだ。
ぼくは高校最後の一年間、克己心を発揮して猛勉強した。その甲斐あって、大学入試に合格した。
東京の大学に入学したぼくは、生まれて初めて、親元を離れた生活を始めることになった。
未知の生活に対する不安とともに、奇妙にざわめく淡い期待と開放感もあった。
下宿先は上野の下町にあった。そこの大家は、ぼくの亡き父の縁つづきの人だった。
下町の生活は、いったん住み着いてみると、けっこう住み心地のよいものだった。
町の人たちは、清貧の生活を送っていても、明るくて楽天的だった。男も女も人懐っこくて、田舎育ちのぼくに対して親切だった。
彼らとて元をたどれば、日本のあちこちに郷里を持つ人が多いのだろうが、それぞれのお国柄があまり表に出てこない。おそらく、大都会の雑踏に揉まれているうちに、なんとなく標準的に洗練されてきたのだろう。
それはともかく、ここでの生活は、ぼくの考え方や生活習慣を大きく変えた。
人に言えない胸に秘めた思いさえも、ここでは恥ずかしいことではない。
正常感覚の麻痺は、いくらもがいても引きずり込まれるアリ地獄のようなもので、いったんその世界に呑み込まれてしまうと、まるで生暖かい泥沼に浸かっているように、心地良いものになる。
異端、禁断、倒錯――ぼくが入り込んだのは、そんな世界だった。ぼくの性の遍歴は、大学時代から始まった。