目 次
■ 風の新之輔第三部 - 第三部邂逅(一)
(一)

風間新之輔は波に漂っていた。
爺が、彼の身体に香油を塗り込めている。
肩から胸に、胸から腹へ――器用な指が、やわらかく這いまわる。
「爺――久しぶりだな」
「いいえ、爺はずっと、新之輔さまのお側におりました」
「そうか――」
新之輔は、爺の身体をそっと抱き寄せた。
いつもと変わらぬ爺の温もりが、嬉しかった。

ガリガリ――船底を擦る音に、新之輔は目を覚ました。
たちまち現実が押し寄せてきた。
舟の中で鎧を脱いで、そのまま眠ってしまったようだ。
舟は浅瀬に乗り上げて止まっていた。川底は浅く、櫂を操るだけでは流れに浮かべそうになかった。
新之輔は脚絆と足袋を脱いで、水の中に入った。水は冷たかったが、辛抱できないほどでもない。舟を押しながら川下に向かった。
ほどなく船底が水に浮いてきた。
頃合を見計らって、舟に戻った。
落ち着くと、またぞろ新造のことが心配になってくる。ときどき川岸に目をやるが、新造らしき人影は見あたらなかった。
(あの爆発はなんだったのだろう?)
考えまいとしても、どうしても悪いことを考えてしまう――敵を道連れにしての自爆。
そしてこれからのことを考える。
このあと再び、黒鉄衆が襲ってくることは考えられた。しかし一方では、新造の言ったことも思い出される。
(黒鉄衆は、自分たちの動きを幕府に知られたくないはず。そこで、江戸に近づかない、ぎりぎりの所で襲ってくるでしょう――)
裏を返せば、江戸に近づくほど襲われる心配も無くなる、ということだ。
(よし、江戸に向かおう)新之輔は心を決めた。

舟はどんどん流れを下っていった。
最初のうちは、大小の岩が転がる荒涼とした河原が目についた。
水の流れも一様でなかった。一本の流れが二本に分かれたり、合流したり、さまざまに変化した。
そして流れの速い浅瀬や、底深い淀みがあった。底をつく浅瀬では、舟から降りて押さなければならなかった。

いくつかの川が合流し、流れが安定して、水量の多い大きな河川になってきた。
しばらく流れを下っていると、新之輔は奇妙な光景を目にした。
大きな渡し船が、河を横切っていた。甲板にだいぶ余裕があるところを見ると、どこかの大名でも乗っているのであろう。
その船に向かって、一隻の茶船と、二隻の小舟が上流から近づいていた。
茶船は、渡し船に飲食物を売る小船だが、その船には枯れた葦が山積みになっていた。そしてほかの二隻の小舟には、浪人者らしき風体の男たちが、所狭しと乗っていた。
(これは危ないぞ)
新之輔が思う間もなく、茶船が渡し船にぶつかって、わっと火の手が上がった。すかさず二隻の舟から、浪人者たちが渡し船に乗り込んだ。
たちまち船の上で、叫び声と剣戟の音が聞こえだした。
火が渡し船に燃え移った。そのうち船の向こう側で、水に飛び込む音が聞こえてきた。
(はて、どうするか)
新之輔はとりあえず、渡し船の下手のほうに舟を近づけていった。

水中でふたりの男がもみ合っていた。中年の男が、年配の武士を背後から捕まえ、顔を水に押し付けようとしている。どうやら溺死させるつもりのようだ。
襲われている老武士の顔を見たとたん、助けてやろうという気持ちになった。
新之輔は手早く服を脱いで下帯ひとつになると、川に飛び込んだ。
たちまち水の冷たさが、体の芯まで沁み込んでくる。
抜き手を切ってふたりのところに泳ぎ寄ると、老武士を攻撃する男の耳の後ろに指を押し付けた。とたん、男は気絶して脱力した。
人体には何カ所か急所がある。その急所を狙えば、一撃で殺したり、指の一押しで動けなくしたりできる。新之輔はその技を使ったのだ。
「大丈夫か」
年配の武士の身体に腕を巻きつけながら、新之輔は訊いた。濡れた頭は白いものが混じり、歳の頃五十前後と思えた。
最初、武士はもがいていたが、新之輔が味方と分かると身体の力を抜いた。水の冷たさに、唇が紫色になっている。
武士は落ち着きなく、あたりにきょろきょろと目を配った。
川の中を見渡すと、二組の男たちが水の中で争っていた。そして三人の男がこちらに向かって泳いでいた。髪形からすると、浪人者だ。
どうやら今回の襲撃は、ここにいる初老の武士が標的のようにみえる。
新之輔は自分の乗ってきた舟を指さして、武士に言った。
「敵がくる。あの舟まで泳ぐぞ」
言ったあと、背後から武士の身体に片腕を巻きつけて、横泳ぎに舟を目指した。武士の着ている服と脇差が邪魔になって泳ぎ辛かったが、なんとか舟に辿り着けた。
船縁に手をかけさせ、武士の身体を横抱きにして、反動を付けて持ち上げた。丸みをおびた身体がくるりと回転して、舟の中に落ちた。
すかさず新之輔も、舟に乗り込む。

そこにひとりの浪人者が泳ぎ着いた。口に小刀を咥えている。
新之輔は素早く櫂を掴んで、男の頭をしたたかに殴った。
男が気を失って、舟から離れた。
櫂を操って、下流のほうへ、騒動の場から離れていった。
年配の武士はずぶ濡れになって、舟の片隅でがくがくと震えている。可哀相だが、今はかまっている暇がない。
襲撃者たちから逃れようとすれば、出来るだけ遠くまで舟で行けばよいが、それでは寒さに震えている武士にとって酷だ。
しばらく川を下っていると、右手の河原の先に、丸太小屋風の小さな建物が目に入った。おそらく河川を管理する番小屋で、年中、人が住んでいるわけではないだろう。
新之輔は河原に舟を着けると、初老の武士を下ろして、舟を砂の上に引き上げた。

丸太小屋に行って、木戸を引き開けると、人はいなかった。窓のない室内は薄暗く、端のほうに二畳分ほどの板の間があった。その前の土間に囲炉裏が組まれている。おそらく板の間で仮眠をとるのであろう。
反対側の壁際に、大量の薪が積まれていた。
部屋をざっと見渡したあと、外に出て、今来た川の方角を見た。男たちの乗った二隻の小舟がこちらに近づいている。全部で五人。髪形から見て、浪人者のようだ。
(これはひと戰になるか)
新之輔は初老の武士に振り返って、てきぱきと指示を与えた。
「敵が来る。この小屋は頑丈だ。少々のことで壊れはせぬ。貴公は戸を閉めて、中から心張棒をしておれ。拙者の名は風間新之輔だ。いいか、拙者以外の人間には戸を開けぬようにしろ」
そこで寒そうに震えている相手の姿を見て、「濡れた服は脱いだ方がいい。中に囲炉裏がある。もし火を熾せるのなら、やってみろ」
言ってすぐ新之輔は、河原に引き上げた船のほうに行った。
前方に男たちの乗った船が近づいていた。
時間が無い。新之輔は下帯姿で、船底にある皮の鎧を直接身につけた。
それから底を補強した足袋、脚絆を装着して、最後に刀を手にした。
ちょうど準備が整ったところで、男たちが舟からばらばらと下りてきた。

「大の男が五人もやって来て、穏やかならぬ様子だな。何の用だ」
新之輔は、のんびりとした口調で言った。
先頭の男がわめいた。
「保科を渡せ!さもないと、お前も切り捨てる」
「ますます穏やかでないな。その保科とかいう者、いったい何をしたのだ」
「問答無用!」
男が切りかかってきた。
それを軽くいなして、抜き打ちに、男の肩に剣を叩きつけた。
切っ先が、肩から胸へと深く切り下がる。その衝撃で男は絶命した。
ものすごい切れ味だった。切った新之輔本人が驚くほどだ。
ほかの男たちの顔に、怯えた表情が浮かんだ。
「どうする。これ以上やると、ますます死人が出るぞ」
新之輔の言葉に、右手の男が自分を鼓舞するように叫んだ。
「うるさいっ!やああっ!」
上段に振りかぶって、打ち込んできた。それに吊られたように、左の男が突きを入れてきた。
新之輔は軽く下がって、素早く右の男の胴を払い、返す刀で左の男の面を打った。
剣の速さが雌雄を決した。
右の男は胴を内臓まで断ち切られ、左の男は縦一文字に顔面を割られた。河原の石に鮮血がほとばしった。
一瞬にして二人の仲間が切られ、残された二人は戦意を喪失した。
「うわあーっ」
二人は悲鳴をあげて、乗ってきた舟の方に逃げた。
ここで逃せば、また新たな敵を連れてくる恐れがあった。新之輔は逃げる敵に追いすがって、非情にも剣を振るった。
[17/01/15 07:08 神亀]
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