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慕情 第一部(旅立ち) - (五)ひとり旅
(五)ひとり旅

八月の半ば過ぎ、俊和は夏休みをとって、東北地方にひとり旅をした。
以前から妻と計画していたことだった。宿泊施設も旅券もなにもかもいっさい予約せず、リュックを背負って、あてずっぽうの旅をする。
本来ならば、淑子とふたり旅なのに――彼は青森行きの電車の中で、ふと思った。そこで、携帯電話を家に置いてきたのに気づいた。一瞬あわてる自分の心の動きに苦笑した。
かつての俊和は、自然派を標榜して、文明に毒されることを嫌っていた。いまやその文明の利器がないと逆に不安になる。
(まあいいか、電話がかかってくれば無粋な旅になる――)
彼は自分に言い聞かせるように、携帯電話のことを頭から振り払った。

東北新幹線から在来線、バスと乗り継いで、八甲田山の麓に来た。ここは学生時代に来たことがある。曇り空を背景に、山には雲がかかっていたが、稜線はまだ見えていた。
さっそく土手に腰かけて、八甲田山の雄姿をスケッチした。絵筆を握るのは久しぶりだったが、自然に手が動いた。部分的に着彩して、三十分ほどで仕上げた。
そのあと、田代平の湿地性の草原を歩きながら、何枚か素描した。途中、田代元湯に寄って、温泉に入った。ここにも宿があったが、八甲田温泉まで足を伸ばすことにした。

駒込川沿いに、上流に向けて歩いた。少し霧が出てきたが、雨は降りそうになかった。
途中から川を逸れて、湿原の中につけられた道をたどった。霧はみるみる濃くなって、見通しが悪くなってきた。
八甲田山を雪中行軍して、遭難した軍隊のことが、脳裏をよぎった。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』だ。
(まさか――)
俊和はその思いを振り払って、歩を早めた。学生時代、ワンゲルのクラブに入っていたので、山野を歩く術は心得ていた。
霧はいよいよ濃くなって、数メートル先も見通せないほどだった。
右手のほうに、わら葺屋根の民家が、霧の中に浮かび上がった。かすかに水の流れる音が聞こえた。背後に川があるのだろうか?
俊和は現在の位置を探ろうと、立ち止まって地図を見た。歩いた時間から見て、おそらく八甲田温泉まであと三、四キロほどのところだろうと思ったが、はっきりしたことは分からなかった。
結局、民家に寄って聞くことにした。

声をかけると、しばらくして出てきたのは、年の頃七十代と思われる老人だった。着古した作業着姿は、身長百六十センチにも満たない背丈だが、その分でっぷりと太っていた。
「どうかされましたか」
老人はおっとりと聞いてきた。
「ちょっとお尋ねしますが、八甲田温泉までどのくらいでしょうか?」
老人は返事をする前に、顔を突き出して外のようすを見た。
「普段なら、私の足で四十五分くらいかな。しかしこの霧じゃから、よその人なら迷いそうじゃ」
そう言うと、老人は俊和の全身をじっくりと見た。「旅のお方かな」
「ええ、東京からきました」
「ほう、東京の人はなつかしい。私も以前、住んでおった」
俊和は納得した。どおりで老人の言葉に東北なまりがないのだ。彼がだまっていると、ふたたび老人が質問した。
「で、宿はどこにしています?」
俊和がどこも予約していないと言うと、老人は驚いて俊和の顔を見ていたが、思いついたように言った。
「じゃあどうですかな、今夜はここに泊まられては」
今度は俊和が驚いた。
「えっ、いいのですか?」
「あなたさえよろしければ、私はひとり住まいなので、かまわんよ。じつのところ、たまには人と酒を酌み交わしたいと思っていたんじゃ。どうだね?」
「じゃあ、お言葉に甘えて、お世話になります」
俊和は頭を下げた。

「さあ、こちらに来なさい」
お茶を飲んでひと休みしたあと、老人は土間の奥にある板戸を開けた。
老人の後についていくと、家の裏手に小さな東屋があり、湯気のもうもうと立つ露天風呂があった。組み合わせた大きな岩で出来ていて、竹の樋からお湯がとうとうと流れ落ちていた。さっき聞こえていた水音の正体が分かった。
「ここで服を脱ぎなさい。私は食事の用意をするから、ゆっくりとしていなさい。下着は洗うから、褌と浴衣を持ってきてあげよう」
言ったあと、老人は家に戻った。
入る前に足をつけた。けっこう熱かった。それから、おそるおそる湯の中に入っていった。白濁した水面で湯気が渦巻き、空中に消えていった。
俊和は岩床に尻をつき、首までつかった。湯は少しトロリとして、全身にまとわりついてくるような感じだった。
湯に浸かっていると、のびのびとした気分になってきた。毛穴の隅々から、疲労の巣が抜け出ていくようだ。
聞こえるのは水音のみ。それ以外は物音ひとつしなかった。こんな寂しいところに、よくひとりで住んでおれるな――俊和は、ぼんやりと老人のことを思った。

時が過ぎていった。
身体の芯が火照ってきた。まるで粘性をもった湯が、腰回りを押し包み、うずうずとした性的刺激を送ってくるようだった。
そろそろ上がろうと腰を浮かしかけて、目に入ったものにドキッとした。薄暗闇の湯煙越しに、豊満な白い肢体が浮かび上がったのだ。
家の主だった。その裸はふっくらとして、女体のように艶めいていた。
「温まりましたか。この湯は万病に効きます。まさに命の源ですな」
老人が湯に入りながら言った。東北人特有の、きめの細やかなしっとりとした肌が、目にまぶしかった。
俊和は、老人と入れ替わりに湯から出た。下着に替わって、越中褌と浴衣が用意されていた。浴衣を身に着けているときも、先ほど目にした老人のなまめかしい裸体に、まだ心がざわめいていた。

老人は晩飯に、鍋料理を用意してくれていた。
囲炉裏に架けられた鉄なべに、野菜や香辛料、鶏肉、鮭などが、ぶっきらぼうに入れられている。
俊和は、ひと口食べてうなった。抜群に美味しかった。とくに味噌のだし汁が絶品だった。味噌の甘さの中に、唐辛子のピリッとした辛味がよく合っている。
俊和が誉めると、老人はおっとりと微笑んで、酒を勧めた。
不思議な老人だった。七十歳を超えていると思われるのに、顔の肌艶がよかった。白髪、色白の肌。全体に白っぽいイメージが強かった。
それに、教養の深さを思わせる話し振り。穏やかな語り口だが、ときにドキリとするようなことも言う。
「――ほう、水原さんは、ギリシャにおられたことがあるのですか」
「ええ、ほんの三ヶ月ほどですが、商社の仕事で――」
「それはうらやましい。私は古代ギリシャに興味がありましてね」
「ギリシャの歴史には不案内で――どんな時代だったのですか」
「たとえば、古代ギリシャでは、男色はごく普通のことでした」
「――」
「男は少年のときから、男たちだけの世界で生活させられていました。その上、ギリシャ彫刻にあるように、均整のとれた肉体美がもてはやされた時代です。だから男色も、健康的な男たちにとって、ごく自然なことだったのでしょう。もちろん精神面だけでなく、肉体面も含めてですよ」
「――ご老人は、博学ですね」
俊和は、たじたじとなりながらも、話を合わせた。
「若い頃、ホメロスの叙事詩などを読みあさりました。あ、そうそう、有名なソクラテスやプラトンも、美少年を愛していたってご存知ですか――」
老人の穏やかな話し振りは、刺激的な内容にもかかわらず、けっしていやらしく聞こえない。
会話の中で、時がのんびりと流れていく――。
俊和は旺盛な食欲をみせて、鍋の中身をすっかり平らげた。燗をつけた地酒も、老人から勧められるままに、たらふく飲んだ。
食事が終わったとき、俊和は、体中にフツフツとした力が漲るような、充実感を覚えていた。

その夜、俊和は飲み過ぎて、夢うつつに悶えていた。夢を見ているのか、それとも覚醒状態にあるのかさえも、判然としない。
胸から下腹部にかけて、何やら柔らかいものに押し包まれていた。その柔らかいものは、穏やかな息吹と生命のぬくもりを感じさせるものだった。
埋没するような柔らかさ――ひんやりとした心地よい肌触り――まるで羽毛をつめた、絹のクッションのような感触だった。
体内のあちこちで小さな渦が湧き起こり、淡い戦慄が全身を押し包んだ。
無意識にその柔らかいものにしがみついた。
途端、温かい泥沼に潜り込んだような、安堵感が押し寄せてきた。
じっとしがみついていると、安堵感がじょじょに性的な興奮に変わってくる。ウズウズとした熱気が、腰を覆い包み、凝集した。
俊和は、切なそうに下腹部を前に押しつけた。
ふくらみがふたつに分かれ、やわらかく受け入れる。まるで獲物を誘いこむイソギンチャクのように、やわらかいものが男性器を咥えた。
それは全長を押し包み、きつく、ゆるく、蠢いた――。
得も言われぬ快感が渦巻いた。
その快感は濃密に、やがて目くるめく頂きにのぼりつめた。
 
                               (第二部につづく)
[17/11/16 09:23 神亀]
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