■ 慕情 第一部(旅立ち) - (四)転居
(四)転居
七月の終わりごろ、義父の家に引越しをした。
長女の説得で、義父は俊和たちと同居することを了承したのだ。
家は本駒込にあった。義父が、子供の頃から住んでいた家を建て替えてから、二十数年が経過している。重厚な木製の玄関ドア、蔦の絡まる外壁、色の一様でない柿色の陶器瓦の屋根。古色蒼然とした中にも、ハイカラな味がある二階家だった。
二十年近く、義父母が共に生活して、大事に手入れしてきた家だと思うと、特別の雰囲気を感じさせる。
居室は四部屋あったが、一階の洋間は、分厚い本が壁面いっぱいに収納されて、義父の書斎として使われていた。
結局、家主である義父の裁量によって、二階の洋室ふたつは娘たちが使うことになり、俊和は義父が寝室として使っている一階の和室十畳に、布団を並べて寝ることになった。
引越し当日は、庭でバーベキューをした。俊和とふたりの娘、それに義父。久しぶりにくつろいだひとときだった。
義父は、温か味と育ちのよさを思わせる顔立ちだが、齢を重ねてますます良い顔になった、と俊和は思う。物腰もおだやかで、おっとりとした話しかたをする。その義父と、これからひとつ屋根の下で暮らすと思うと、不思議に心がときめいてくる。早くに他界した俊和の父親と、イメージが重なってくるからだ。
義父の家での新生活が始まった。
テレビ局に勤める長女は、あいかわらず残業で遅く、帰ってくるのは九時過ぎだった。女性が男性に伍して働くのは近頃めずらしくないと分かっていても、俊和にとっては心配の種だった。
それに輪をかけて大学生の次女は、夕方からのアルバイトで、帰るのは十一時頃だった。金に困っているわけではないが、生活力を身につけたいという娘に押し切られた形だ。
そして俊和は、いつもどおりの会社生活を送っていたが、変わった点は、二日に一日はまっすぐ家に帰るようにしたことだった。
義父に言われたわけではないが、老人をひとりきりにしておくのに気兼ねしたからだ。
真っ直ぐ帰宅するときは、必ず義父に電話を入れた。料理好きの義父が、食事を作ってくれるからだ。そして、どうやら義父は、俊和といっしょに食事をすることを、楽しみにしているように思えた。
義父は、口数は少ないが、一緒にいると不思議に心が安らぐ老人だった。目も口元もなごませて俊和の話を聞き、そして笑うときは、少年のように初心っぽい、はにかんだ表情を見せる。家にいる時、義父はいつも紺系統の色の和服を着ているが、ロマンスグレーの頭髪によく合って、いかにも見栄えがした。
俊和にとって、新しい生活は順調だったが、別の問題が生じていた。
彼は身長百七十四センチ、体重八十六キロ、少々体重過多ではあるが、いたって健康体だ。それに男盛りの五十歳。当然、性欲もまだまだ旺盛だ。
しかし、性のうずきを覚えたときに、その解消法がなかった。風俗店に行くのは、亡き妻を裏切るようで気が引けた。それに娘二人をもつ身だから、若い女性に対して不謹慎な欲望を抱くことなど、とうに失せていた。
いよいよどうしょうもなくなると、浴室で解消した。この歳になって自らの手を使うのは、惨めな気分だった。
ある日、義父と晩飯を食べていると、携帯電話が鳴った。
伊東老人からだった。次の休みにゴルフをしないかと言う。俊和が引越しの片付けを理由に断ると、老人の声が沈んだ。これで先週についで、老人の誘いを二度断ったことになる。彼は急に老人が気の毒に思って、翌週の土曜日にどうかと言った。老人の声が俄かに明るくなって、じゃあ楽しみにしています、と言って電話を切った。
「だれからだい?」
義父が怪訝そうに尋ねた。
「前にゴルフ場で知り合ったお年寄りです。お義父さんと同年配くらいの方です」
俊和は簡単に説明した。義父はちょっと眉をひそめただけで、なんとも言わなかった。
眉をひそめるのは義父の癖だが、俊和はその仕草が好きだった。義父が眉をひそめると、いかにも上品な仕草に見えて、ほんのりとした愛情さえ覚える。
俊和は、話題を変えた。
「ところでお義父さん、私と相部屋ではなにかと窮屈でしょう」
「いや、私は構わんよ」
義父は、即座に返事をした。
「でも、私は寝るのが遅いですし、ご迷惑をかけているのではないかと思いまして。書斎の応接セットを外せば、ベッドひとつは配置できます。私は、そこで寝ようと考えているのですが」
「それじゃ、書斎が狭くなる。私は昼間、ゆったりした雰囲気の中で、書物を読むのが楽しみなのだ」
義父は眉をひそめて言った。それから怒ったようにつづけた。「わかった、きみがそれほど私と同じ部屋で寝るのがいやだと言うのなら、私が書斎に移ろう」
俊和はびっくりした。
「いやだなんて言ってませんよ。――じゃあ、お義父さんがよろしいのでしたら、これまでどおりでお願いします」
彼はそう言いながらも、温厚な義父が、なぜ不機嫌になったのか訝った。
俊和は、久しぶりに飲みすぎた。家に帰ったのは十二時を過ぎていた。
服を脱ぎ捨てて風呂に入った。長年身に染み付いた習性で、風呂に入らないと落ち着いて眠れないのだ。
浴槽に肩まで浸かった。
体細胞の一部が、母親の胎内にいた頃のことを覚えているのか、うっとりとするほどくつろいでくる。日中の疲れが、じんわりと滲み出ていくようだった――。
――誰かが彼の名前を呼んでいた。
肩を揺すられて目を覚ました。
義父だった。どうやら風呂の中で眠り込んだらしい。彼はうながされるままに、のろのろと風呂から出た。
義父がバスタオルで、濡れた体を拭いてくれた。俊和は布団に倒れこみ、そのまま眠りについた。
彼はその夜、夢を見た――浴室で妻と愛し合っていた。
翌朝目覚めたとき、かけ布団の下で何も着ていないのに気づいた。なんとなく股間がすっきりしていた。この気分はまるで――妻と性交した翌朝のようだった。
(昨夜は、義父に醜態を見せたのではないだろうか)
俊和は、急に不安感をおぼえた。
衣服を着て、おそるおそる食堂に行くと、義父は鼻歌交じりに朝食の仕度をしている。
機嫌がいい証拠だ。
「昨夜はすみません。ずいぶん遅くに帰ってきて――」
俊和は、義父に声をかけた。
「いいのだ、きみだってたまには羽目を外したくなるだろう」
義父は機嫌よく言った。それから俊和の顔を探るように見た。「風邪を引かなかったかい?きみにパジャマを着せようとしたが、なにしろきみは大きな体だ。布団に寝かせるだけで精一杯だったよ」
俊和は小さくなった。
「すみません、だいぶご迷惑をおかけしたようで――。私はいったん寝てしまうと、地震が起きても目を覚まさないタイプですから」
「そのようだね。しかし、酔って風呂に入るときは、気をつけたほうがいい。私が気づかなければ、きみはあのまま浴槽で寝ていたかも知れんぞ」
「これからは気をつけます」
俊和は、ますます小さくなった。