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慕情 第一部(旅立ち) - (三)伊東老人
(三)伊東老人

藤森常務からのゴルフの誘いを断ったにもかかわらず、俊和は次の日曜日にふと思い立って、ひとりで会員制のホームコースに出かけた。家にいると、死んだ妻のことが思い出されて辛かったのだ。
ゴルフ場には予約を入れていなかった。コースは俊和のマンションから、車で小一時間ほどのところにある。
待つこと十分ほどして、俊和と同じように、フリーで来たメンバーが揃った。以前一緒にまわったことのあるメンバーがふたり、あとひとりは初対面の老人だった。老人は伊東と名乗った。年のころ七十歳前後、中背スリムな体型と、品の良い顔立ちをしている。
のんびりと世間話をしながらプレーした。なかでも伊東老人は、よほど俊和が気に入ったのか、なにかと話しかけてきた。

最終ホールを回っているときだった。
俊和は、伊東老人がフェアウェーの真ん中で、座り込むのに気づいた。
「どうかされましたか?」
伊東老人に近づいて声をかけた。老人は痛そうに顔をしかめて、右足の靴を脱ごうと苦労していた。
「足がつりまして――」
老人は息をするのも困難な様子だった。
俊和はすぐに状況を理解した。ふくらはぎのこむら返りをおこしたのだ。彼自身も経験がある。老人のそばにかがみこむと、靴を脱がせてやった。
「ちょっと痛いが、我慢してください」と言って、老人の足指をつかみ、甲のほうにゆっくりと反り返らせた。
老人が痛そうに息をつめた。俊和はその動作を繰り返しながら、もう一方の手で、老人のふくらはぎを手際よくマッサージしてやった。
老人が、ほっとしたように言った。
「ああ、助かりました。おかげさまで、魔法のように痛みがなくなりました」

俊和は、ゴルフ場の風呂に入っていた。湯の中に肩までつかり、浴槽の縁に背中をあずけて目を閉じた。毛穴のひとつひとつから、疲労が抜け出ていくような気がした。風呂好きの俊和にとって、至高のひとときである。
「今日はお世話になりました」
穏やかな声がした。
目を開けると、一緒にプレーした伊東老人が、湯船に入るところだった。体毛のないスリムな体つきで、老人にしてはきれいな肌をしている。
「足のほうはどうですか?」
俊和は伊東に聞いた。老人は湯の中を歩いて、俊和の横に体を沈めた。
「おかげさまで、もうなんともありません。あなたがおられて、本当に助かりました」
「いえいえ、当然のことをしたまでです」
そこで俊和は話題を変えた。「ところで伊東さんは、ここのメンバーになられて何年になりますか?」
「もう二十年ほど前になりますか。もっともあまり来ていませんが」
「そうですか――私はメンバーになって三年ほどですが、これまでお会いしたことがありませんね」
「そうですね。あなたのような素敵な方なら、一度お会いしたら、決して忘れることはありません。今日はたまたま日曜日に来ましたが、普段は平日にプレーしていますから、あなたにお会いできなかったのでしょう」
老人は俊和に笑いかけた。ほのぼのとする温かい笑顔だった。「でもこれからは、日曜日に来るようにします。なにしろ、あなたにお会いできたのですから」
俊和はあわてて返事をした。
「いえ、私は日曜に来るとは限りません――私も今日はたまたまで」
老人は微笑みながら、湯につかった俊和の体をのぞきこむように見た。
「それにしても、あなたはご立派な体格をされていますね。男のお道具もご立派だ」

風呂から上がって、プレー料金を精算し、車に乗ろうとしているとき、クラブバスを待つ伊東老人に気づいた。声をかけて、最寄り駅まで送ってやることにした。
老人はえらく感激したようすで、来週もプレーしないかと俊和を誘った。俊和は、予定がはっきりしないので、と言って断った。しかし老人に請われるままに、携帯電話の番号を教えてやった。

翌週、火曜日の昼近くに携帯電話が鳴った。ゴルフ場で会った老人からだった。東京に来ている、もしおじゃまでなかったら会いたい、と言う。
俊和の勤める会社は、東京駅の近くにあった。そこで昼休みを利用して、老人に会うことにし、『銀の鈴』を待ち合わせ場所にした。
スーツを着た老人は、見違えるほど立派だった。どこかの大企業の会長と言っても通るような、風格を感じさせる。
グレーの上下そろいのスーツに、深い渋みの光沢をはなつ茶色の革靴。頭に被るベージュの帽子は、おそらく英国製だろう、茶色のリボンがアクセントになって、小粋な感じがした。

とりあえず、東京ステーションホテルのレストランに入った。
食事をしながら、老人はおっとりと話しだした。
「突然すみませんでした。急に、あなたにお会いしたくなって」
「でも、二日前にお会いしたばかりですよ」
「それが――あなたのお顔を思い浮かべると、居ても立ってもおれなくなりまして――あ、嫌な思いをされたのなら、ごめんなさい」
「いえいえ、とんでもないですよ。でも、なんで私に関心を持たれるのですか?」
「あなたが近頃珍しくなった、日本人の心を持たれた方だからです」
俊和の怪訝そうな表情を見て、老人はつづけた。「私の時代には、仁義礼など武士道の精神を子供のときから厳しくしつけられてきましたが、戦後の日本はそんな教育がなくなりました。でもあなたには、その心があります」
「――」
俊和が黙っていると、老人は自分の家庭のことを話しだした。娘夫婦といっしょに埼玉の浦和に住んでいること。高校と中学に行っているふたりの孫がいること。
「親子三代の生活ですか。じゃあ、私のところと似ていますね」
俊和が、自分にはふたりの娘がいること、妻が他界したこと、近々、義父と同居しようとしていることを話すと、老人は強く否定した。
「大違いです。うちの婿には、あなたのような魅力がない」
そう言って横を向く老人の顔を見て、家庭内ではうまくいっていないのだろうか、と俊和は思った。
仕事の予定があったので、老人との付き合いは一時間ほどで切り上げた。別れるときの、老人の寂しそうな表情がすこし気になった。
[17/11/14 06:16 神亀]
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