■ 慕情 第一部(旅立ち) - (二)お付き合い
(二)お付き合い
慶弔休暇は残っているが、月曜日から会社に行った。俊和は商事会社に勤めていて、この春、執行役員になったばかりだ。
職場の社員たちからは、口々におくやみを言われた。そのたびに、あらためて喪失感が押し寄せてくる。
午前中にふたつの会議に出て、席に戻ると女子社員が、得意先の藤森常務から電話があったと言う。
さっそく先方に電話をすると、本人は不在で、代わって出た秘書が、できれば今日お会いしたいと藤森常務の意向を伝えた。
俊和がたまっていた決済書類を片付けて、顧客のもとに出かけたのは、夕方になってからだった。
藤森常務は六十を少し過ぎた年配である。温室育ちを思わせるふっくらとした肉体と、優しい目をしている。そして無邪気な立ち居振る舞いをする人物で、これまでなにかと俊和のために便宜をはかってくれていた。
「奥さまのことは、ほんとうにご愁傷さまでした」
藤森は、神妙な顔つきで俊和に言った。
「ありがとうございます。告別式にも、おいでいただきまして」
俊和は頭を下げた。
「いやなに、それにしても突然のことで大変でしたね」
俊和は妻の話題から逃れたかったが、顧客の話に合わせていた。
しばらくして藤森が言った。
「どうですか、こんなときになんですが、ゴルフでもしませんか。かえって気分転換になりますよ」
「ありがとうございます。でもちょっとお時間をください。気持ちの整理がつきましたら、こちらからお誘いいたします」
「そうですか。じゃあ今日は、晩飯でもいっしょにどうですか」
あまり断るのも失礼になると思ったので、藤森とつき合うことにした。
ふたりは新橋にあるカウンター形式のおでん屋に行った。
藤森は大手銀行の常務だが、俊和とふたりのときは、気さくな雰囲気の店を好んだ。
配偶者の葬儀をすませて間もない俊和に気を遣って、藤森はいつになく言葉少なだった。それでも、おでんで腹を満たし、アルコールが進んでくると、いつもの軽妙な会話が復活した。
「もう一軒、付き合ってください。この近くに知っているバーがあります」
おでん屋を出ると、藤森が言った。そして、俊和の手を握って歩き出した。藤森がこんなに親密な態度を見せるのは、初めてだった。
俊和は、大の男が手をつないで人通りを歩くことを恥ずかしいと思ったが、あえて藤森常務に手を握られるままにしておいた。
店は古めかしい小型ビルの三階にあった。藤森との付き合いは長いが、初めて来る店だった。重厚な木製カウンターとスツール、それにふたり用のテーブルセットが数セットあるだけ、こぢんまりとしているが趣味のよい内装が施されている。
カウンターの前には、熟年の男性客が数人いた。
丸顔小柄なマスターが、にこやかな笑顔で藤森に声をかけた。
「フーさん、お久しぶり。今日はすてきなお友達がご一緒ですね」
藤森と顔見知りらしく、奥のカウンターにいた二人連れの客が、控えめに微笑みかけた。
藤森の横のカウンター席につきながら、俊和は店内の様子を観察した。
どうやら年配者たちだけが集まるバーのようだった。初老のマスターや客たちの間には、一種の連帯意識が感じられた。
それにしても、藤森常務だけでなく、マスターも店の客も、新参者の俊和に対する親しみを込めた目つきには、とまどいを覚えた。彼らは一様におだやかで、優しそうだった。
「おふたりはお仕事の関係ですか?」
マスターがカクテルを作りながら、藤森に探りをいれた。
「ぼくのいい人」
藤森が答えて、俊和にウインクした。「と言うのは嘘。マスター、よけいな詮索をしないでくれる」
「これは失礼しました。でもお連れの方がとても素敵な紳士ですから、つい要らぬ関心を持ってしまいました」
マスターの言葉に、藤森は茶目っ気たっぷりに「メッ!」と叱った。
「水原さんは、ぼくの大事なお客さんだよ。まったくのノンケなんだから、失礼なことをしないでね」
(ノンケ?)
俊和はその言葉の意味を知らなかった。でも今その意味を質問するのはまずい気がして、黙っていた。
二時間が過ぎ、店を出るとき、藤森常務はかなり酔っていた。
「水原さん、奥さまが亡くなられて何かとご不便でしょう。困ったことがあったら、何なりと言ってくださいよ」
藤森が親愛の情をあらわにして、抱きついてきた。そして俊和の頬に、唇を押し付けた。
酔った勢いとは言え、あまりにも親密な行為だった。俊和は周りの目を気にしながら、顧客のふくよかな体を受け止めていた。
翌朝、会社に出勤すると、藤森常務から電話があった。
「昨夜は酔っ払ってしまって――なにか失礼なことをしたのではないか、と心配しています」
何かを探るような、慎重な口ぶりだった。
「いえいえ、とんでもございません。常務には大変お世話になりました」
俊和は相手を安心させるように、つとめて明るい調子で答えた。
藤森の声が、ほっとしたように和んだ。
「よかった、あなたに嫌われたのではないかと心配していました。これからも、よろしくお付き合い願います。私はあなたの大ファンですからね」
その一言で、俊和はぐっと気分が良くなった。