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慕情 第一部(旅立ち) - (一)訃報
(一)訃報

家庭内で変事が起きるときは、多少なりと予兆があるものだ。しかし、水原俊和の場合、不幸は突然訪れた。五十歳の誕生日を迎えて、一ヶ月が経過した頃のことだった。
その日は珍しく、顧客との付き合いがなかったので、まっすぐ帰宅した。妻の淑子は家にいなかった。おそらく買い物にでも出ているのだろう。
仕方なく自分でコーヒーを入れると、居間のソファーでくつろいでテレビを見た。近頃は興味を惹く番組もなく、もっぱらニュースだけを見ることにしている。
俊和にはふたりの娘がいる。長女はこの春からテレビ局で働き出し、次女は大学に通っている。ふたりとも、たいがい九時以降でないと帰ってこない。
夜の八時になっても妻は戻らなかった。俊和はすこし不安になってきた。これまで会社から戻るとき、妻に電話を入れたことがない。それにほとんど毎晩、外で食べていたから、彼のための夕食も用意されていない。
俊和は仕方なく、インスタントラーメンを調理して食べた。

九時を少し回ったところで、長女が帰宅した。彼女は母さんから何も聞いていないと言う。
それから十分ほど過ぎたころ、家の電話が鳴った。妙にひっそりとした音だった。
「水原さんのお宅ですか」
男の声だった。
「ええ、水原ですが」
「ああ、ご主人さんですね。こちらは渋谷警察署ですが」
とたんに胸騒ぎがした。
「――あのう、なにか」
「ええ、じつは水原淑子さんと思われる女性が、交通事故に遭われまして――」
聞いた途端、受話器を持つ手が震え出した。
「それで妻の状態はどうなのですか?」
「そのう――」
先方が言いよどんだ。
俊和は息苦しくなった。
「はっきりとおっしゃってください。怪我はひどいのですか」
俊和の声の調子に、長女が怪訝そうに近寄ってきた。
先方が言いにくそうに告げた。
「亡くなられました」
聞いたとたん、頭の中が真っ白になった。俊和は、へなへなとその場に座り込んだ。
「お父さん、どうしたの!」
長女が叫んだ。
「もしもし――」
遠くから警官の声がした。「とにかく病院に来て下さい。あなたの奥さんかどうか確認して――」
思考能力が停止したようだった。彼は機械的に返事をして電話を切り、長女のほうに振り返った。そしてぼんやりと言った。
「母さんが――死んだ」

長女とタクシーに乗って病院へ向った。
「お母さんじゃないわ。お母さんは慎重だから、交通事故なんて遭わないわ」
車の中で長女は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ああ、きっと人違いだ」
俊和も娘に同調して言った。その実、病院に近づくにつれ、不安感が増幅してくる。
アルバイトからまだ戻ってこない次女に、長女が携帯でメールを入れた。それから思いついたように言った。
「ねえ、おじいちゃんに知らせる?」
「まだだ、病院にいってから――」
後の言葉は呑みこんだ。

病院に着くと、若い婦人警官が待っていた。そして、あわただしく部屋に案内された。
ベッドにシーツで覆われた遺体が横たわっていた。顔の上に白い布が被せられている。
(頼む、人違いであってくれ)
俊和は祈る思いで遺体を見守った。
白い布が取り払われた。
――妻の顔だった。
厳然たる事実に直面して、俊和は凍りついた。血が逆流したように、呼吸困難におちいった。娘が遺体にしがみついて、激しく泣きじゃくった。
俊和は、震える手でそっと妻の顔に触れた。冷たくて、生命のかけらもなかった。

その後三日間は、茫然自失の状態で時が経過した。飲酒運転による信号無視で、妻を死に追いやった若い男には、激しい怒りを覚えたが、妻が生き返るわけではない。俊和は無感動に、葬式その他の行事をこなしてきた。
夜寝るとき、まだ片付けていない妻のベッドを見るのは辛かった。平たくシーツがかけられて、そこには息づく人体の膨らみもない。
急に孤独感を覚えた。夜の静寂が、妙に虚しく感じられた。淑子の存在の大きさが胸のうちに迫ってきて、おもわず頭を抱え込んだ。
――あなた、私に何かあったら、父をお願いね。
唐突に、妻との会話が頭に浮かんだ。一ヶ月ほど前のことだった。
――なんだ、不吉なことを言って。
――私は現実的だから、万が一のことを言っているのよ。
――じゃあおれが、現実的じゃないって言うのか。
――揚げ足を取らないの。とにかく、父は意地を張っているけど、一軒家に老人のひとり住まいは大変なのよ。
――じゃあ今からでも、一緒に住めばいいじゃないか。
――あなた、それでいいの?
――ああ。
妻の問いかけに、生返事した記憶がある。実のところ、心の片隅では、義父に対して苦手意識があった。なにしろ義父は、東大を卒業した秀才で、現役時代は中央官庁の幹部だった人物だ。
しかしその反面、早くに父親を亡くした俊和は、穏やかな容貌と温厚な人柄の義父に対して、そこはかとない憧憬の念を抱いていた。
結局、同居の話はそのままになっているが、なぜ今になって思い出したのだろう。ふと、現在の自分の境遇と、五年前に伴侶を亡くした義父の境遇が重なった。

気持ちの整理がついた頃、俊和は、義父を家に引き取ったらどうだろうか、と娘たちに相談した。
長女が考えを言った。
「長年住み慣れた家だから、おじいちゃんは家を出ないと思うわ」
それに次女が反応した。
「あら、お姉ちゃん、どうしてそう思うの?」
「だって、お葬式のとき、おじいちゃんが言ってたの。思い出がたくさん詰まった家だから、一生住み続けたいって」
葬儀のときは義父とろくに会話もしなかったな、と思いつつ、俊和は娘たちの話を聞いていた。
結局、今住んでいるマンションは人に貸して、俊和たちが義父の家に移り住むことに意見が傾いた。さっそく義父お気に入りの長女が、交渉役を買って出た。
[17/11/12 08:25 神亀]
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