■ 大逆転(前編) - (十一)放火事件
(十一)放火事件
堀田弁護士の事務所を出たあと、三人は品川駅の近くで、遅い晩飯を食べた。
食事が終わったとき、昌三が康太郎に聞いた。
「おれたちは横浜に戻るけど、あんたはどうする?」
康太郎は腕時計を見た。
「わたしは神田の店に戻る。まだ8時半だ」
「大丈夫か?敵がたの男を、二人もなぶり者にしたんだ。あの弁護士の言っていた盛山という男が、このままあんたを見逃すはずがない」
「だったら警察に話すさ」と康太郎。
「なにを話す?鉄平を誘拐されたことか?その仕返しに、弁護士のオカマを掘らせたことか?」
昌三が畳み掛けるように言って、康太郎は眉を曇らせた。
言い含めるように、昌三は言葉を継いだ。「いずれにしろ、警察に納得させることは難しい。今夜は、わたしの家に泊まったほうがいいぞ」
康太郎は逡巡した。それから携帯電話をとりだした。
「とにかく店に電話してみる」
彼は店に電話した。ところが、断線したように繋がらない。つぎに別の事務所に電話した。今度もなかなか繋がらなかった。あきらめかけたとき、相手が出た。
「社長――本店が大変です!」
「何があったんだ?」
康太郎は、ただならぬ相手の声の調子に、にわかに緊張した。
「火事です。神田の店が燃えているんです!」
「なにっ!」
康太郎は絶句した。彼の耳に、従業員の声がつづいた。
「放火です。二人の男が店にやってきて、いきなり灯油缶の中身をぶちまけたそうです。ひとりはゴリラのような大男で――。とにかくあっという間の出来事だったので、だれも止めに入る間もなかったようです。幸いお客さんたちは無事ですが――ひどいことをする男たちだ」
「それで――火は消せそうか?」
申し訳なさそうな声が返ってきた。
「だめです、もう手がつけられないほど、広がっているそうです」
康太郎は従業員に指示を与えて、電話を切った。
昌三は事情がのみこめたが、黙っていた。松岡をどう慰めていいか分からなかった。
「くそっ、あいつら、もう手を打ってきおった」
康太郎は、いまいましそうにつぶやいた。店を焼かれたにしては、さほど深刻そうには見えなかった。彼は昌三に向き直った。
「やっぱり今夜は、おまえの家に泊めてくれ」
昌三はうなずいた。
「いいよ。しかし、あいつら、ひどいことをしやがる。まさか放火するなんて――。あいつらが求めている3億円より、はるかに大きな損失じゃないか」
「相手が、それだけ本気だってことだ。気をつけておかないと、命まで狙われる。さあ、行くぞ」
康太郎は、さっさと駅のほうに歩き出した。
「銭湯もなかなかいいもんだな。久しぶりに入ったよ」
康太郎は、火照った体を扇風機にあてながら、満足そうに言った。湯上りの彼は、でっぷりと太って、全身ピンク色に染まっている。
昌三が、揶揄するように言った。
「大事な店を焼かれたっていうのに、えらくのんびりしてるじゃないか」
「起きたことは、心配しても仕方がない。それに、保険はたっぷりと掛けている。大損したのは、保険会社だ」と康太郎。
「この悪党」
昌三がつぶやいた。
「何か言ったか?」と康太郎。
「――」
昌三は話すのも面倒くさくなった。どだいこの男に対しては、何を言っても無駄だ。彼は目の前にぶらさがる目障りなモノを、イライラして見た。ハゲでデブのくせに、自分よりでかいチンポをぶらさげている。それが気に食わなかった。
「もう一度、風呂に入らないか」
康太郎が誘った。
「おれは帰る。鉄平が家で待ってるんだ」
昌三はロッカーを開けて、服をとりだしながら言った。
「そうか。わたしは、ゆっくりしていく」
そう言うと、康太郎はふたたび風呂に向った。
最高の気分だった。湯につかっていると、心底、のびのびとした気分になる。康太郎が湯の心地よさにうっとりしていると、小さな老人が近づいてきた。
「あなた、初顔のようだが、昌ちゃんのお知り合いかね?」
見知らぬ老人に話しかけられて、康太郎は思わず言っていた。
「ああ――親戚です」
言ったあと、胸の内で苦笑した。(ま、親戚と言えないこともないか)
「親戚ですか。あまり似ていないですね」
老人は言いながら湯桶で前を流し、康太郎の横に体を沈めた。
「親戚といっても遠縁だから――ところで、あなたは?」
「ああ、これは失礼しました。わたしは上原と申します。昌ちゃんの家の近くに住んでいるものです」
「じゃあ昌三をよく知っているわけだ」
「よく知っていますよ。それに前は、同じ運送会社に勤めていました」
老人は眉を曇らせて、つぶやいた。「あの事件が起きるまでは――」
康太郎は、老人の言葉を聞きとがめた。
「あの事件って?」
老人はハッとしたように、目を反らせた。
「いや、忘れてください」
「いいじゃないですか。教えてくださいよ」
そこでふと思いついて、康太郎は声を潜めた。「実は、わたしは精神科の医者です。昌三には深い心の傷があって、それをなんとか直してやろうと思っています。だから、患者のことは、なんでも知っておきたいんです」
老人は納得したようにうなずいた。
「やっぱりあのことが原因なんだな。じつは昔――」
老人は18年前に、昌三の身に起こったことを話し出した。
康太郎は、老人の話を聞きながら、微に入り細にわたって質問した――すっかり精神科医の顔つきになりきって。
昌三の家に戻ると、康太郎は、相手の顔をあらためて見た。確かにとぼけた公家面だ。それに骨細のナヨッとした体をしている。これじゃあ、オカマを掘られたのも無理はない。彼は、ほくそえんだ。
「なに、にやけた顔をしているんだ?」
昌三の問いかけに、康太郎はゆったりとした笑みを返した。
「べつに」
昌三が手を振った。
「そのにやけ笑いはやめてくれ。店を焼かれたっていうのに、よく笑っておれるな」
「店のことは心配いらん。保険金で建て直せばいい。それより、明日もう一度、弁護士に会いに行くぞ」
弁護士に会うと聞いて、昌三はなぜかときめきを覚えた。その気持ちに戸惑いを覚えながら、康太郎に訊いた。
「どうしてだ?」
「あいつが言った盛山とかいう社長や、店に放火したゴリラ男――それに、新宿駅にいた二人の男たち。あいつらのことをもっと知りたい。それからやつらの根城もだ。敵のことを知らないと、戦さにもならん」
「あんた、本当にやる気か――」
そこで昌三は、息子がお茶を持ってきたのに気づいて、口を閉ざした。
康太郎は、上目遣いに息子を見た。
「鉄平、きょうは悪かったな」
康太郎は、横にいる昌三のほうに顎をしゃくった。「この男が、おまえに無理やり、弁護士のオカマを掘らせちまって」
昌三が何か言おうとする前に、鉄平はあっけらかんと言った。
「ああ、あんなこと、ちっとも気にしてないよ。父さんに言われなくても、あのとっちゃん坊や、一度やっつけてやろうと思っていたんだ」
鉄平はお茶をテーブルの上に置くと、部屋を出て行きながら言った。「じゃあ先に寝るよ。おやすみなさい」
あとに残された二人は、顔を見合わせた。
「まったく近頃の若いもんは――」
昌三が頭を振った。
「おまえの育て方が悪かったんだよ」と康太郎が決めつけた。
「何を言う!あんたのスケベの血が悪いんだ」
二人はにらみ合った。
「きょうはもう遅い。寝るぞ」
昌三は立ちあがって、さっさと寝室に向かった。
「わたしはどこに寝るんだ?」
ひとつしかないベッドを見下ろして、康太郎が聞いた。
「このベッドしかないだろ。いいか、遠慮しながら寝るんだぞ」
昌三は、枕の位置を横にずらして、ベッドに入った。
康太郎が横にもぐりこんできた。右手に相手のやわらかい体を感じ、昌三はあわてて手をずらした。それから居心地悪そうに身じろぎし、寝返りを打つと背を向けた。それでも彼は、落ち着かなかった。
康太郎は体の向きを変えて、昌三の後ろ頭をおもしろそうに見た。
「ところで、銭湯で、上原とかいう爺さんに会ったぞ」
「それがどうした?」
昌三は、振りかえりもせずに言った。
「べつに」
「だったら、早く寝ろ」
「いいじゃないか。少しぐらいおしゃべりをしても。そういえば、あの爺さん、色々と話してくれたな。――おまえのことを」
昌三は、ぎくっとした。
「――どんなことを話した」
「おまえが若い頃のことだ」
康太郎は思わせぶりに言った。「おまえ、なかなか、もてたらしいな」
「――」
昌三は黙り込んだ。
しばらくして「首に息を吐きかけるな」と言った。
「仕方がないだろ。ベッドが狭いんだ」
「だったら、床で寝ればいいじゃないか」
「おい、冷たいことを言うなよ。板張りの上じゃ固くてしょうがない」
――少しして、昌三の声。
「腹をひっこめろ。腰に当たって、気持ちが悪い」
「意地悪言うなよ。なんだったら――」
康太郎は、相手の尻に下腹部を押しつけた。「ちょっと突ついてやろうか」
「ばかっ!」
昌三が跳ね起きた。そこで康太郎の顔に浮かんだ、ニヤニヤ笑いに気づいた。
「おまえ、あのことを聞いたんだな」
「ああ、6本も突っ込まれたらしいな。おまえが、男の肛門に興味をもつ理由がわかった」
「バカ、男の肛門なんか、興味ない」
「だったらなぜ、茶髪の兄ちゃんのケツに、ペンライトを突っ込んだ。それからどうして鉄平に、弁護士のオカマを掘らせた?」
「バカ、声が大きい」
昌三は声を潜めた。「あれはお仕置きだ。鉄平は、いたずらされたんだぞ」
「ふーん、それにしては、ずいぶん楽しそうだったじゃないか」
「何を言う。バカなことを言ってないで、もう寝るぞ」
昌三は、蒲団をかぶった。そこでいらいらしたように言った。
「もうちょっと離れろったら!」