■ 風の新之輔第二部 - 第二部流浪の旅(十二)
(十二)
いよいよ中仙道でも難所のひとつ、碓氷峠を越えることになった。
馬を連れ歩くことも困難な場所があるため、馬は嘉右衛門に託した。
その分、馬に積んでいた荷物を持たなければならなかった。
嘉右衛門が、特別にあつらえた旅用の荷物袋を譲ってくれた。丈夫な麻布の袋で、その上下に帯が縫い付けられている。肩に掛けることもできるし、斜に担ぐこともできる。これは背中に傷を負う新之輔にとって、大いに重宝した。
かさばる皮の鎧は置いて行こうとしたが、何か考えがあるのか、新造が背負子にくくりつけて持ち運んだ。
軽井沢宿から登り坂がつづいた。ようやく峠の頂上に着いたのは、出立して一刻(二時間)ほどが過ぎていた。
ここでひと休みした。
二人は眼下に広がる山野を眺めながら、竹筒に入れた水で喉を潤した。
そのあと、円窓のいる熊野宮に向かった。
熊野宮には、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の帰路で濃霧に迷い、一羽の八咫烏(やたがらす)が道案内して碓氷峠の頂上に導いた、という社伝がある。
ここは中仙道の要所にあることから、参勤交代で通過する際に、神社に寄って祈祷を行う大名たちもいた。
また上州で武術が盛んだったことから、各流派による額の奉納も多い。
社務所に行って、円窓におとないを入れた。
ほどなく円窓が、仕上げた剣を持ってきた。
「こちらへ」
ひとこと言って、円窓は剣を持ったまま、建物の裏手の空き地に行った。そこで黙って新之輔に剣を差し出した。
新之輔は、渡された剣を鞘から抜いた。
研ぎを入れた剣は、凄みのある光沢を帯びていた。刃と切っ先は、和紙でも触れれば、そのままスッと切れそうなほどの鋭さを増している。それに対して峰の部分は、手が加えられていなかった。
「久しぶりに良い仕事をさせてもらいました。切る、突く、叩く――それぞれの働きを持つ剣です」
円窓が満足そうに言った。
新之輔が代金を払おうとすると、円窓は頑なに断った。そこで代わりに、なにがしかの丁銀を熊野宮に寄進した。
峠を越えると、あとの大半は下り道がつづく。それでも気が抜けない。
特に座頭ころがしと呼ばれる急坂は、湿っている赤土なので滑りやすく、岩や小石がゴロゴロと転がっている。二人は慎重に坂を下りて行った。
坂の中盤に差し掛かったときだった。
ふいに新造が体当たりして、新之輔とともに横ざまに倒れた。
さきほど通った上のほうから、大きな岩が転がり落ちてきた。大岩は二人の脇をかすめ、下にあるいくつかの岩に激突して、横に逸れていった。
振り返って見上げると、坂の上に二つの黒い影が流れるように動いて、フッと消えた。
「黒鉄衆――」
新造がつぶやいた。そして新之輔に向かって言った。「いよいよ黒鉄衆の動きが活発になってきました。この先、ご用心ください」
ようやく坂本宿に辿り着いた。
宿の一室で食事をとったあと、新造は訊いた。
「どうですか、背中の傷は」
新之輔は両肩をぐりぐりと廻して言った。
「少し痒い感じはあるが、痛みは無い。大丈夫だ」
「痒いのは直っている証拠です。ご無理をなされないように」
そこで新之輔は、ねだるような調子で言った。
「どうじゃ、新造――」
「どうじゃ、とはどういうことでございますか」
「ほれ、分かっておろうが――」
新之輔は熱っぽい口調で言った。
しかし、新造の返答はにべもないものだった。
「駄目です。背中の傷に障ります。それに手前は疲れました。いつ黒鉄衆が襲ってこないかと、神経を張り詰めておりました。明日は関所越え。精力を温存しておいた方が宜しいかと存じます」
新之輔は、一言も返せなかった。
結局その夜は、ふたり離れて何事もなく眠った。
坂本宿と松井田宿の間にある関所(のちの碓氷関所)は、東海道の箱根関所とともに、関東への入り口のひとつとして、もっとも重要な場所である。
三代将軍家光の発布した武家諸法度によって参勤交代が義務化され、中仙道を利用する大名も、加賀藩前田家をはじめ三十数藩にのぼった。それに伴う「入鉄砲と出女」は厳しく取り締まられていた。
関所の西門を前に、ふたりは小声で話していた。
「拙者は海滑藩から逃れた者。大丈夫であろうか」
「大丈夫です。例え新之輔さまに対して上意討ちの命が出されていたとしても、それは海滑藩だけの問題。それに調べるのは、入鉄砲だけです。新之輔さまは、堂々としておられればいいのです」
ここの関所は街道東西にそれぞれ門があり、西門は幕府、東門は安中藩所轄とされていた。また関所の関係人数は、それぞれの役職合わせて、二十名近くが詰めていた。
新造が先に西門をくぐり、少し遅れて新之輔があとにつづいた。二人は赤の他人を装っていた。
石段を上ると、番所の手前に上っ面が平たい石が置かれている。いわゆる「おじぎ石」である。
新造はひざまずいて、おじぎ石に手をつき、通行手形を差し出した。それから荷物改めのところで、箱番にさりげなく一分金を渡した。
「よろしくお願いします」
箱番は一分金を素早く懐に収め、籐編みの行李を開けてざっと見ると、「よし」と言って通した。
「ちょっと待て」
呼び止められて、新造はふり返った。
声をかけたのは、番所の奥にいる中年の番頭だった。
「背負子にぶら下げているものは何か」
「はい、これでございますか」
新造はへりくだった態度で言った。「これは薬代の代わりに、戴いたものでございます。なんでも皮の鎧とか。どこか骨董屋でもあったら、売ろうと思っております」
「この時代、買うやつがおるかのう。よし、通って良い」
つぎは新之輔の番だった。
新之輔はおじぎ石を素通りして、番所の前に行った。
「どちらに行かれるのか」
番頭の問いに、新之輔は堂々とした声で答えた。
「拙者、高崎で剣術を教えており申す。熊野宮に参詣した帰りでござる」
「ほう、して流派は」
「風神流でござる」
新之輔は、とっさに思いついた名前を言った。下関で戦った羽山竜之進が名乗った流派だ。番頭が首をかしげた。
「風神流――聞いたことがござらんな」
「ならば、少々ご披露いたそう」
新之輔はスッと下がって、背中の剣を抜くと、正眼に構えた。陽光が刃に反射して、きらりと光った。
トオッ!
鋭い掛け声とともに、上段から切り下げ、切っ先を反転させて水平に払い、そして突きを入れた。
その動きはあまりにも早く、閃光が走っているようにしか見えなかった。
しかも長身から繰り出される技に、空気を切り裂く音が伴って、結構の迫力があった。
順番待ちの行列からも、「おおーっ」というどよめきが上がった。
「いかがでござるか」
「む、見事じゃ。通って良い」
関所の東門を出たあと、新造がからかうような口調で言った。
「高崎で剣術を教えている――ですか」
「口から出まかせじゃ。どうも、おぬしと一緒に旅をつづけていると、つい癖が移ってしまう」
新造はふと立ち止まった。
「新之輔さま、それは、手前が口から出まかせを言う、とおっしゃっているのですか」
「はは、たわむれじゃ。そう膨れるな」
「――」
関所を過ぎたあたりから、徐々に整備された道になってきた。松井田宿を過ぎた頃には、道沿いに杉並木も見られるようになった。
次の泊まりは高崎宿にした。高崎藩の城下町である。
ここは中仙道と三国街道の分岐点にあたり、交通の要衝である。その監視を行う必要ありということで、徳川家康の命により井伊直政が平城を築いた。それが高崎城である。
上州路最大のにぎわいを見せる宿場町だが、本陣や脇本陣がない。ここを通る諸大名が、御城下での宿泊を敬遠したからだ。
二人が泊まった旅籠は大きな建物で、湯屋をそなえていた。さっそく熱い湯に浸かって、長旅の疲れを取った。
部屋で晩飯を食べるとき、新之輔が酒を頼んだ。その魂胆は分かっていたが、新造はご相伴にあずかった。
「新造、ちとこちらに来ぬか」
床に就いたとき、新之輔が声をかけた。
新造は背中を向けて、何とも返事をしなかった。
「来ぬか――ならばこちらから参る」
新之輔は床から出ると、新造の横にもぐりこんだ。そして丸っこい身体を、背後から両腕で抱きしめた。
「ああ、駄目です。お身体に障ります」
新造が身悶えして、抗議した。
「背中の傷なら、もう大丈夫じゃ。ちっとも痛くない。ほれ、ここはどうじゃ」
「ああっ、そのようなところを――手前は疲れているのです」
「なに、それはいかんな。よし、拙者が元気を注入してやる」
「それには及びません――ああっ、そのようなこと――あああっ!」