■ グランパラダイス�U(前編) - (5)
(5)
稚加良千恵子は、踊りの衣装を着替えて、ほっと溜息をついた。
(もう、この歳では応えるわね)
今日は町の催しで、日本舞踊を披露した。踊りを教えている彼女は、こういった行事では必ず声を掛けられる。
千恵子は64歳になる。そろそろ師匠を引退しようと思っているのだが、まわりが許さない。それでも後継者になりそうな弟子は、何人か目星をつけている。
(そのうちね――)
姿見の前で和装の身支度を整えると、脱いだ衣装を畳んでいる弟子に声をかけた。
「じゃあ、美江さん、あとはお願いね」
「チーちゃん、お久しぶり」
公民館を出たところで、声を掛けられた。男にチーちゃんなんて呼ばれるのは、何年振りだろう。
声のした方に振り返ると、頭の薄い男が、ぎこちない笑顔でこちらを見ている。なんとなく見覚えがあるが、名前が思い出せない。こんなときは微笑んで、相手の出方を待つしかない。
「丸山海老造だよ。ほら、美術部でいっしょだった」
「ああ――エビちゃん」
じょじょに思い出がよみがえる。高校時代の部活――男はさほど絵が上手でなかったが、部活に熱心で、部長をやっていた。今でこそ乾いたアーモンドのような顔をしているが、高校生のときは結構、女子生徒たちの間で人気があった。
「去年の11月にクラス会をやったけど、チーちゃん、来なかったね」
(そういえば、案内状が来ていたな――)
千恵子は、これまでずっと高校のクラス会には出席していなかった。
「ごめんなさい。踊りのお稽古と重なっちゃって」
「なあに、いいんだよ。それにしても、チーちゃん、肌がつやつやとして若々しいね。さぞかしご主人ともまだ――」
海老造は語尾をにごして、思わせぶりに言った。
千恵子は思わず言っていた。
「主人は年が年ですから、あちらのほうはたいして盛んでは――」
(あら、わたしって、何でこんなことまで言うのかしら?)
仕事をやめた強は、外で飲むことが多くなった。女の勘で分かるが、以前のように女遊びをしているのでないのは確かだ。だから、ほったらかしにしている。
「えっと、ご主人は何歳になられるのでしたっけ」
「満で68歳になります」
そこで千恵子は、会話を打ち切った。「じゃあ、これで――」
丸山海老造はまだ、ドキドキしていた。
小柳千恵子――初恋の人だった。
絵を描くのは苦手だが、美術部に入ったのも、チーちゃんがいたからだ。男子生徒たちのあこがれの的だった。数多くのライバルを退けて、ようやく部活の部長と副部長という、理想の形にこぎつけた。チーちゃんは機転が利いたので、困ったことがあれば、いつも海老造を助けてくれた。
その当時から40数年ぶり、海老造は定年退職して生まれ育った町に戻ってきた。そして始めた不動産管理の仕事。そんなときチーちゃんの姿を見かけ、昔の想いが再燃した。
今日の町行事も、チーちゃんの踊りを見るためだけに来た。
そのあと勇気を奮って、声をかけたのだ。
――相変わらず美しかった。
最初のうちは年甲斐も無くどぎまぎして、うまく言葉が出てこなかった。
チーちゃんの亭主が68歳で、あちらのほうも盛んでないと聞いたときは、内心にんまりした。
(たしかに68歳じゃ、チーちゃんを満足させるのも、無理だろうな)
海老造はこの数年、女房と肌を合わせていない。このまま枯れちまうのかな、と思ったりもする。
(でも相手がチーちゃんなら――)
「じゃあ、これで」と言われたときは焦った。まだまだチーちゃんの声を聞いていたかったが、引き留めるのは無理があった。
(――でも、これがきっかけとなって)
ふと前を見ると、そのチーちゃんの亭主が歩いていた。
稚加良強――背が高く、鼻筋が通って、歌舞伎役者のような男前だ。これまでも何度か、夫妻が連れ立って歩く姿を遠くから見ている。
海老造は、チーちゃんの横にいる自分の姿を夢想した。なぜか夢の中では、自分の背丈が伸びていた。
彼が見ていると、稚加良強はレンガタイル貼の古びたバーに入っていった。
海老造は少し考えて、その店に近づいた。
(よし、敵情偵察だ)
稚加良強がグランパラダイスに入ると、店のマスターと旧友の篤志、それに薬局店の槍田井芳桂がのんびりと酒を交わしていた。
芳桂は、根に持つタイプではなかったが、安曽古好と内田昭三には未練があった。なにしろ、数いる年寄りの中でも、超理想形の二人である。
今もねちねちと、「ヨッちゃんに続いてショウちゃんまで、会長に取られたんや」と篤志本人を前にして、聞こえよがしにぼやいている。
そして、いかにも被害者のように、侘しげに微笑む。
しかし、誰も芳桂の言うことをまともに受けない。芳桂と会長を比べて、どちらが人格者かと言えば、考えるまでもない。
しかも今日はとりわけ、ぼやく相手が悪かった。
「ホーケイ、大丈夫だって。べつにお前のセックスアピールが無いと言うわけじゃないんだから。役に立たんものをぶら下げていても、外見には分からんだろう」
稚加良強が、ずけずけと言った。
「ツーしゃん、あんまりホーしゃん苛めんでよ。そうでなくても、内田の爺しゃん寝取られて、いじけとるのに」
マスターの洋児が、助け船を出す。
(寝取られただと。ヨージのやつ、余計なことを言いおって)
篤志は思ったが、黙っていた。
「けっ、いじけるタマか。ホーケイは、つつくと強くなるタイプだよ」
強は手にした焼酎グラスをぐっとあおって、鼻で笑った。
それを篤志は、心配そうに見る。
最近、ツヨは酒量が増えたと思う。食べる量も増えたのか、目に見えて肥ってきた。
やはり満須夫にふられた後遺症があるのだろう。
丸山海老造は店に入ると、入り口側の空いた席にそっと腰かけた。下戸の彼は、この店に来るのは初めてだった。
仲間会長が彼に気付いて、挨拶を送る。海老造もそれに応えて頭を下げ、マスターに冷酒を頼んだ。
ちびちびと舐めるように酒を飲んでいると、稚加良強の声が聞こえてくる。その声を聞いていると、無性に腹が立ってくる。
さほど強くないのに、彼は立て続けにコップ2杯の冷酒をあおった。
急激に酔いが回ってきた――。
マスターが稚加良に言う声が聞こえてくる。
「ツーしゃんだって、これまでずいぶん持てたやろ。おなご衆に追いかけ回されて」
それに会長の声が続いた。
「ああ、ツヨは女によく持てた。学生時代は、彼がちょっと声をかければ、もう女子学生はメロメロになる」
「昔からそうだよ!あんたみたいな女たらしが、いつも、いいとこ取りするんだ!」
突然聞こえてきた怒声に、一同ぎょっとして振り向いた。
不動産屋の丸山海老造が、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている。
「彼女とおれは、一番似合いのカップルだったんだぞ」
どうやら海老造の視線は、まっすぐ強に向けられている。「おれたちは部長と副部長だった。部活のみんなからは、おしどり夫婦みたい、なんて言われていたんだ」
目が据わっていた。
篤志はあぶないものを感じて、海老造と強の間の視界を遮らないように、そっと芳桂の横の席に移動した。
「ちょっと待て!何の話をしているんだ?」
にらまれた強は、戸惑って訊いた。
「チーちゃんだよ!チーちゃんはおれの初恋の人だった」
(知るかよ、そんなの。他人の女房のことをよく言えるな)
強は思ったが、口には出さなかった。先ほどの勢いだと、ひとこと口に出せば、海老造は大爆発しそうである。
「ちょいと男前で背が高いからと言って、横からかっさらいやがって」
海老造は完全に酔っぱらっていた。
それをマスターの洋児が、驚いたように見ている。
(コップ2杯で――チョー早っ!酔っぱらいの新記録やけん)
「おれのほうから言い寄ったわけじゃないぜ」
と強が言ったとたん、海老造ががなりたてた。
「なんだあ、それは!いつも女のほうから寄ってきますって自慢してるのか!謝れーっ!チーちゃんに謝るんだ!」
(なんでおれが、こんな陰干しみたいな男に、責められるんだよ)
冷めた焼酎の湯割りを一息に飲んで、強はマスターにおかわりした。
強の横では、篤志と芳桂が小声で会話している。
「他人の女房のことだろ。あいつ、なに絡んでんだ」と篤志。
「まあ、そんだけ純粋なんでっしゃろ」と芳桂。
「純粋というより、まるでバカだ」と篤志が断言する。
途端、海老造が声を張り上げた。
「おい、そこっ!バカって言うな!」
そして強に向かって攻撃する。「だいたい、3文字に3文字なんてバランスが悪いわ」
「何のことだ?」と強。
「稚加良って名字だ。チーちゃんの名前は3文字だから、昔の小柳千恵子のように、名字は2文字のほうが良かった。だから、あんたたちは、結婚しちゃあいけなかったんだ」
(そんなことほっとけ!)
強はあ然とした。
もうここまでくると、海老造がいじらしいのか、いじましいのか、分からない。
千恵子だって、こんなに暑苦しく想いを寄せられて、気付いていないこともないだろう。気付いていないとすれば、千恵子も悪い!
(――頭が痛い)
強は頭痛をこらえて、焼酎をぐっとあおった。それから海老蔵に言った。
「あんたにも女房がいるのだろう。嫁さんに不満があるのか?」
「不満なんかあるか!おれたちはうまくいってるんだ」
「だったらおれの女房のことなんか、どうだっていいじゃないか」
「良くはない!それとこれは違うわい!」
今や海老造は、人目もはばからず泣き出している。「畜生――ひっく――おれとチーちゃんは――ひっく――似合いのカップルだったのに」
(けっ、怒り上戸のあとは、泣き上戸かよ)
もう支離滅裂。ぐちゃぐちゃである。
強はなにか言おうとして、舌がもつれたように、言葉が出てこないのに気付いた。
(何か変だ――)
急に頭が締め付けられるような苦痛が襲ってきた。目の前がぼやける。
篤志はいち早く、旧友の異変に気付いた。強の大きな体が揺れている。彼は素早く歩み寄ると、後ろに倒れかかる友の体を抱きとめた。
(後編に続く)