■ グランパラダイスU(前編) - (5)
(5)
湿った温もりに包まれて、真締忠義は夢世界をさまよっていた。
先端から根元にかけて、すぼめた軟らかい唇がゆっくりと上下する。器用な舌先が、尿道口の会陰部をチロチロと舐める。
――唇の動きが速くなる。
――真締の興奮度も急上昇する。
日間梨産業の監査役である真締忠義は、赤坂にあるヘアサロン・マサに来ていた。
3年前、ある調査でこの店に来たとき、店の経営者、岡昌実の専用作業室で散髪され、ウトウトしている隙に艶っぽいもてなしを受けた。それ以来、彼はその味が忘れられなくなっていた。
店主は60を少し出た男で、見たところ性別は判然としがたい。背が低く、ぽっちゃり体型、有閑マダムのような服装をして、ロマンスグレーのカールしたカツラを被った顔は、キューピッドのように可愛らしい。
「どう、マー坊、気持ち良かった?」
店主が濡れたタオルで後始末をしながら、真締に聞いた。マー坊と呼ばれることにも、この頃は慣れていた。
「それはもう――」
真締が照れくさそうに言って、店主がフフフと笑う。
「マー坊ったら初心なんだから。そんなところが好き」
真締のブリーフをもどし、ズボンのファスナーを引き上げてやりながら、店主は話し続ける。「ねえ、たまにはアーさんも連れてきてよ。あの人、元気にしているの?」
アーさんとは、仲間篤志会長のことである。
「はあ、会長は超多忙の方ですから――」
真締は生返事して、慎重に、この店に来た目的にとりかかった。「ところで岡さんは、うちの日間梨取締役をご存じらしいですね」
「ウネさんでしょう。あの人、68になるのにわたしより若く見えるわ。さすが金持ちは、金のかけ方が違うわねえ」
今度は整髪作業をしながら、店主は饒舌に話を続ける。「あの人とは観劇会の縁で知り合ったの。わたし、大の歌舞伎ファンなのよ」
真締のほうから続きの質問をする必要も無かった。店主のほうで、ペラペラとしゃべってくれるのだ。
「この前なんか、ウネさんの知り合いにしては、ちょいと危ない人が一緒だったの。型枠会社の社長って言ってたけど――わたし、その筋の人は見てきたから、すぐピンときた。目つきがただ者じゃなかったわ」
「名前は分かったのですか?」
「よく覚えていないわ。たしか銭形平次のような名前だったけど――あっ!下の名前は、佐平次よ」
ヘアサロン・マサを出たあと、真締忠義は歩いて会社に戻った。日間梨産業の本社ビルは同じ赤坂にある。
最初、日間梨ウネの私邸に呼ばれ、仲間会長が相談役時代の疑惑を調べてくれと頼まれたときは、動揺した。
真締はウネに向かって慎重に質問した。
「監査役はほかにもいますが、なんでわたしに、相談をもちかけられたのでしょうか?」
「あなたは地味で、いかにも真面目そうだから。そんな人はこつこつと、最後までやり遂げるでしょう」
悪い気はしないが、面と向かって言われると、小馬鹿にされているようにも聞こえる。
彼はこれまで、ウネの挙げたいくつかの疑惑について、ひとつとして調べていない。というより、彼にはその意思が無かった。
そして若干、後ろめたさも覚えていた。逆にウネのことを調べていたのだ。今日、岡昌実に会ったのも、ウネと会話しているとき、ヘアサロン・マサの名前が出たからだ。
今日は日間梨産業にとって、御用納めの日である。社内に戻ると、社員たちの間になんとなくウキウキした気配が感じられる。真締はすぐ仲間会長のもとに行った。
真締はいつも感じていた。仲間会長の部屋は、なにかしらアットホームな暖かさがある。ドアを通り抜けると、あわただしい社内から、別世界に入った気分になる。
会長が人懐っこい笑顔を浮かべて、ソファーを勧めてくれた。
部下に対して偉ぶらず、ざっくばらんに接する会長に、真締はホッとする思いだった。
彼は気を取り直すと、自分が独自に調査してきたことを報告しだした。
それから30分後、仲間篤志は真締を伴って、大木奈の運転する車に乗っていた。
型枠会社、佐平次、と聞いて、すぐ屋久佐平次のことを思い浮かべた。
屋久は、篤志や稚加良強と小学校時代の同級生で、若い頃は極道をして刑務所に入ったこともある。舎弟の契りを結んだ男華内組の組長とは、今もって縁を切っていない。
彼が更生して、型枠会社を復活するのを、篤志と強が助けてやった。屋久は一本気の男で、そのことを強く恩義に感じている。
数年前、江利戸社長宅に出没した不審者の事件を解決してくれたのは、この屋久である。その事情は、当時一緒に動いていた真締も知らない。
篤志は、屋久のところに真締を連れて行くことを躊躇したが、真締とて監査役の職分を逸脱してまで、篤志のために情報を提供してくれた。その彼にも知る権利はあるだろう、と思ったのである。
屋久佐平次の経営する会社は、浅草の外れにある。
1階の事務所に入ると、二人の女性がいた。電話をしていた中年女性が、篤志の顔を認めて頭を下げた。屋久のひとり娘である。
代わって、整った顔立ちの若い女が応対した。
篤志らは、女に案内されて応接室に入った。女はゆったりした服を着ているが、子供を宿しているのが見て取れる。顔の肌がつやつやして、内面から生気が滲み出ているようだ。よほど亭主にかわいがられているのか、幸せそのものといった顔をしている。
ソファーに座って待っていると、社長の屋久佐平次が部屋に入ってきた。
短く刈った髪は白く、顔の皺も多いので、篤志よりずっと年上に見える。しかし、目にはものごとに動じない強い光があった。がっちりした筋肉質の体も、まだまだ覇気が感じられる。彼は篤志にむかって、渋い声で言った。
「やあ、お久しぶり」
ひと通りの挨拶が終わったころ、先ほどの女がお茶を持ってきた。それを見る屋久の目は、愛情に溢れている。
真締はその様子に気づき、微笑ましい祖父と孫の姿だな、と思った。
篤志は時間を無駄にせず、すぐ本題にとりかかった。
自分が相談役時代のことで疑惑を抱かれていること。疑っているのは日間梨ウネという創業者一族の非常勤取締役であること。2年以上も前のことを調べ始めたのは、日間梨梵の不正を暴いた自分を、同族のウネが恨みに思っているからではないか。そんなことを淡々と説明した。
屋久は腕を組んで、目を閉じ、しばらく沈黙していた。
篤志が、ウネの交友関係のひとりに屋久の名前が出た、ひょっとして屋久から何らかの情報を得たのではないか、と言ったとき、初めて屋久が目を開けた。
「わたしは何も話していない」
屋久はムッとしたように言った。彼が怒ると凄みが出て、篤志でも怖い。真締なんかは、思わずその場で固まっていた。
なにしろ屋久には、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた経験がある。並の人間では、到底太刀打ちできない。
「確かにウネさんには、何度か会っている。歌舞伎の観劇でね。だけど、あの件のことは一言も話していないし、彼女からも聞かれていない」
屋久は、あの件、と言った。真締がいるのを意識している発言だ。篤志はその心配りが嬉しかった。
屋久は、篤志の顔を面白そうに見た。
「本当に気付いていないのか?」
「――」
篤志はいぶかしそうに屋久を見た。「なんのことだ?」
「――御手洗(みたらい)」
屋久はポツリと言った。
篤志はそれでも分からなかった。
「薄情なやつだ」
屋久はため息を吐いた。「日間梨ウネの旧姓だ。ほら、同じ小学校に小さな女の子がいただろう。こまっしゃくれていたが」
言われてじょじょに思い出してきた。姓が御手洗ということで、お手洗いとからかっていた女の子――。
「思い出したようだな。ウネはお前が好きだった。ところがお前は、彼女に見向きもしなかった。あげくの果ては、50数年振りに会社で会っても、全然気づきもしない」
「彼女は非常勤だからな。会社にもほとんど顔を出さん」
「だけどウネは、すぐお前に気付いたそうだぞ。ま、彼女にとって、愛情転じて憎しみに変わる、といったところか。たぶんお前への疑惑も、お前を困らせたいからやっているだけだ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
屋久はあっさりと言った。
「一度、抱いてやれ。後家だから問題ない。それで変な動きも無くなる」
屋久の会社を出ると、真締は言った。
「屋久さんのお孫さんは、お目出度のようですね」
「孫じゃない。女房だ」と篤志。
「えっ――」
真締は絶句した。
その反応を見て、篤志は、さもありなん、と思った。たしかに屋久が後妻として45も年の離れた女を選んだのは、驚異だった。体力のこともあるが、それ以上に育った時代が違う。古い考えを持つ佐平次を思うと、よほど女のほうが出来た人間だろう。
それに40歳になる娘や、高校と中学に通っている二人の孫たちとのバランスもある。
(ま、いいか。少産少死の日本にとっては――)
車の中から、一度お会いしたい、と日間梨ウネに連絡を入れた。気がかりなことは先延ばしにしない――これが篤志の身上だ。
ウネはちょっと戸惑ったが、夕方5時なら会えると言う。篤志は会見を約束して、いったん会社に戻った。
日間梨ウネの自宅は、目黒区の閑静な通りにあった。レンガタイル貼のしゃれた建物で、長男家族と一緒に生活していた。
「あなた、お酒を飲むでしょう。いいお酒があるのよ」
開口一番、ウネは言った。小柄だが、目が生き生きしている。
出された酒はたしかにうまかった。さわやかな辛口で、香りも良い。なにか柑橘類の香りがする。
「ふむ、麹にひと工夫していますね」
「さすが酒通ね。米麹に少量の柑橘麹を混ぜているの」
出だしは腹の探り合いだった。何気ない会話をしながら、相手が本音を出すのを待つ。
篤志は1合ほど飲んで、空のグラスをテーブルの上に置いた。
「ごちそうさま。これ以上飲むと、自分の行動に責任が持てません。あなたを襲うかもしれない」
「嘘ばっかし。あなたは今、ふたつの嘘を言ったのよ。お酒は強いし、わたしを襲うほどの魅力も感じていないでしょう」
「いや、あなたはお美しい。内面からにじみ出る美しさだな」
「なに馬鹿なことを言っているの、こんな婆あに向かって」
そのとき驚いたことに、この68歳になる男勝りの才女は、ふっと恥じらうようなそぶりを見せたのだ。
「今日、屋久佐平次に会いました」
篤志は本音の部分に入った。「そのとき、あなたの話題が出ました。歌舞伎がお好きだそうですね」
「――」
ウネは沈黙して、篤志の出方を見ているようだ。
「あなたの旧姓も聞きました。これまで同窓生だと気付かなくて、お恥ずかしい限りだ。申し訳ない」
篤志はすなおに頭を下げた。
ウネは照れ臭そうに笑った。
「小学生の頃のあなたは、相当のワルだったわ。女の子のスカートをまくり回っていたでしょう」
「あなたのスカートもまくりましたかね」
「わたしはやられていないわ。だから頭にきているの」
「――」
「そんなワルなのに、クラス委員だった。みんなに人気があったわ」
「それは初耳ですな。わたしより、稚加良強のほうが、はるかに人気があった」
「ああ、あれは駄目。見かけ倒しで、からきし意気地がないんだから」
(ツヨが聞いたら、湯気を噴くな)
篤志は内心、ニヤッとした。
「あなた、今は大きな会社の会長などやっているけど、そうとう寄り道したでしょう」
(――それは社会人になるまでだ)
と思ったが、篤志は否定しなかった。
「道草こそ醍醐味ですよ。まっすぐ目的に辿り着く人生なんて、面白くもなんともない」
「あなたのそういうところが好き。一筋縄じゃいかないんだから。逆に、仕事一筋の男って、わたしの性に合わないの。――主人も一筋だったけど」
ウネの主人は5年ほど前に亡くなっている。真面目そのものという人物だった。その主人に代わって、ウネが非常勤取締役になったのだ。
ウネの主人のことに触れずに、篤志は言った。
「そうですな――だいたい、仕事一筋でいると、ひとつの角度でしか世の中を見られなくなる。もっとも、そういう男のほうが仕事も出来るし、出世もする。だけど、あとの人生で待っているのは、空虚なものだったりする」
「あら、あなたって意外とロマンチストなのね」
「意外というのが余分ですがね」
ウネとの会話は、予想外に楽しかった。結局その日は、篤志の疑惑に関する話題は、ウネの口から一言も出なかった。