■ グランパラダイス�U(前編) - (5)
(5)
朝から来客が続いた。
難しい得意先と昼の会食を終え、篤志が社内の自室に戻ったときは、ホッとする思いだった。秘書にお茶を持ってこさせて、しばらくくつろいでいると、監査役の真締忠義がやってきた。
真締は50代後半、小柄な体つきをして、生真面目だが有能な男だ。篤志が相談役をしていた頃、彼のもとで手足となって働いてくれた。その功績を買い、篤志は江利戸社長に働きかけて、当時、監査室長だった真締を監査役に引きあげたのだ。
その人事について、篤志は表面に出ていないが、真締は、自分が監査役になれたのは会長のおかげだ、と思っていた。
真締は律儀な男だった。同じ経営陣でも、取締役と監査役は両対局にある。取締役の活動を監査するのが、監査役の役割だ。それは真締も理解していた。しかし頭でわかっていても、彼は心情的に仲間会長に忠誠を誓っていた。
「ほう、真締監査役がわたしのところに来るとは、珍しい。わたしが何か不祥事でも起こしたのかな」
篤志は冗談を言ったが、真締は生真面目な表情を崩さなかった。
「実は、昨日、日間梨取締役のお宅に呼ばれまして――」
日間梨取締役と聞いて、一瞬篤志は、会社を辞めた日間梨梵のことを思った。
そこでふと、日間梨ウネに思い当たった。ウネは、日間梨梵の叔父にあたる人物の妻で、今は会社の非常勤取締役をやっている。篤志と同い年の68歳、体は小さいが男勝りの才女である。
そのウネが真締を自宅に呼んだとは、よほど内密な話だったのだろう。
「日間梨ウネさんだね。彼女が何か?」
真締は説明を始める前に、少し間を置いた。どう話そうかと言葉を選んでいるようだ。
「日間梨取締役は、他言無用だとおっしゃいました」
篤志は内心、ふむ、とうなった。真締はそれを破って、篤志に話そうとしているのだ。
「あの方は、仲間会長が相談役だったころの行動に、重大な疑惑を抱いておられます」
真締は核心の話を始めた。「当時取締役だった日間梨梵氏の不正を暴いた、いくつかの事柄に対してです。ひとつは週刊毎朝に載った記事。あれは会長がリークしたのではないか、とおっしゃっています」
篤志は何食わぬ顔で聞いた。
「ほかには?」
「不正伝票の写しです。違法手段によって入手したものではないか、と。それから、江利戸社長宅に出没した暴力団風の男たちの事件。あれも会長の働きで解決したと聞いているが、その手段は公にされていない。どうやって解決したのか表に出すべきだ、と」
真締の話が終わったと思って、篤志は質問した。
「それをきみに話して、彼女は何を期待しているのだ?」
「彼女が考えている疑惑を、わたしに調査して欲しいそうです。取締役の監査をするのが、監査役の役目だろう、とおっしゃって」
真締は情報だけ伝えて、部屋を出て行った。
篤志は目を閉じて、しばし真締の話を反芻した。
(2年以上も経って、今さらどうして、こんな疑惑を掘り起こすのか?)
その疑問の答えは、日間梨家の血縁の情しか思い浮かばない。
日間梨梵を破滅に追いやった男に対する嫌がらせ。あるいは、創業者一族に泥を塗った男への報復か。
確かに、日間梨ウネが疑惑にあげた事柄は、いずれも篤志の痛いところを突いている。
週刊毎朝にいる知人に情報を与えたのは篤志だし、不正伝票の写しは、日間梨梵の手下だった経営企画室の課長席から抜き取ったものだ。それに社長の私邸に出没したのは、現実に暴力団の男たちで、同じ暴力団ルートで解決したものだ。
(さすが才女と言われるだけのことはあるな)
しかし篤志は、この一見、すべてを知り尽くしているようなウネの話に、重大な欠陥があることに気付いていた。
それは、真締に話をして、調査を依頼したことだった。
篤志が相談役時代、真締はこちらの調査に協力的だった。不正伝票の写しを手に入れるときも、真締が一枚噛んでくれた。
そういった事情をウネが掴んでいたのなら、とうてい真締に話をするとは思えない。それは逆に考えれば、ウネの抱いた疑惑は何の根拠も無く、ただ関係者の話を聞いて類推しただけとなる。あるいは、甥の日間梨梵に吹き込まれたか。
(それともウネは、おれと真締が近いのを知っていて、あえて真締を呼んだのか)
それも考えられなくは無い。いずれにしろウネは、油断ならない女だと思った。
疲れを覚えたので、スポーツジムに寄らず、直接家に帰った。真締から聞いた日間梨ウネの動きは気になるが、彼は最後までシラを切るつもりだった。
予定より早いので飯はまだ用意していないと思い、車の中から忠に連絡を入れた。晩飯はグランパラダイスで食べる、と。
いったん家に戻り、私服に着替えた。
出掛ける段になって、忠が念を押すように言った。
「今夜はどこにもお泊りにならないのですね」
「ああ」と素直に答えようとしたが、わざわざ口に出されたことが癇に障った。
篤志は憮然とした声で言った。
「どうもお前の口ぶりはトゲがあるな」
「おや、そういう風に聞こえましたか?」
忠も珍しく口答えする調子になる。
「ははあ、お前、おれが爺さんどもに持てるので、妬いているな」
「今さら妬いてなどいません。旦那さまが浮気性だということは、とっくの昔から存じております」
「はっきり言うじゃないか。そんなことを言ってると、痛い目にあわすぞ」
「大歓迎です。旦那さまに痛い目にあわせられるのなら、本望です」
そこまで開き直られると、篤志も答えようが無い。彼はぷいと家を出て行った。
グランパラダイスに行くと、数人の常連客がいる。稚加良強と槍田井芳桂が、隣り合った席にいた。
芳桂は町の薬局店を経営しているが、実質の経営は女房がやっていて、本人は糸の切れた凧のようにふらついている。彼は、中年のときまで女狂いをして、業を煮やした女房から誓約書を書かされた。『今後一切、女性との縁を絶ちます。もし約束を破ったら、去勢手術を受けます――』と。
さすがに、ちょん切られたら生き甲斐が無い。女が駄目なら、男はいいだろう、と最終的に爺さん愛に鞍替えした。
すでに58歳になるが、とにかく言動が軽すぎる。服装も若作りだ。いかに温厚な篤志とて、この男にバックドロップでもかませたくなるときがある。
そんな芳桂だから、強もきつい嫌味を言う。
「おい、ホーケイ、お前、気を付けないと、色々いけない噂が町中に広まっているぞ」
「ツーさん、いけないことってなんなん?」
「わざわざ言わんでもわかろうが。お前の下半身に関わることだ」
こういうとき強は、むだに残酷になりがちだ。とくに満須夫に振られた今は、危険な状態にある。これ以上しゃべらせると、いかに能天気な芳桂でも落ち込んでしまうだろう。
で、篤志は助け船を出した。
「おい、ツヨ、もうそのへんでやめとけ。ホーケイが泣き出すぞ」
強が、ケッ、ホーケイがそんなタマか、という顔つきをした。
篤志の言葉に加勢するように、マスターの洋児が言った。
「そう、ホーしゃん、かわいそうばい。だって会長は、自分から求めなくても素敵なお爺しゃんが寄ってくるやない。そん百倍は努力しても、寄ってこんホーしゃんは、どうしたらよかの」
そんなことほっとけ、という顔で芳桂がマスターをにらむ。
それに気づかず、洋児は話を続ける。
「せっかく、よか仲ば続いとった内田の爺しゃんだって、会長に寝取られたんやけん」
(寝取られた?お前、この店から追い出すぞ)
洋児に向かって思わず出掛かった不穏当な言葉を、篤志はぐっと我慢した。
「ちょっと待て――」
と、強が会話に加わった。「ヨージの言うことは、ホーケイをカバーしているのか、けなしているのか、よう分からん。アツの百倍努力しても駄目だって?それじゃ、イソップ童話のカメつかまえて、お前、なんで足が遅いの?と言っているようなものやないか」
(違う。人徳の差だよ)
と思ったが、篤志は話題を変えた。「ところで、近頃、ヨッちゃんの姿を見ないな」
それに洋児が応えた。
「先週、ヨッちゃんは風邪をひいたと言っとったよ」
店を出たあと、篤志は安曽古好の様子を見に行った。老人は小さな戸建にひとり暮らしなので、心配になる。
好はふっくらとした小柄な老人で、世に言う、ゆるぽちゃタイプである。篤志は、愛犬が死んで傷心の好を、慰めたはずみで抱いてしまった。
ほんの出来心だったが、いったん男の刻印を押された老人に火が点いた。以来、好は篤志に熱い想いを抱き続けている。
家に行くと、好は寝ようとしているところだった。
「風邪をひいたと聞いて、様子を見に来た。どうだ、体調は?」
「もうすっかり良くなりました。わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
思いがけず篤志が見舞いに来てくれたので、好は涙を浮かべていた。
篤志はなにも言わずに、浴衣姿の老人を抱擁した。
その後は自然の成り行きだった。
二人は唇を重ね、おたがいの体をまさぐり、そして衣服を脱ぎすてて肌を合わせた。
好は75歳になっても、色白の吸い付くような肌は変わらない。
篤志は、貴重な美術品のように、好の体をやさしく愛撫した。2日前に内田老人を抱いたばかりだが、驚いたことに、貫く力が蘇ってきた。
好は篤志の体の下で、乱れに乱れた。
いつもは能動的な篤志のほうが、抑え気味だった。
入り口の部分で軽く、小刻みに抽送させ、ついで奥の方までググウッと突き入れる。そしてゆったりと、押しては引く運動を始める――けっして激さず、内部の襞をひとつひとつ味わうように。
篤志は最後まで到達しなかったが、病み上がりの老人を気遣って、途中で体を離した。
時計を見ると、12時を過ぎている。
こんな時刻に、忠に電話するのもはばかられたので、メールを入れた。
『今夜は好の家に泊まる』と一言。
翌朝、屋敷に戻ると、やけにシーンとしていた。忠の姿を探して、台所に行った。
食卓の上に白い封筒が置かれていた。
表に『旦那さま』とだけ書かれていた。手に取ると、中に一枚の便箋が入っている。
几帳面な文字が並んでいた。
『少々腹に据えかねることが重なりまして、おいとまをいただきます』