目 次
グランパラダイスU(前編) - (4)
(4)

朝から鬱陶しい気分だった。腰まわりが重苦しくて、鼠蹊部にも鈍痛を感じていた。
篤志は午前中の仕事をこなすと、秘書に言って午後はフリーにした。
昼過ぎに、会社の近くにある整体院に行った。整体師は3人いるが、篤志はいつも院長の施術を受けていた。
院長の籾山は60代の半ば、篤志とそう年齢が変わらないので、なんとなく気心が合う。
施術を受けるため、ベッドの脇でシャツとズボンを脱いでいると、壁に貼られた色紙に気付いた。

    春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

「寒いこの時期、季節外れの歌だな。新古今集なんか壁に貼って、どうしたんだ?」
篤志が素朴な疑問を出すと、籾山は愛嬌の良いブルドックのような顔をして、にんまりとほほ笑んだ。
「うちの若い連中の、教育のためだ。あいつら、この歌を詠んで、『ころもほすてふ』とそのまま読みやがった」
「ああ、『てふ』は『ちょう』と読むなんて、近頃の若者は知らないだろう」
「それじゃあ困るんだ。いくら国際化したと言っても、日本古来の良さも知っていてもらいたいわ。もっとも『てふ』なんか、会長の場合は濁りまくっているけどな」
(てふが濁る?)
ようやく、『でぶ』という文字が思い浮かんだ。
篤志は苦笑いした。
「それはお互い様だろうが」

30分ほど俯せになってマッサージを受けたあと、今度は仰向けにされた。
籾山は、腹の上を手のひらで丹念に押していく。それから親指の腹でツボを強く押す。
思わず息を止めるほど痛いが、じっと我慢する。
ついで、太腿の内側から鼠蹊部にかけて、触診するように軽くマッサージされた。
「腹筋がだいぶ強張っていたな。それに、腰と鼠蹊部が痛いのは、大腰筋が緊張しているせいだ。それから――ちょっと房事過多だな」
篤志は内心、ギョッとした。たしかに最近、自分でもそう思っていたところだ。
「ほい、今度は横向きになって、膝を曲げて――そうそう」
籾山は言いながら、篤志の下ズボンとパンツをずり下げて、尻をむき出しにした。ついで、陰嚢のうしろから蟻の門渡りにかけてマッサージをしながら、話をつづけた。
「房事は、精気を消耗させる。だから江戸の時代から、房事過多は腎を弱らせ病の原因となる、と言われてきた。会長も、もう若くないのだから、そこそこ控えないといかんな。月に何回やってる?」
股間を揉みほぐす、温かい手の感触にうっとりとしながら、篤志は質問に答えた。
「まあ、2週に1回――調子が良ければ週に1回――」
「――!」
籾山は急に押し黙った。
彼は膝を曲げた姿勢の篤志を、そのまま仰向けにして、海老固めに太腿を押し上げた。ついで、握りしめた中指の関節を尻のえくぼにあてがい、体重をかけて圧迫した。
「いたたたっ!」
篤志は悲鳴をあげた。脂汗がどっと湧き出てくる。
それにかまわず籾山は、反対側のツボも同様に圧迫した。
ふたたび、篤志の悲鳴。

痛かった分、施術のあとは信じられないほど体が軽かった。篤志が服を身に着けたところで、籾山は言った。
「ま、房事もほどほどに、と言うことだな。このままだと――」
籾山は思わせぶりに、最後まで言わなかった。
篤志は思わず質問した。
「このままだと、どうなるんだ?」
「――男の機能を失う」
籾山は静かに言った。
篤志は黙って院長の顔を見つめた。
「ほう、ちっとも動じないか。さすが大会社の会長ともなると、胆が据わっているな」
べつに、篤志の胆が据わっている訳ではなかった。あまりのショックに、声が出なかっただけのことである。
籾山は、へらへらと笑った。
「冗談だ。男の機能を失うと言うのは、ウソ」
篤志の頭の中では、この肥った男を二つ折り四つ折りにして、体中の水分と脂肪分を絞り出している光景が浮かんでいた。

整体院を出て大木奈の車で湯島に戻ると、友人の稚加良強の家に行った。そこで強と合流して、藤井利子と会うため喫茶店に向かった。
行く前に事情を話したとき、強は言っていた。
「あまり他人の夫婦間の問題に、立ち入らないほうがいいぞ」
「ああ、お前が言うと、すごく真実味がある」と篤志は応えた。
「どういう意味だ。おれと千恵子のことを言っているのか。とにかく、夫人の話は聞くにしても、深入りは禁物だ」
「そうだな。お前もたまには、いいことを言うじゃないか」
「お前は、めったに言わないけどな」と強。

ところが、喫茶店で女の顔を見た途端、強は急にデレデレしだした。
愛情の対象を女から男に宗旨替えした男の態度とは、とても思えない。
藤井利子は30代半ば、日本的な美人である。黒髪のうりざね顔に切れ長の目をして、襟足がきれいだった。そのうえ、モデルにしてもいいほどのスタイルをしている。
女性に性的興味をもたない篤志でも、一度見たら忘れないタイプの女性だった。

篤志ひとりと思っていた夫人は、警戒するような目つきで強を見た。
それに気づいて、篤志は正直に言い訳した。
「どうもあなたのような妙齢のご婦人に、ひとりで会うことに気後れしました。それで、旧友の稚加良強を連れてきました。彼は師匠のご主人ですから、まんざら知らない仲でもありませんし――」
相手を安心させるように、篤志は微笑んだ。「二人とも口は堅いほうですから、どうぞご安心ください」
言ったあと強の顔を見て、少し自信がなくなった。考えてみれば、強は決して口が堅いほうとは言えなかったからだ。

「この半年ほど、うちの主人の挙動がおかしいのです」
利子は、ぽつぽつと話しだした。
「病院は土曜の午後から日曜にかけて休業にしていますが、主人はきまって土曜日の午後になると、どこかに出かけるのです。どこに行くのだと聞いても、街をぶらついてくると言うだけで、はっきりとは答えてくれません」
利子は喉を潤すように、水を飲んだ。
「主人はいつも疲れたような顔をしていますが、戻ってきたときには、すっきりした顔つきになっているんです。それに肌艶なんかも、目に見えて良くなっています」
強が横やりを入れた。
「じゃあ、酒を飲んだのじゃないか」
「主人はお酒が好きじゃありません」
夫人はきっぱりと言った。「主人が戻ってきたとき、香水の匂いがかすかにしますから、やはり女性に会っているのだと思いますわ」
篤志は質問した。
「たしか藤井先生は50歳になられましたね」
「51歳になります。わたしとは歳が15離れています」
「そのう、奥さん――先生との夜の生活は――」
篤志が言いにくそうに話すと、利子はあっさり答えた。
「主人は歳が離れていますし、もともと弱いほうですから、最近は殆どありません」
(なるほど。この夫人を満足させるのは、あの先生じゃ大変だな)
言いにくいことでもずけずけと言う夫人に、篤志は勝気な性格を見た。
強が夫人に質問した。
「女のことですが、なにか心当たりはありませんか?」
「ひとつだけあります。ここの女性かどうかは分かりませんが」
利子は一枚の名刺を取りだした。
カイロプラクティック『ソフィア』院長、水野真澄、と書かれていた。
最後に利子は、宣言するように言った。
「わたしと主人は、一心同体と言うほどの夫婦仲ではありませんが、少なくとも秘密だけは無くしたいと思っています。もし、主人が女のもとに行っているとしても、それがわたしたちの生活に影響を及ぼさない限り、わたしは黙認できます。ですからどうか、事実だけをお調べになっていただきたいのです」

夫人と別れたあと、篤志は考えた。
藤井洋一は、どことなく温室培養の甘さを感じさせる男である。彼の女房の様子を見ると、夜の生活でも満足させていないようだ。その彼が外部で女に入れ込むなど、篤志には到底想像できなかった。ほかにきっと、何かあるはずだ。
そのとき、強があっけらかんと言った。
「下手な考え、休むに似たり。まずやることは、そのカイロなんとかって店に、おれが行ってみるってことだ」

カイロプラクティック『ソフィア』は、日本流に言えば整体院だった。小さなビルの5階にあり、完全予約制となっていたが、稚加良強が行った時には、たまたまかどうかはともかく、すぐに受付してくれた。
対応したのは、助手らしき若い女だった。
強は、受付簿に氏名年齢、その他必要事項を書き込み、1時間の全身マッサージコースを申し込んだ。
ロッカーで備え付けの薄いガウンに着替え、奥の部屋に入った。
別世界に紛れ込んだような感覚だった。照明を落とした部屋は、緑のプラントが置かれ、かすかにいい香りがした。BGMも趣味のいい音楽が流れている。
中央のベッドに腰掛けると、40代と思える大柄な女がやってきた。顔は十人並みだが、お母さんタイプの穏やかな表情をしている。
「いらっしゃいませ。どうぞベッドに横たわって、楽になさってください」
女はおっとりと言った。

それから1時間後、母親の雰囲気を持つ女性のマッサージを受けたあと、強は幼児のころに戻ったような気分になっていた。マッサージをしながら女性は、まるで母親が幼児に対しているような調子で、なにかと話しかけてきたからだ。
「ああ、おかげさまで、ずいぶんリフレッシュできた。ありがとう」
強は言ったあと、さりげなく探りを入れた。「でも、お客さんの中には、難しい人もいるのじゃないですか?」
「それは、人の心は複雑ですから」
女院長はやわらかく笑った。
(ああ、この笑みに慰められているのだな)と強は思った。
女はつづけて言った。
「難しい仕事をされている方ほど、幸せだった幼児のころに戻りたい、といった願望があります。ですからわたしは、カイロプラクティックを通じて、そんな方々のお気持ちを少しでも慰めてあげられないか、とつねづね思っております」
(幸せだった幼児のころに戻りたい?)
強は自分の心の中を探ったが、あまり思い当たらなかった。それで女院長に言った。
「ま、人それぞれですな」

「――というようなわけだ。だから藤井先生があの女に入れ込んでいる、というのは無いな」
言ったあと稚加良強は、自ら納得したように大きくうなずいた。
篤志は、グランパラダイスで強の報告を聞いていた。
彼は少し考えたあと、おもむろに言った。
「いや、藤井先生ならありうるな。おれの見るところ、あの先生はマザコンの気がある。それに整体師は、母親タイプの大きな女性だろう。だったら先生、その女性に甘えたくて通っているんじゃないか」
「セックス抜きでか?」
「ああ、お前と違って、セックス抜きでも女に慰められる男は多いさ」
「あまり面白くない結末だな。とにかく、藤井利子にはおれから報告しておく」
篤志はくぎを刺した。
「今度はお前の女房から、相談を持ちかけられるようなことはするなよ」
「バカ!だれが女房の弟子に手を出すか」
強がふてくされた。
カウンターの奥では、マスターが口に手を当てて、溢れる笑いを押さえていた。
[17/08/14 06:13 神亀]
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