■ デッドライン第三部(反撃) - (11)
(11)
目を開けると、思いがけない白っぽい光景だった。
俺はまばたきして、目が光に慣れるのをしばらく待った。
消毒液の匂いがした。そこで、病室にいるのに気づいた。左足が包帯で固定されている。全身が気だるかった。
船上の死闘を思い出した。今考えてみても、生きているのが奇跡に思えた。
ほどなく池上が、車椅子に乗せられて、部屋に入ってきた。
手と脚は白い包帯に覆われていたが、彼の顔はすっかり生色を取り戻していた。ひげを剃ってさっぱりとした顔は、目許がやつれていたが、いつもの穏やかな表情を浮かべている。
「やあ、だいぶ顔色がよくなった」
池上が言った。
「どれぐらい眠っていたのですか?」
「まる一昼夜ですよ。今日は火曜日。あなたは手術の間も、意識を失っていましたからね」
驚いた。まさかそんなに、時間が経過していようとは。
そういえば、ぎらつく照明のもとで、白衣の医師が上から俺をのぞき込んでいた記憶が、かすかにある。
「福井さんは?」
「ああ、あの人は無事ですよ。別の部屋で寝ています」
付き添いの看護婦が部屋を出ていくと、池上は今の状況を話した。
「これで、すべて解決しますよ。警察の一斉手入れで、梶山商事はもうおわりでしょう。それから、小山は行方をくらませました。やはり彼が、署内の内通者だったようです。現在、重要参考人として指名手配されています。あとは関係者の取り調べで、一連の犯罪を実証するだけですが、それも時間の問題でしょう」
そこで彼は、悲しそうな表情をした。
「先ほど、連絡がありました。太田さんのご遺体が見つかりました」
分かっていたこととは言え、太田の死を改めて聞かされて、胸が傷んだ。
池上はそっと補足した。
「梶山が言っていた通り、近くの海で見つかりました」
俺に何かと気をかけてくれた太田。愛嬌のある太った身体。人情味のあるとぼけた仕草。老人に対する色々の思いが渦巻いた。
俺はぼんやりと訊いた。
「梶山は──どうなるのですか?」
池上はためらった表情をみせた。それから、俺の顔を見ながら、ゆっくりと言った。
「梶山は死にました」
「死んだ?でも、どうして──私は殴っただけですよ」
「ええ、あなたのせいじゃない。警察が駆けつけたとき、梶山は頭部を銃で撃たれていました」
「銃で撃たれた──誰が撃ったのです?」
「それは分からない。中村──スキンヘッドの殺し屋の名前ですが、彼が船室に落とした私の銃を、誰かが使ったようです。私のミスです。あのとき、自分の銃を回収しなかった」
「──」
「それに、銃についていた指紋は、きれいに拭き取られていました」
「でも、誰が?」
「おそらく、梶山の手の者だと思います──仲間内にだって、梶山を快く思っていなかった人間は、いたはずです」
「――」
俺が梶山の死について考えていると、池上が言った。
「ところで、あなたに忠告したいことがある」
顔をあげて池上を見ると、彼はまっすぐにこちらを見ていた。
「外人墓地の廃屋で、私の頬を叩きましたね。――それも、二度までも」
(今更なにが言いたいんだ。謝ったじゃないか――)
俺は黙って、年配者の顔を見た。
池上はゆっくりと言った。
「まるでバットで殴られたようでしたよ。年寄りに対しては、もう少し優しくしてもらいたいですな」
鼻血を出す池上の顔を思い出した。とたんに自分が恥ずかしくなった。思わず叩いたとはいえ、無抵抗の年配者に手をあげたのだ。
謝ろうとすると、池上が先に言った。
「それに船上のこともある」
(まだあるのか)
怪訝に思っていると、池上は言った。
「あなたの投げた刃物は、私の顔から10センチと離れていなかった」
池上が言っていることを理解した。スキンヘッドに向かって、包丁を投げつけたときだ。でもそんなに近かったのだろうか?
「ヒュンッと風切り音をあげて、顔の横を通り過ぎていった時、肝っ玉が縮み上がりましたよ。――とにかくこれからは、あまり私を驚かさないでもらいたい。命がいくらあっても足りませんからね」
池上に非難されて、ぐうの音も出なかった。
たしかに池上の言うとおりだった。俺の行動は思慮に欠けていた。感情の赴くままに、ずいぶんひどいことをやってきた。池上だけでなく、福井に対してもだ。
そのとき思いがけずも、池上がにっこりと微笑んだ。
親密とも言えるほどの暖かい笑顔に、俺はドギマギした。
「でも私は、あなたが大好きですよ。なにしろあなたは、私にとって、永遠のスーパースターですからね」
「――」
複雑な気持ちだった。池上の言葉は、どう受けとめればいいのか。まさか愛の告白でもないだろう。
俺がとまどっていると、池上は、少し恥ずかしそうに言った。
「それに、船で囚われていた時、あなたは、私が人に知られたくない秘密の共有者になりましたからね」
(キツネ目に犯されたことを言っているのか?)
俺は思ったが、その疑問を口には出さなかった。
そのときドアが開いて、啓介が部屋に入ってきた。義母がいっしょだった。どうやら池上が手を回して、連絡をとってくれたらしい。
啓介は、池上にペコリと頭をさげると、おずおずとベッドに近づいてきて、包帯で巻かれた俺の脚を心配そうに見た。
「お父さん──大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。こんな傷はすぐ直るよ」
「──また、お酒が欲しくなるんじゃない?」
啓介は言いにくそうだった。
俺はちょっと詰まったが、微笑みながら言った。
「こんどは大丈夫。もう酒は飲まないよ」
「ちょっとくらいなら、いいんだよ」
「ありがとう。おまえは優しい子だ」
俺は手を伸ばして、息子の体を引き寄せた。啓介が俺の顔を見ながら微笑んだ。心の底からほのぼのとしてくる笑顔だった。
池上が遠慮して、車いすを自力で操作して部屋を出ていった。
「お義母さん、啓介がお世話になっています」
俺は義母に声をかけた。
「それは、ちっとも心配しなくていいのよ。啓介はおりこうさんだから、私の手伝いをしてくれて、とても助かるの。それに主人も大喜びよ」
義母が微笑みながら言った。彼女は小柄で、明るい性格をした女性だった。いい年の取りかたをした、見本のようなお祖母ちゃんだ。
「啓介──こんどのことは話したのか?」
俺が聞くと、彼は祖母のほうを見ないようにして、そっとささやいた。
「お祖父ちゃんにはね」
「そう──」
俺は息子の心情を理解した。祖母には心配をかけさせまいと、話していないのだ。実際、俺が脚に傷を負った事情さえも、義母が知っているかどうか、疑問だった。
「でも、お祖父ちゃんには、警察に電話しないようにと念を押した。だって、お父さんが言っていたでしょう」
「ああ、それでよかったんだ。でも、すべて解決した。もう心配することはないよ」
「福井さんも大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。あとでお見舞いに行きなさい。きっと喜ぶと思うよ」
「そうする」
啓介は、なにか気がかりがあるような表情をしていた。
「どうした、啓介。なにかあったのか?」
俺の問いかけに、啓介は首を振った。
「ううん、何でもない。きのうの朝、お祖父ちゃんがいなかったので、心配したの。どこに行ったのかなと思って──だって、お父さんがあれほど、ホテルにいなさいって言っていたのに」
義母が横から説明した。
「ああ、きのうのことね。お祖父ちゃんなら、仕事の用があるって言ってたから、朝早くに出かけたのよ」
その日の夕方、篠田修一郎が病室に見舞いに来た。彼の整った上品な顔は、すこしやつれていた。
「脚の具合はどうだね?」
義父は言葉少なに聞いた。
「元通りとはいかないけど、直るそうです」
「それはよかった──」
「ご心配をおかけしてすみません」
「なに、いいんだ。それに、きみは悪いことをやったわけじゃない」
「──お義父さん、この前の話、覚えていますか?」
「なんだね?」
「お義父さんの会社に来ないかと言う話ですよ」
「ああ、あのことか。考えてくれたか?」
「ええ。啓介のことを考えると、やっぱりお義父さんのおっしゃっているほうが、正解のようです」
篠田の表情が明るくなった。彼は値踏みするように、ベッドに横たわる俺の全身をゆっくりと見た。義母に隠れてやってきた男色関係――彼はそんなことを、思い浮かべているのかもしれない。
篠田は確認するように、俺に訊いた。
「じゃあ、私のところで働いてくれるんだね?」
「お願いします。お役に立てるかどうかは分からないけど、一から出直します」
「きみが来れば大助かりだ。きみにはガッツがあるからね」
喜ぶ義父の顔をじっと見ながら、俺は訊いた。
「お義父さんは、何があったのかご存知なんですね?」
俺の問いかけに、篠田はあいまいに肩をすくめた。
そこで俺は、切り出した。
「梶山は死にました」
篠田の表情は、なんの変化も見せなかった。彼は黙っていた。
「池上警視に聞きました。私たちが船を後にしてから、誰かが彼を銃で撃ったらしい」
「──」
「正直言って、私がこの手で梶山を殺してやりたかった。なにしろあいつは、佳代を殺し、そして太田さんを死に追いやった張本人ですから」
義父は無表情に俺を見ていた。血の気がひいて、いくぶん悲しげだった。
「だけど殺さなかった。あいつは、手足をもがれた毒蜘蛛のように無力でした」
「──」
「問題は、誰があいつを殺したかです」
「──」
俺はゆっくりと言った。
「彼を殺したのは、お義父さんでしょう」
篠田は黙ったまま、しばらく俺の顔を見ていた。
「前の夜、お義父さんは、啓介から事情を聞いたのでしょう?さっきあなたは、私と会っても、事情を聞こうとしなかった──」
「──」
「私が山下埠頭に出かけたのを知っているのは、啓介のほかに、あなただけです」
俺が口を閉じると、部屋の中に沈黙が流れた。
しばらくして、その沈黙に耐えきれないように、篠田が身動きした。
「私は──」
篠田は目を逸らした。「梶山が憎かった。彼とはずっと付き合ってきたが――あいつは、佳代を殺したんだ」
上品な顔が、怒りにゆがんでいた。
「殺す積もりはなかった。でも、床に落ちた拳銃を見たとき、衝動に駆られて――。あいつが許せなかった。私の娘を殺したんだ」
俺は黙っていた。
篠田は、俺の顔を見た。そのとき義父の目に、梶山と同じ冷たいものを見た。
「私が梶山を殺したという証拠なんて、何もない。きみは、私をどうするつもりだね?」
「どうもしません」
俺はきっぱりと言った。「それは、あなた自身の問題ですからね」
そして付け加えた。
「私は、梶山の手下を何人も殺した。悪人とは言え、この世に生を受けた人間を何人も。いくら私が正当防衛だと言っても、人を殺した事実は変わらない」
俺は歪んだ笑みを浮かべた。「お義父さん、人殺しなんて慣れるものですよ。でも私は怖い――人殺しに慣れた自分自身が」