■ 風の新之輔第二部 - 第二部流浪の旅(七)
(七)
永平寺を後にして、新之輔はふたたびあてのない旅を続けた。
越前から加賀の国に入り、その日は金沢藩の城下町に泊まった。さすが、前田家の治める百万石の藩だけに、街並みもきれいに整備されている。
新之輔は旅籠を探し歩いて、町の外れにある小さな宿に泊まった。宿賃が安いだけに、六畳の部屋にほかの相客と泊まることとなった。
あとからやってきた相客は、歳の頃、五十ほどだろうか、旅の商い人のようだが、どことなく品のある風貌をしていた。言葉遣いや態度は飄々として捉えどころがなく、のどかさと穏やかさを漂わせている。
男は新造と名乗った。越中富山の薬売りだと言う。
新之輔は、新造を最初に見たとき、昌造爺を思い浮かべた。人を和ませる顔つきで、背が低く小太りの身体だが、体術の心得があるような身のこなしをしている。
(おだやかな目をしている)
新之輔はかすかなときめきを覚えた。
永平寺では妙窓と束の間の衆道を堪能したばかりだが、やはり心の底にあるのは爺だった。その爺に似た雰囲気を持つ男に、なにか特別のものを感じていた。
新造は夕飯のとき、酒を注文した。
「ささ、お侍さまもお飲みください」
「いや、遠慮しよう」
「あのう、お気遣いでしたら、水臭いですよ」
「いや、そうではない」
新之輔は相手の顔を真っ直ぐに見た。「おぬしは、昔世話になった人に良く似ている。恥を言うようだが、その人とは衆道の仲じゃった」
衆道の風習は、僧侶や武士の世界では浸透していたが、庶民の間ではまだ江戸や京などの大きな町に限られていた。しかし新造は、衆道の知識があるようだった。
「衆道については存じ上げておりますが、それがお酒を飲むことと、どういった関係がおありでございましょう」
「酔うと、つい、そのほうに対してけしからぬ気を起すかも知れない」
「それは困りましたな」
新造はそれと気づかぬよう身体を遠ざけた。「では、手前ひとりで戴くことにしましょう」
そんな新造の姿を、新之輔は多少うらめしそうに見ていたが、ふと思いついて尋ねた。
「おぬし、薬売りなら方々に行っているであろう。熊野宮に行ったことはあるか」
「碓氷峠にある神社ですね。寄ったことはございませんが、そばを通ったことはございます」
「そこに行くには、どのような道を辿ればいい?」
熊野宮は、大平寺の妙窓が話していた神社である。ふと思いついて、妙窓の弟に会ってみようと思ったのだ。
新造はしばらく思案してから言った。
「ならば、まず北陸道を北に、越後の高田まで行きます。そこから北国街道に入って、信濃の国を南に向かいます。そうすれば中仙道に突き当たりますので、中仙道に入ってから碓氷峠の方面に行かれればよろしゅうございます」
そこまで言って、新造はためらったそぶりを見せた。
「――もう秋も深まる季節です。寒さの厳しい地方ですから、雪が降るやもしれません。もし行かれるとしたら、相当の覚悟がお入りでしょう。あのう――熊野宮にはどういったご用件でございましょうか?」
「とくに用はないが、知り合いの話を思い出して行く気になった。拙者はごらんの通りの風来坊だ。風の吹くまま、気の向くまま、ふらりふらりと出歩いておる」
「はは、面白いお方だ」
新造はおっとりと笑った。
翌朝、新之輔が宿を立つと、新造が追いかけてきた。
「手前は富山まで戻るところです。もしお侍さまのご迷惑でなかったら、途中までご一緒させてください」
新之輔はこころよく承諾した。
「ああ、かまわんぞ。ところで、拙者のことは新之輔と呼んでくれ。拙者はもう侍ではない。浪人者だ」
「承知いたしました。では手前も、新造とお呼びください」
ふたりは連れ立って、北陸道を北へと歩いた。
新之輔は馬に荷を乗せて、自分は手綱を引いて歩いていたが、新造は背負子に籐編みの行李を載せて、背負っていた。新之輔が、荷を馬に載せてやる、と声をかけたが、新造は丁重に断った。よほど行李の中身が大切なのだろう。
道中、ふたりの会話はさほど弾まなかったが、新造は一緒にいて気持ちの安らぐ老人だった。五十六歳になると言うが、達者な歩き振りで、新之輔の歩調に合わせていた。
金沢を立って、越中の富山には一日半で着いた。
「では新之輔さま、ここで失礼いたします。道中、お世話になりました」
新造が頭を下げて、富山の町中に消えて行った。
まだ九つ半(午後一時)だったので、新之輔はそのまま富山を通過して、越後へと向かった。
新造と一緒だったのはわずか二日ほどだが、こうしてひとりで旅を続けていると、妙に人恋しさを覚えた。それほど新造の、人を癒す雰囲気に惹かれていたのだろう。
――**――
高田藩の城下町に入り、町外れの茶屋に寄ったときのことだった。
突然、店の中でざわめきが起こり、男の怒声が響き渡った。
「なんじゃ、これは!ハエが入ってるじゃねえか!」
人相の悪い三人の男たちが、いきがっていた。丸に三と背中に染め抜いた揃いの半被(はっぴ)を着ているところを見ると、地回りの勝三組にいる者たちのようだ。
図体の大きな男に険悪な表情でにらみつけられ、店の小娘は怖くて声も出せず、小さく震えている。
ほかの客たちがそそくさと席を立って店を出た。
奥から年配の店主が出てきた。老人は揉み手をして、細々とした声で言った。
「これは権佐さま、どうされましたか」
途端に、大男が怒鳴り声をあげた。
「どうされましたかだとお!おい、親父、お前のところは、客にハエ入りの茶を飲ませようってのか!」
老いた店主は、恐る恐る確かめた。茶碗の中にハエが浮いていた。それもご丁寧に、二匹浮いていた。
「ああっ、これは大変申し訳ございません。すぐお取替えいたします」
老亭主が言ったとたん、大男が茶卓をひっくり返した。茶碗が土間で砕け散って、乾いた音がした。
「なんだとお!おい、亭主。てめえ、商いが分かってんのか」
「はあ、手前はこの商売を、十年近くやっておりますが――」
「だったら話は簡単だ。お取替えだけじゃ済まねえだろうが。なにか色を忘れてねえか」
「――色でございますか」
「分からねえのか。分からねえなら、その老いぼれた身体に、教えてやろうか」
権佐が脅すように、太い腕をまくりあげた。
そのとき背後から、のんびりとした声が聞こえた。
「亭主、すまぬが先にこちらの注文を聞いてくれぬか――」
権佐がゆっくりと振り返った。声の主は旅姿の浪人者だった。自分より背が高いのが気に食わぬが、連れはいないようだ。
数を頼りに、権佐は怒鳴った。
「おい、さんぴん!取り込み中だってのが、分かんねえのか!」
浪人者は平然としていた。
「おぬしの用事は、さほど大事でないだろう。こちらは歩き詰めで、喉が渇いている。で、先に茶を出してもらおうと思ってな」
浪人のずけずけとした物言いに、権佐の顔がみるみる赤らんだ。こめかみに青筋が浮き出てくる。
一緒にいる手下どもは、浪人者をあわれむように見ていた。(仏の権佐を怒らせたら、只じゃ済まないぞ)
知らぬ者は、仏の権佐と聞けば、やさしい性格だと思うだろうが、実はまったくその逆だ。権佐に睨まれた者が何人も仏にされたことから、付けられた渾名だった。
込みあげる怒りを抑えて、権佐は相手をにらんだ。
浪人者はとくに意気込んだ様子もなく、飄々としてこちらを見ている。
権佐はふと、不安を覚えた。(いってえ、こいつの余裕は何なんだ)
そこで、相手に逃げ道を用意してやった。
「てめえ、ふざけてんのか。今だったら勘弁してやる。さっさと失せろ」
ところがあろうことか、背の高い浪人は泰然と微笑んだ。
「そう冷たいことを申すな。どうせそちらはチンピラ。つまらぬ強請りたかりの類いであろうが」
「なにおっ、てめえ!」
思わずカッとなった権佐は、右手を振り上げて殴りかかった。
次の瞬間、権佐の身体が宙を飛んで、店の外に消えていった。
外で遠巻きに見ていた町民たちの前で、肉付きの良い大きな身体が地面で弾み、ゴロゴロと転がって止まった。権佐は白目を剥いて、完全に意識を失っていた。
店にいた他の連中は、何が起きたのか理解できなかった。背の高い浪人の姿がすっと沈んだと思ったら、権佐が宙を吹っ飛んでいったのだ。
まだ呆気にとられている二人のやくざ者に向かって、浪人はのんびりとした声で言った。
「首の骨は折れておらぬと思うが、早く連れ帰って手当てをしてやれ。それとも、お前たちも宙を飛びたいか?」
「ひーっ」
二人の男たちは、あわてて店を飛び出した。
新之輔が店で茶を飲んでいると、聞き慣れた声が聞こえた。
「新之輔さま、先ほどはご活躍でございましたな」
顔を上げると、富山で別れた新造だった。新造は背負子を肩から外すと、横の樽に腰を下ろした。
新之輔は先ほどの一件には触れず、年配の商人に言った。
「その成りを見ると、また薬売りの旅に出るのか。忙しいことだな」
「はあ、貧乏暇なしでございまして。今回は善光寺まで参りますが、その後は新之輔さまと同じ、風の吹くまま気の向くままでございます」
「では、またしばらく一緒に旅ができるな」
「はい、お世話になります」
そのとき、店の娘が、おにぎりを竹の皮に載せて持ってきた。
「あのう、お侍さま。旦那さまが、お礼に召しあがってくださいって」
「おお、これはかたじけない。遠慮なくいただこう」
新之輔が白い歯を見せて屈託なく笑いかけると、娘が頬を染めた。
その様子を見ながら、新造は娘に言った。
「わしもお茶とおにぎりを頼む。もちろんわしは、おにぎりのお代を払うよ」
しばらくして、娘が注文の品を持ってきた。
おにぎりの大きさは、新之輔に差し出したのに比べると、かなり小さかった。
新造はそれに気付いたが、黙って口に運んだ。