■ デッドライン第二部(調査) - (8)
(8)
俺は残っている事務仕事を放り出して、大急ぎで帰宅した。帰りの電車の中では、気が気でなかった。太田のこと、啓介のこと――。
やっとの思いで家に着くと、啓介はまだ帰っていなかった。留守番電話の録音を調べた。俺がかけた以外に二度、電話があったが、名前も告げずに切れていた。
子供部屋に行くと、鞄があった。ということは、啓介は一度家に戻ってきて、外出したのだ。しかし、息子は俺に約束していた――夕方5時以降に外出するときは、メモか電話をすると。そのどちらもなかった。
急に不安になった。とにかく着替えて啓介を探さなければ。俺は急いで自分の寝室に行った。
部屋に入った途端、かすかな異臭を感じた。なにか物の焦げた匂い。
室内灯のスイッチを入れたとき、何かが変だと思った。
部屋内を見渡すと、奇妙なものが目に入った。俺のベッドの上に、なにやら白っぽいものが横たわっている。目の焦点が合ったとたん、身体中の血が逆流した。
ベッドの上にあるのは、太田の体だった。素っ裸で、仰向けになっていた。丸く膨らんだ腹部は、完全に静止して、呼吸をしている兆候はまったくない。
俺は恐る恐るベッドに近づいた。
老人は、カッと目を見開いていた。温厚な顔が、まるで別人のように苦痛にゆがんでいる。叫び声を上げようとしているかのように口を開け、その口にはタオルが巻きついていた。
彼が死んでいるのは明白だった。
俺は震える手で、老人の見開いた目を閉じさせ、さるぐつわを取った。そのとき、口の横に殴られた跡を見つけた。
生気を失って白っぽくなった胸や腹には、傷痕はなかった。下腹部に目をやると、陰毛がチリチリに焦げ、ほとんど残っていなかった。さっき感じた異臭は、体毛を焦がした匂いだったのだ。性器の先端が赤く焼けただれていた。
俺は気分が悪くなった。誰かが老人の体を押さえつけて、ライターかなにかで拷問したのだ。
そのほかには、老人の体に傷は見当たらなかった。胸に手のひらを当てると、かすかに体温が残っていた。と言うことは、老人が絶命して、さほど時間が経っていないということだった。
そのとき見つけた。老人の右手の人差し指と中指が、ありえない方向に曲がっていた。その指は折られていたのだ。
激しい怒りが、俺の身内にこみあげてきた。あいつらは、この無力な老人を押さえつけ、じっくりと時間をかけて痛めつけたのだろう。老人の苦悶の表情からも想像できる。
おそらく梶山は、太田が彼の情報を集めていることを、何かで知ったのだ。そこで男たちに命じて老人を拷問させ、どこまで知っているのか、それを聞き出そうとしたのだろう。
啓介の不在に思いが到り、俺は愕然とした。あいつらは、ひょっとして啓介も。
そのとき、電話が鳴った。俺は即座に受話器を取った。
「遠山か?」
男の声がした。
「ああ、そちらは誰だ?」
「誰でもいい。息子は預かっている」
「なにっ!」
男の言葉に、俺は心臓の止まる思いがした。
「8時にお前を迎えに行く。誰にも話すな」
「啓介は──息子は無事なのだろうな?」
俺は震える手で、受話器を握りしめた。
「息子は無事だ。お前が言った通りにすればな」
「息子を電話に出してくれ」
電話の向こうが沈黙した。その沈黙は、俺には永遠にも感じられた。一瞬、電話を切られたのかと、パニックに陥った。
「もしもし!もしもし!聞いているのかっ!」
「――お父さん!」
不意に、啓介の声が聞こえた。
俺は安堵感から、その場に座りこみそうになった。
「啓介、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。僕のぬいぐるみを持ってきて」
「ぬいぐるみ?」
「ああ、キャンプに行くとき、お父さんがくれたものだよ」
「それよりも啓介──」
そこで男の声が遮った。
「いいか、8時だ。よく聞くんだぞ。コスミックホテルは知ってるな。ホテルの入り口に電話ボックスがある。表通りの歩道上にあるやつだ。8時にそこで待て。それからメモと写真を、忘れずに持って来い。お前の女房が残したものだ」
(なんでそのことを知っているんだ?)
俺は、会話を引き伸ばそうとして言った。
「待て!お前たちは太田さんに何をした!」
電話の向こうが一瞬、沈黙し、男が平板な声で言った。
「そんなことはどうでもいい。息子を助けたかったら、言われた通りにしろ。いいか、警察には電話をするな。そんなことをすれば、すぐに分かるからな!」
唐突に電話が切れた。受話器を置く音もしなかった。おそらく携帯電話だろう。
俺は時計を見た。8時まであと20分。コスミックホテルまで歩いて15分ほど――あるいはそれ以上かかるかもしれない。
大急ぎで服を着替えた。ジーパンと皮ジャンパーを着ると、啓介の部屋に行った。
(キャンプのときのぬいぐるみ?あいつ、何を言ってるんだ。キャンプの時には――)
そこで、電話の声を思いだした。啓介の声は震えていたが、みょうに落ち着いていた。
池上警視に連絡することは、まったく頭に浮かばなかった。相手は警察内の情報に通じている。ひょっとしたら、池上本人が内通者かも知れなかった。
家を出てから走り出した。大通りに出ると、人の流れが多くなった。振り返って俺を見る通行人もいた。なにしろ大の男が熊のぬいぐるみを抱えて、血相変えて走っているのだ。まあ、クリスマスも近いこの時期だ、子供のプレゼントを買った中年パパと見られなくもない。
ときおり腕時計を見た。だいぶ時間が節約できた。ホテルが見えてきたとき、歩いて呼吸を整えた。
指定された電話ボックスに到着したときは、5分前だった。
俺は電話ボックスの前に立って、車の行き交う通りを見張っていた。それらしい車は来ない。腕時計を見ながらじりじりした。
8時ジャスト。
突然、背後の電話が鳴り出した。ギョッとした。
振り返ると、電話ボックスには誰もいない。呼び出し音は鳴りつづけている。すこし迷って、ボックスの中に入った。
「――もしもし」
「遠山か?」
家に電話してきた男の声だった。俺が返事をすると、男は簡潔に話し出した。
「これからコスミックホテルに入るんだ。ロビーの右手にエスカレーターがある。それに乗って2階のトイレに行け。2階にあがったすぐ右奥の廊下だ。いいか、走ってくるんだぞ」
「おい、待て!なんでこんな面倒なことをするんだ」
「無駄口をたたくな。遅れればそれまでだ。走れっ!」
(クソッ、何てことだ)
俺は走り出した。ホテルは外も内も、クリスマスのイルミネーションが施されて、賑々しく飾られていた。
息せき切ってロビーに入ると、右奥にエスカレーターが見えた。そちら目掛けて走りつづけた。ホテルマンが驚いたように俺を見ていた。そんなことにかまってはおれない。エスカレーターを駆け上った。右奥の廊下――トイレの表示が目に入った。
トイレに入ろうとしたときだった。
「遠山、こっちだ!」
男の声がした。サングラスの男が、廊下の奥に立っていた。声でわかった。前に俺の家に来たキツネ目の男だ。
男は俺をうながしながら、小走りで廊下の先に向かった。途中で鉄のドアを開けた。階段室だった。そのまま歩調をゆるめず、下に向かった。キツネ目は一言も口を利かなかった。
ようやく下にたどり着いた。地下1階の駐車場だ。
「こっちだ」
キツネ目が言った。
例の黒塗りのランドクルーザーが駐車していた。ごつい顎をした男が運転席にいた。これも俺の家に来た片割れだ。
キツネ目は俺をうしろの座席に押しこむと、自分もその横に座った。
すかさず車が発進した。
車がホテルから出ると、キツネ目は俺の身体検査を徹底的にやりだした。俺が持っている熊のぬいぐるみについては、何も言わなかった。
尻や股間をしつこく調べられた。俺が怒りに顔を赤らめてにらむと、キツネ目がきまり悪そうに顔をそむけた。
車は高速湾岸線に入って、ベイブリッジ方面に向かって走った。
キツネ目の男は、ときどき後ろを振り返って、後続車を観察していた。
車はブリッジを渡ったあと次のインターで降り、しばらく下の道路を走って、こんどは逆の方向の高速に入った。
そのころには、彼らのルールが分かってきた。尾行車があるか、確認しているのだ。
こんなことなら、しばらくは目的地につかないだろう。俺はそう予想すると、座席に深々と背中をあずけた。
これから起こることに、緊張と不安を覚えていたが、同時に、梶山に対する怒りに燃えていた。この前のことは脅しだけかと思っていたが、彼らは実際に行動を起こしたのだ。
太田を拷問して殺し、啓介を誘拐した。
(畜生、啓介の身になにかあったら──)
俺は思わず拳を握りしめた。
車はバイパスを抜け、横浜インターチェンジで東名高速道路に入った。そのまま下り車線を走りつづけた。高速道路はあいかわらず車が多かったが、流れはスムーズだった。
俺は体力を温存しながら、やがて来る梶山との対決を思って武者震いした。