■ デッドライン第二部(調査) - (3)
(3)
翌朝、ランニングを終えたあと、佳代の残したメモや写真のこと、そして臼井妙子や梶山のことを、池上警視に話そうかと思った。今や佳代が殺された可能性のほうが強かった。
しかし、何かが俺を思いとどまらせた。ひょっとして佳代が、栗田の横領事件に関係しているのではないか。もしそうなら、死んだ彼女のことはそっとしておきたかった。
結局、もう少し梶山のことを調べてみることにした。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
引退医師の太田だった。
俺は老人の出現に、内心うんざりしたが、葬式の時、世話になったこともあって、笑顔で彼を迎え入れた。太田は、いつになく明るい俺を見て、ちょっと戸惑ったようだ。彼は慎重な口ぶりで切り出した。
「ちょっと通りがかったので――お邪魔だったかな」
「とんでもない。さあ、先生、上がってください」
「ああ。ところでどうした?――顔が強張っているぞ」
「引き締まったと言って欲しいですね。最近、ランニングをしているんだ」
俺は老人のために、お茶の用意をした。
太田はでっぷりと太った身体をソファーに沈め、キッチンで湯を沸かす俺を、面白そうに眺めていた。
「炊事姿がすっかり板についてきたな。まあ、人間、必要あれば順応するものだ」
居間から聞こえる太田の声を聞き流して、昨日、啓介が食べたカステラの残りを棚から取り出し、慎重な手つきで切り分けた。カステラは、太田の大好物だった。
「会社は辞めたのか?」
老人の声がした。
「辞めちゃあいないよ。休暇を取っているんだ」
「休暇?もう3週間になるぞ」
「ああ、一ヶ月間、休むことにした」
「一ヶ月も。そんな必要があるのか。お前さんは見たところ、だいぶ立ち直っているようだが」
「そんなでもない。俺は気持ちを、表に出さないほうだから」
「それを言うなら、鉄面皮というのだろうが」
「けっ、それは先生の認識不足だぜ。ところで先生、今日はなんの用だい」
相変わらずおしゃべりな老人に、俺はあきらめて相手をすることにした。ところが老人の声は、返ってこなかった。
不審に思って振り返ると、老人はテーブルの上に置きっぱなしの書類を手にとって、熱心に読んでいた。佳代の残した手紙、メモや写真――それに、俺が思いつくままに、疑問をメモにしたものだ。
「先生、他人のものを勝手に見るな!」
俺はあわてて駆け寄ると、老人の手から紙切れをひったくった。しかし、後の祭りだった。太田は興味津々の顔をして、俺を見上げた。
「心中に見せかけた殺人?12億円を横領?恐喝?──それに梶山の女、臼井妙子って何のことだ?」
太田は、立て続けにしゃべった。
「先生には関係のないことだよ」
頭の中は、どうやって言い逃れしようかとめまぐるしく回転していた。俺は思いつくまま口に出した。
「分かった、白状するよ。ただし先生、笑うんじゃないぞ。実は前から、推理小説を書きたいと思っていたんだ。このメモは、思いついた時に書きとめたものだ」
「ハハハ──」
太田は、面白くもなさそうに笑った。そこで、俺の顔をジロリと見た。「底の浅いウソをつきおって。お前が小説を書くのなら、わしはピアニストになっているわ。さあ本当のことを話せ」
俺は内心、舌打ちしたが、表情を変えずに言った。
「先生、何を言っているんだ?それに、何でそんな陰謀小説じみた話を、真に受けるんだよ?」
老人は俺の顔をじっと見た。
「一週間前だったか、警官が二人、わしのところにやって来て、お前のことを根掘り葉掘り聞いたからだよ」
俺は、太田老人の言葉に衝撃を受けた。
では警察は、自殺よりも他殺だと決めたのだ。それも、どうやら俺自身が、第一の容疑者になっているようだ。
ふと、山下埠頭に行った時の、池上警視との会話を思い浮かべた。
(佳代がこんな寂しいところを、死に場所に選ぶはずがない。私は女房の性格をよく知っていますからね)
(そんなことを言っていいのですか?他殺だなんて)
(どうしてです?)
(だって、二人が殺されたとなると、あなただって犯人の可能性がでてくる)
俺は上の空で、老人に聞いた。
「警察は──どんなことを質問していました?」
「いろんなことだ。夫婦仲やお前の性格、交友関係などだ。もっとも、わしはお前のことをたいして知らないので、怪我をした脚の状態くらいしか話せなかった」
そこで彼は、腰に手を当てて、大きく伸びをした。
「お茶はどうした?冷めちまうぞ。話はあとだ。お茶を出してくれ」
結局、俺は知っていることを話した。
あとで考えれば悔やまれることだったが、そのときは、どうせ老人に話しても、たいしたことではないと思っていた。それに、話すことによって、俺自身の頭の整理ができるとも思ったからだ。
池上警視との会話。佳代が死んだあと届いた、彼女からの手紙。絵画の裏で見つけた佳代の残したメモと写真。その写真の女を偶然見かけ、後をつけたこと。メモにあった梶山という男の素性。クラブ『オーガスタ』のママ、臼井妙子との会話。
そして、飛躍しすぎた話だが、自分の推理したことを話した。
太田は大股開きにソファーにふんぞり返って、俺の話を聞いていた。ときどき質問を挟み、すっかりいっぱしの探偵気分になっていた。
俺の話が終わると、老人はフッとため息を吐いた。
「とても信じられないような話だが、お前の言っていることは、あながち荒唐無稽なことでもない。しかし事実だとすると、大変なことだぞ。これからどうするつもりだ?」
「しばらく一人で調べてみるつもりです」
「しかし、お前の推理が正しければ、これは凶悪な殺人事件だ。いつお前自身が、危険に巻き込まれるか、分かったものじゃない」
「もう巻き込まれていますよ。臼井妙子にも会いましたからね。彼女がワルなら、もう敵方に俺の動きが知られているはずだ。でも俺は、死んだ女房に誓ったんだ。女房の抱えていた問題を、解決してやるってね」
太田はしばらく俺の顔を見つめていた。それからおもむろに口を開いた。
「お前がやると言うのなら、わしは止めない。それで、わしは何を手伝ったらいい?」
俺はびっくりして、老人の顔を見た。
「先生はじっとしていてくれ。お年寄りには危険過ぎる。そうだな──分かったことは先生に話すから、俺にアドバイスしてくれ」
「年寄りだと思って、わしを馬鹿にしおって。いいか、こう見えても、横浜地区の医師会の会長をやっていたんだ。わしだって情報網を持っている。よし、わしは梶山の背後関係を調べてみよう」
太田はかってに自分の役割を決め込んで、満足そうにうなずいた。
「余計なことをするな!」
俺は思わず怒鳴った。そこで丁寧に言い直した。
「危険過ぎる。先生は何もしないでください」
太田は腹を揺すらせて、せせら笑った。
「わしの身を心配してくれて、ありがとうよ。お前でも、年寄りを敬う気持ちがあるんだ。――まあいい、これからも調査の進捗状況は、ちゃんとわしに報告するんだぞ」
太田は命令口調で言うと、よっこらしょ、と太った体を起こした。どうも老人の様子を見ていると、俺の忠告を真に受けていないようすだった。
彼は立ち上がると大きく伸びをし、俺に向かって、いたずらっぽく笑った。
「最近、体の調子がいいみたいだな。ランニングのお陰か」
俺の腹部を突つきながら、真顔になった。「いいか、気をつけて行動しろ。それから、何かあったら、すぐわしに連絡するんだぞ」
梶山のことを調べる必要はなかった。次の日、先方のほうから接触してきたのだ。
啓介が学校に出かける姿を窓から見ていると、二人の男が門のところですれ違った。男たちはちらりと啓介を見て、それからまっすぐ玄関口に向かってきた。
彼らは、いかにもその筋の人間と思えるような、いきがった人相風体をしていた。ひとりは中肉中背、顎も肩も腰回りもがっしりとした、いかつい体格をしている。もう一方は中背痩せぎすで、キツネのような細い目をしていた。
俺は思い出した。いかつい体格のほうは、クラブで臼井妙子と別れたとき、部屋の外にいた男だ。
「会長がお前に会いたいそうだ。来てくれ」
玄関に出た俺に向かって、キツネ目の男が横柄に言った。鼻にかかったキンキン声で、目つきがねちっこかった。俺がもっとも毛嫌いするタイプだ。
「会長って、どこの会長だ?」
検討はついていたが、俺は男に聞いた。
キツネ目が、不機嫌そうに言った。
「どこの会長だっていいだろうが」
「お袋の遺言で、知らない人間にはついていくな、と言われているんだ。どこの会長か分からなければ、俺はどこにも行かない」
いかつい体格をした男が、威嚇するように前に出た。キツネ目がそれを押し止めて言った。
「梶山会長だ」
(やはりな──)
俺は覚悟を決めた。
(まさか朝っぱらから人を連れ去って、殺すようなことはしないだろう。ここはひとつ、その梶山とやらに会ってみるか)
俺は男たちに、ついていくことにした。