■ デッドライン第二部(調査) - (1)
(1)
次の日からランニングを始めた。
朝6時に起きて、家から外人墓地まで往復40分かけて走り、夜も同じコースを走った。冬が近づいて、冷気に右膝の古傷がうずいたが、かまわずに走りつづけた。
息子の啓介は最初のうち、そんな俺を、3日と続かないと言って冷たい目で見ていたが、トレーニングが1週間続いたころ、少し考えを変えたようだ。
その証拠に、自分からすすんで食事準備の手伝いをしだし、部屋の掃除や洗濯もするようになった。
しかし、4年間の堕落した生活の蓄積は、そう簡単には解消できなかった。腕立て伏せや腹筋運動では、いやというほどそれを思い知らされた。現役時代に出来たことの半分もできなかった。それに、走っていてもすぐに息切れがした。
それでもトレーニングを続けることで、体調がじょじょに良くなってきたのも事実だ。
俺は会社に対して、一ヶ月間の長期休暇を申請した。上司は不満そうだったが、俺の家族に起こった不幸を考慮して、結局はしぶしぶと許可を下ろしてくれた。
日中は、佳代が絵の裏に隠していた写真を持って、栗田の働いていた浜銀行を中心に、街中を歩きまわった。
ひょっとして、写真の女に出くわすかも知れないと思ったからだ。今や写真を見なくても、女の容姿は脳裏に焼きついていた。
一方の梶山という人物は、探しようがなかった。市内の電話帳だけでも、梶山という姓は何十人といる。それに梶山が男なのか女なのか、それさえも分からない。
もう一度、金庫の中や箪笥を徹底的に調べたが、佳代の残した手がかりは見つからなかった。
俺は、メモと写真のことを池上警視に話して、協力を求めようかとも考えたが、迷った末に思いとどまった。一般人がにわか探偵のようなことをやるのを、警察が黙って見逃すはずがない。
その後、池上は相棒を伴って2度ほど俺の家に来たが、たいした会話はなかった。栗田の横領に関係する質問と、二人の死にかかわる俺自身の疑惑をうかがうような質問だった。
池上の話しぶりでは、横領事件の糸口は、たいして進展していないようだ。俺は、佳代が隠していたメモや写真、それに彼女が俺あてに出していた手紙のことは、いっさい口にしなかった。俺の心境は、おそらく池上に対する反発心のほうが強かったのだろう。
ある日偶然のことに、写真の女を見つけた。
昼下がりの中華街を歩いているときだった。その女は中華飯店から出てきた。遠目にも、写真の女だとすぐに分かった。今は淡いピンクのワンピースを着ている。恰幅のいい年配の男が一緒だった。
女は身長170センチくらい、連れの男より背が高かった。ほっそりとしたウエストが、バストとヒップの豊かな膨らみを引き立たせていた。思わず見とれてしまうほどの、素晴らしいプロポーションだ。
男のほうは、高価そうなダークスーツを着て、年の頃、60代、短く整髪した髪は白いものが目立った。人に命令することに慣れきった、尊大な顔と態度だ。
俺は、二人のあとをつけだした。
二人は大通りに出ると、待たせていた黒塗りのベンツに乗り込んだ。俺はあわてて、通りかかったタクシーを停めた。タクシーに乗り込むと、運転手にベンツのあとについて走るよう指示した。
ベンツは横浜スタジアムの近くにある、こぢんまりとしたマンションの前で停まった。赤いレンガタイル張りの、いかにも高級そうなマンションだ。
俺は意識してゆっくりとした動作で、車の料金を払いながら、二人がマンションの中に入っていくのを横目で見ていた。
タクシーが走り去ると、ぶらぶらとマンションの玄関口に向かった。ガラスドア越しに、二人がエレベーターに乗り込むのが見えた。
玄関ドアはオートロックが掛かって、閉まっていた。しばらく玄関の前で、人を待っている風情でうろついた。俺のところから、エレベーターの表示灯が上に向かって点滅するのが見えた。見ているあいだに最上階のランプが点灯し、そして動かなくなった。
俺は引き返した。二人の乗ってきたベンツは、まだ車寄せにあった。運転席にごつい体格をした男が乗っていた。二人きりになるのは絶対遠慮したいような、いかつい人相をしている。運転手がいるということは、二人はまたマンションから戻ってくるということだろう。
俺はベンツから見えないところまで歩くと、空いた電話ボックスに入った。車が必要だった。福井に聞いた個人タクシーの電話番号を押すと、すぐに福井が電話に出た。幸いにも彼は空車中だった。
俺は所在地を告げて、すぐに来るように伝えた。
福井のタクシーは十五分後に来た。その間、マンションに入った二人は、まだ出てこなかった。
用件を伝えると、福井は難色をしめした。彼は理由を聞きたがったが、俺は話すのを拒否した。それでも福井はしぶしぶと、俺の言うとおりに従った。
マンションの玄関が見通せる場所に車を停めて、俺たちは辛抱強く待った。男と女はなかなか出てこなかった。そのうち福井がじれて、これじゃあ商売あがったりだ、とこぼしだした。そこで、待ちメーターに切りかえろと言ったが、彼はメーターを下ろさなかった。
一時間が過ぎた頃、年配の男がひとりでマンションから出てきた。すぐにベンツの運転手が車から出て、男のためにドアを開けた。
俺は迷ったが、結局、男のほうを追跡することにした。状況から推測すれば、男が二号の家でよろしくやって、それから家にでも帰るのだろう。おそらくこのマンションは、女の住まいだ。
福井がタクシーを発進させて、男の乗るベンツの後を追いかけだした。ベンツは海岸通りに出て、5階建てのビルの前で停まった。あたりは海に近く、建築物の少ない寒々とした風景だ。
車の中から見ていると、年配の男がビルの中に入っていった。ゴリラのようにいかつい体格をした運転手も、一緒に入ったところをみると、男の最終目的地らしい。
俺は福井に言って、ゆっくりとそのビルの前を走らせた。入り口に『梶山商事』と金色の貼り文字があった。
頭の中で警鐘が鳴った。梶山――佳代のメモにあった名前だ。それを確かめると、ふたたび女のマンションに戻るように、福井に指示した。
それまで黙って運転していた福井が、文句を言い出した。――何をやっているのか理由を話さないかぎり、これ以上は運転しない、と。
彼は頑固にも、道の端に車を停めて、俺の説明を待った。仕方なく、さわりの部分だけを話すことにした。
「女房のことで関係があるかも知れないんだ。さっきの男とマンションの最上階に住んでいる女。二人の素性が知りたい」
「亡くなられた奥さんと関係があるって──何のことですか?」
福井が質問した。俺は逡巡した。
「ちょっと気になることがあって――たいしたことでは無いかも知れないが」
「悪いことですか?」
福井は、車を発進させながら言った。
「いや──ひょっとしたら、女房が借金をしていたのではないかと思って」
福井はうさんくさそうに、俺の顔をちらりと見た。
「奥さんが梶山に借金?」
「なんだって!」
俺はびっくりした。福井はさらりと言ってのけた。
「梶山――あなたがさっき追いかけていた、男ですよ。たしか、いまは梶山商事の会長だ」
俺は呆然として、福井の横顔を見た。
「福井さん、知っていたのか──さっきの男を?」
「ああ、彼は市会議員をやっているからね。このへんでは名士ですよ。もっとも、うさんくさい噂が多いけど」
「なんで早く教えてくれなかったんだ」
「あなたが聞かなかったからですよ」
福井は、何を言ってるんだ、こいつは、という顔で俺を見た。
「オーケイ。それじゃあ、女のほうの素性を教えてくれ」
今度は、バカかこいつは、といった表情をして、俺の顔をちらりと見た。
「私は女の顔を見ていない。分かる訳ないでしょう」
そのあと俺は、車がマンションに着くまで考え込んだ。
マンションの前に来たときも、まだ考えていた。
(どうやったら、女の名前を調べることが出来るだろうか)
福井は俺の様子を見ていたが、そのうちおもむろに訊いた。
「何をしているんですか?」
「見たら分かるだろう。考えているんだ。どうやったら、女の名前を調べられるかと」
ふたたび福井が聞いてきた。
「女が何号室に住んでいるか分かりますか?」
「部屋は分からないけど、最上階だ」
それを聞くと、福井は「案ずるより産むが易し」と言って、車から出た。
あっけにとられた俺の見ている前で、福井はマンションのほうに歩いていった。
彼はドアのわきのインターフォンに、指を伸ばした。ついでインターフォンに向かって、一言二言しゃべっている。
ほどなく管理人らしい年配の男が、ドアのところにやってきた。それを見て、俺はあわてて座席に体を沈めた。
シートにうずくまって、福井の戻ってくるのを待った。
(あのバカ、なにをやる積もりだ)
俺は気が気ではなかった。
恐る恐る顔を上げて、車の窓からマンションのほうをのぞき見た。福井は管理人となにやら親しげに話をしている。
ほどなく管理人に別れを告げ、車のほうに戻ってきた。
福井は車に乗り込むと、あっさりと言った。
「女の名前は臼井妙子。伊勢崎町にある『オーガスタ』という、高級クラブのママです」
俺はふたたび仰天した。
「そんなこと──どうして分かったんだ?」
福井はこともなげに言った。
「管理人が教えてくれました」
「でも──どうして?」
「このマンションの最上階に住んでいる井上さんから、車の予約が入ったのだが、と言ったのです」
「井上さん?」
「口から出任せですよ。管理人が、そんな人はいないと言ったので、念のために最上階に住んでいる人の名前を聞きました。最上階にはひとつしか部屋がないので簡単でした。管理人はすっかり話してくれましたよ。よっぽど退屈していたんでしょうね」
俺は呆気にとられて、小柄な老運転手の顔を見た。
「福井さん──あんた、かわいらしい顔をして、相当のワルだな」
福井は、憤慨したように言った。
「ワル?何を言うんです。知恵が働くと言ってもらいたいですね」
そこで彼は、俺の顔をまじまじと見た。「遠山さん、いったい何をやろうとしているのです?だいたい借金の話なんて、はなから信じていませんよ。梶山は、強欲で通った男ですからね。彼が人に金を貸すわけがない。さあ、本当のことを話してくださいよ」
最初に言った話をつづけるのは無理があると思ったが、俺は強引に押し通した。
「俺が借金したわけじゃないから、梶山がどんな男か知らないよ。しかし、女房があいつに借金したのは確かだ」
福井はまだ何か言いたそうだったが、あきらめたように肩をすくめた。
「わかりました。そういうことにしておきましょう」
「なんだか投げやりな言い方だな。じゃあ後は、俺の家まで送ってくれる?」
家に着くと、俺は福井の艶やかな唇を見ながら言った。
「福井さん、ちょっと楽しむ時間ぐらいはあるだろう?」
福井は怪訝な顔つきをしたが、すぐ俺の意図に気付いて頬を赤らめた。
「駄目ですよ、仕事があるのだから」
そう言いながらも、彼の瞳は少し潤んでいた。この前の晩、老人を家に泊めたとき、尺八をするのが好きなことに気づいていた。
俺は強引に福井を家に連れ込み、2階の寝室で束の間の快楽にふけった。
滑らかな温もり――老人の小さな口と器用な舌に弄ばれて、眠っていた性欲が蘇ってくるのを感じた。
いよいよこれから老人を裸にして、じっくりと楽しもうとした時、福井が身を引いて冷静に言った。
「そろそろ啓介ちゃんが、学校から帰ってくる頃でしょう?それに、私は仕事に戻らなくちゃあ」
俺は中途半端な状態のまま、小柄な老運転手が身繕いを整えて、部屋を出ていくのを見送っていた。