■ デッドライン第一部(過去の幻影) - (9)
(9)
目を覚ますと、福井の姿はベッドになかった。
体をかばって、恐る恐るベッドから抜け出た。暴行されたあとの痛みは、刺すような痛みから鈍痛に変わっていた。
バスルームに行き、顔を洗った。鏡の向こうで、目の落ちくぼんだ青白い顔が、こちらを見ていた。昨夜の暴行の跡は、顔には残っていない。しかし、あいかわらず凶悪犯の顔だ。
血色をよくしようと、両手で顔をごしごしとこすった。それから髭を剃った。
階下におりると、福井が鼻歌まじりに調理台のところにいた。その横には啓介がいる。
二人の背丈はほとんど同じだった。啓介は福井を手伝って、かいがいしく働いている。息子のそんな姿を見るのは久しぶりだった。
啓介が俺の姿に気づいて、肘で福井の脇腹をつついた。
福井が振り返って、微笑みかけた。
「ああ、やっとご主人さまのお目覚めだ」
彼は器用な手つきで、目玉焼きをフライパンから皿に移した。
「啓介ちゃん、トーストは焼けたかい?」
「オーケイだよ、お爺ちゃん」
「小父さん。さっきも言ったように、お爺ちゃんではなくて、小父さん」
福井が訂正した。啓介は肩をすぼめて、いたずらっぽく舌を出した。いつになく陽気な息子を見て、ふと昔を思い出した。
朝食の用意ができて、俺たちは食卓についた。啓介は福井の横の席に着いていた。昨夜遅くまで起きていたのに、福井の顔は疲れたところはみじんもなく、乳白色に輝いていた。その艶やかな顔を見て、昨夜の行為を思い出した。
(俺は最後までいったのだろうか)
「料理がうまいんだな、福井さん」
俺はコーヒーを飲みながら言った。
「10年間もひとりでいれば、うまくなるよ。あなただって、すぐに料理ができるようになります」
「小父さん、駄目だよ。パパは家事のことは、からっきし出来ないんだから」
「啓介。自分の父親をバカにする言い方はやめろ」
「事実だから仕方がないよ。パパ、コーヒーばかり飲んでいないで、トーストも食べたら」
「パパと呼ぶのはよせ」
俺はブスッとして言った。啓介は、俺がパパと呼ばれるのを嫌っていることを知っていて、わざとそう呼んでいるのだ。
福井は啓介と顔を見合わせ、親しげに微笑んだ。二人が仲良く並んで食事をしている姿を見て、俺は嫉妬に近い感情を覚えた。
啓介が学校に出かけた後、福井としばらく話をした。
「啓介はすっかりあんたに、なついたようだな」
「かわいらしいお子さんだ。それにしっかりしている」
「前はもっと素直だった。嫌みも言わないで──」
福井は、ちらっと俺の顔を見た。
「昨夜はあまり眠れなかったようですね。うなされていましたよ」
昨夜、俺と男色行為をしたことで、福井はすっかり打ち解けたようだ。
「と言うことは、福井さんも眠れなかったってことか」
「そんなでもないですよ。長年身に染みついた習性で、私は短時間でも熟睡できるほうですから。たまたま、あなたのうなされ声で、目が覚めただけです」
「それは悪かった」
そこで思いついて、俺は言った。「帰るときに、山下埠頭まで乗っけてくれないか」
「山下埠頭──いいですよ」
福井は理由も聞かずに、あっさりとうなずいた。
福井の車が走り去ったあと、俺はひとりでコンクリートの埠頭を歩いた。
人の姿はまばらだった。それに殺風景なところだった。あるのはコンクリートの地面と、スレート葺きの倉庫だけ。
(本当に佳代は、こんなところで死んだのだろうか?)
どうしても、現実のこととは思えなかった。
その時、埠頭の先端の方向から、見慣れた二人組が歩いてくるのに気づいた。
池上たちだった。彼らは時折立ち止まって、倉庫街や突堤を観察するように見ていた。
池上が俺に気づいて、ちょっと驚いた表情を見せ、こちらに向かって手を上げた。彼は近づいてくると、例の人を安心させるような笑顔で、俺に話しかけた。
「こちらに来られていたのですか?どおりでお宅に電話しても、誰も出ないはずだ」
「私にご用だったのですか?」
「いやなに、つまらないことですが、ちょっとあなたにお聞きしようと思って」
「またですか?」
俺はやれやれというように言った。「つまらないことなら、聞かなくてもいいでしょう」
「まいったな」
池上は頭を掻いた。「相変わらず、あなたは手厳しい」
「テレビドラマの調子でやられるのが、嫌いなのですよ」
池上は、怪訝そうにこちらを見た。
俺はその疑問に答えてやった。
「トボケと穏やかさを滲ませた会話。そのうち相手がボロを出す。そして徐々に相手を追いつめていく。よくあるパターンの刑事ドラマですよ」
とたんに池上が、声を出して笑いだした。
しかし俺は、彼の目が笑っていないのに気づいていた。
「まいったな。あなたには、全てがお見通しってわけですね」
そこで池上は真顔になった。「あなたは頭がいい人だ。いまのところ、全くボロを出していない」
「それで──私の容疑はなんですか?12億円横領事件の陰の黒幕?」
「それは思いもつかなかった」
池上は、俺の顔をまじまじと見た。「ほんとにあなたは、黒幕なのですか?」
俺はブスッとして言った。
「あなたが警官でなければ、ぶん殴ってやるところだ」
池上が、わざとらしく後ろに下がった。
「あなたが先に言ったのですよ。ところで、ここには何の用で来られたのですか?」
「単なる散歩です」
「散歩ねえ――」
池上は疑わしそうに言った。「前にも深夜に、公園のほうを散歩していましたね」
「それがどうしたのですか?」
俺はムッとした。そこで思い直して、白状した。
「正直に言うと、女房の死んだ場所を見ておこうと思ったのです」
「場所は知っていますか?」
「このへんの倉庫の中でしょう?新聞に書いてあった」
「じゃあ、ご案内しましょう。この先に行ったところです」
池上は先に立って、もと来た方向に歩き出した。
倉庫の扉には、鍵がかかっていなかった。若いほうの刑事、大木が巨大な扉を引き開けた。中は薄暗かった。殺風景で、コンクリートの床に高い天井、虚ろな空間に、蛍光灯が冷たい光を投げかけている。隅には梱包された箱が、うず高く積まれていた。
池上は倉庫の奥にいくと、棚状に組まれた鉄骨の枠組みのところで立ち止まった。そして鉄骨梁を見上げながら言った。
「ここが奥さんたちの亡くなられたところです。あの梁にロープを吊るして――」
俺は努めて冷静に、現場を観察した。しかしどうしても、佳代の死にゆく姿は想像できなかった。あんなに勝ち気で生活力に溢れていた佳代が、こんな陰気で寂しいところを死に場所に選ぶなんて、どうしても考えられなかった。
池上は俺の表情をじっと観察していたが、そのうち俺を促して、壁ぎわの鉄骨階段をのぼりだした。上は中二階の事務所になっていて、ガラス窓から倉庫が一望できた。
「ここで奥さんと栗田は、最後のひとときを過ごした」
池上が、隅のソファーを指して言った。彼が栗田を呼び捨てにしたことで、俺は、栗田が犯罪者だということに、改めて思いがいたった。
「どうしてそんなことが分かるのですか?」
俺は訊いた。
「ソファーに痕跡があったのです。栗田の精液が──奥さんの体内にも残っていた」
ふいに、佳代と栗田の絡み合う姿が目に浮かんで、怒りが込み上げてきた。俺は池上の顔をにらみつけた。
「女房の遺体が戻ってくるまでに二日かかったが──あなたがたは、そんなことを調べていたのですか?」
池上はうつむいた。彼は申し訳なさそうに言った。
「手続き上、仕方がなかったのです。異常な死にかたをした場合、必ず検死することになっているのです」
俺は追求した。
「死んだ女房の体をいじりまわされるなんて、いい気がしませんね。どうして私に黙っていたのです?」
池上はなにか迷っているみたいだった。彼は独言のように、つぶやいた。
「奥さんは、殺されたかも知れないのです」
「えっ!」
俺は聞き間違えたかと思った。
「今、何と言いました?佳代が殺されたかも知れないって?」
池上は、首を縦に振った。
「可能性のひとつです」
「でも、そう思うからには、何らかの根拠があるのでしょう?」
俺の質問に、池上は今度もうなずいた。
「ええ。あなたは頭のいい方だ。これから私が話すことはオフレコですよ。こんなことを、外部の人間に話したということがばれたら、私はクビになってしまう」
彼はそう前置きすると、話しだした。
「二人の手首に、縛られたような擦り傷があったのです。それに、栗田の腹に、殴られた痣があった」
俺はハッとした。
「でも、栗田さんの腹の痣は、私が殴ったからですよ」
池上は、おやっというように俺を見た。
「いつ?それに、なぜ殴ったのです?」
俺は詳細を省いて、二人の浮気の現場を見つけた夜のことを話した。それを聞き終わると、池上はあっさりと言った。
「だったら栗田の腹の痣は、あなたの殴った跡じゃない。あの痣は新しかった。一週間以上も経ったものではない」
「じゃあ、二人は本当に──」
「勘違いしないでください」
池上は俺の言葉を遮った。「あくまで可能性のひとつです。そんな痣は、なんの証拠にもならない」
俺は食い下がった。
「でも、佳代がこんな寂しいところを、死に場所に選ぶはずがない。私は女房の性格をよく知っていますからね」
池上はあいまいに肩をすくめた。そして、俺の顔を見ながら、面白そうに言った。
「そんなことを言っていいのですか?他殺だなんて」
「どうしてです?」
「だって、二人が殺されたとなると、あなただって犯人の可能性がでてくる」
「──」
「あなたはさっき言ったでしょう?二人の不倫の現場を見つけて、栗田を殴ったって。夫が女房の浮気を嫉妬して殺人を犯す事件は、これまでもありましたからね」
俺はカッとなって、相手を殴りつけようかと思った。その衝動をかろうじて押さえつけ、握りしめた拳を前につき出した。そして押し殺した声で言った。
「警視さん、侮辱した警官をこっぴどく殴れば、私は暴行罪でしょっぴかれるのですか」
池上はガードするように両手を挙げて、一歩下がった。
「あなたを侮辱したのなら謝ります。しかし私は、捜査上の可能性のひとつを言っただけですよ」
俺はそれ以上、池上の暴言を追及しなかった。冷静に考えれば複雑な心境だった。もしも佳代が殺されたとすれば、たしかに俺にも動機がある。
――浮気に嫉妬しての殺人。疑われても仕方のない情況だ。しかし俺の性格からすれば、ひとつだけ自信を持って言えることがある。嫉妬のあまり栗田を殺したとしても、佳代に対しては、決して手を上げないということだ。
池上は別れ際に、また家に寄らせてもらうことがあると言ったが、俺は返事もせずに立ち去った。