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デッドライン第一部(過去の幻影) - (8)
(8)

家の中はシンと静まり返っていた。俺は福井に支えられて、2階への階段をあがった。
寝室に行く途中、息子の部屋のドアをそっと開けて、中をのぞき見た。啓介はぐっすりと眠っていた。
寝室に入ってベッドの端に腰掛けると、福井にリビングのサイドボードから、ウイスキーを持ってくるように頼んだ。
「やめたほうがいいですよ。傷に悪い」
「飲んで麻痺させるんだ。あんたも付き合えよ」
「私はもう帰ります」
「いいじゃないか。すこし話がしたいんだ」
福井はじっと俺の顔を見ていたが、そのうち部屋を出ていった。

しばらくして、ウイスキーのボトルと氷の入ったバケツ、それにグラスをふたつ持って戻ってきた。彼は黙ってグラスにウイスキーと氷を入れて、俺に手渡した。
俺は福井に向かってグラスを捧げると、一息にあおった。冷たい液体が喉に心地よかった。ついで胃の腑が燃えあがった。
福井は突っ立ったまま、自分のグラスに口をつけながら、もの珍しそうに室内を見渡した。
「いいお家ですね」
「ああ、ここに住んで12年になる」
俺は、佳代の使っていたベッドを指し示した。
「そこに腰掛けろよ」
ベッドは上蒲団が取り除かれていた。マットを包むシーツも取り替えられていた。そこにはもはや、佳代の温もりは何も残っていなかった。
俺は手を伸ばしてボトルを取ると、空になったグラスに中身を注いだ。
男たちに蹴られた痛みは、感覚が麻痺したのか、気にならなかった。かわって5年前に痛めた右の膝が痛みだした。俺はウイスキーを飲みながら、無意識に右膝をさすっていた。
俺の様子を見て、福井が聞いた。
「痛むんですか?」
「ああ、過ぎ去りし、人生の痛みだ」
福井は理解したようだ。
「交通事故の後遺症ですね?」
俺が5年前に起こした交通事故のもようは、新聞やテレビで大々的に報じられた。その事故で俺は、右膝を潰すとともに、野球人生も潰したのだ。
「痛みはあるが、いいこともある。この膝には、ひと財産できるほどのプラチナが詰まっているんだ」
俺は冗談めかして言った。

福井は悲しげに顔をそむけた。そして、つぶやくように言った。
「野球をやっていたときのあなたは、輝いていました。本当に最高のプレーヤーだった」
「よしてくれよ、過去の話だ」
俺は、いらだって手を振った。
「そう言われますけど、あなたはまだ過去を引きずっていますよ」
「──」
「あなたがお酒を飲むのは、過去を忘れようとしているんじゃない。過去のいい時代に浸っていたいからでしょう」
「じいさん、聞いた風なことをぬかすな!」
俺は一瞬ムッとした。そこで思い直して言った。「ところで、あんたにまだお礼を言っていなかったな」
「お礼なんていいですよ」
「そうか――しかし、正直に言えよ。金でいいんだろ」
福井はびっくりした顔で、俺を見た。その表情が怒りに変わった。
彼は俺をにらんで言った。
「どうやらあなたは、野球とともに人格も失ったようですね。選手時代のあなたは、明るくて、カラッとして、竹を割ったように真っ直ぐな人だったが──」
こんどは、俺が福井をにらむ番だった。
「俺が、いつあんたと付き合っていた、と言うんだ」
「お付き合いがなくても、あなたの性格は分かっていましたよ。あの頃のスポーツ記事は、あなたのことばかり載っていた」
「スポーツ記事で、俺の性格が分かるのか?」
「分かりますよ。それに、テレビにも出ていたでしょう。ユーモアのある話し方、ちょっとした仕種。あなたは何をやっても絵になる男でした」
「誉めてくれてありがとう。そこまで惚れ込まれると、ちょっとあんたを抱いて、可愛がってやりたくなるな」

福井は黙り込んだ。
俺は言いすぎたのに気づいた。
「悪かった。たしかに俺は、性格がねじ曲がったらしい」
俺は素直に謝った。そこで気になっていることを聞いた。「福井さんは、家族はいないのか?」
福井は寂しそうに微笑んだ。彼はウイスキーを注ぎ足すと、ちょっとすすった。それからおもむろに話しだした。
「女房とひとり娘がいました。でも10年前に、二人とも他界しました」
「──」
「活発な娘でしてね。大学ではカーラリーをやっていました」
福井はぼんやりと、手にしたグラスを見た。
「娘の二十歳の誕生日祝いに、新車を買ってやったのです。小さな車でしたけどね。娘はそれこそ、宝物のように車の手入れをしていました。鏡のようにピカピカに磨き上げて。いつも部屋を散らかしっぱなしで、母親に叱られていた娘が、ですよ」
彼は小さくため息をついた。「人の命なんて、はかないものです。ある日、娘は、母親と箱根に出かけました。私は仕事に出る前に、彼女らを見送った。それが生きている二人を見た、最後でした」
俺は姿勢をただした。
「──交通事故かい?」
「ええ。対向車線を走っていたトラックが、急に突っ込んできて――相手の居眠り運転でした」
「──」
俺はどう言っていいか分からなかった。黙ってウイスキーを飲み干した。体の痛みはだいぶ和らいだ。どうやらアルコールがいいほうに作用したらしい。
そろそろ睡眠による安息の時だ。
福井は俺の方をじっと見ている。俺は服を脱いで、福井に言った。
「さっきあんたを抱きたいって言ったのは、半分本音なんだ。裸になって、添い寝してくれるだけでいい。頼む」
福井は驚いた様子だったが、しばらくしておずおずと服を脱ぎだした。

俺は背後から、福井の小さな体を抱いていた。老人の柔らかい肉体は、肌に心地よかった。おかげで体中の痛みを忘れることができる。
福井は俺に抱かれたまま、じっとしていた。
「――俺は、女を抱けないんだ――あの事故で、女を死なせて以来――」
俺は呟いた。なんでそんなことを話し出したのか、分からない。とにかく俺は、これまで胸につかえていたものを、福井に向けて吐き出していた。
「40歳が近づいて来た頃だ。スポーツ選手としてそろそろ限界だと囁かれていたが、俺はそんなことを信じていなかった。技術と経験でカバーできるってな――。
でも、自分では感じていたんだ――もうピーク時のような、瞬発力やパワーは残っていないって。
思うようにいかない焦りから、俺の心は荒んだ。
そして、衝動に突き動かされたあげくの大事故だ。
その事故で俺は、ひとりの女を死なせ、俺自身も野球人生をフイにした。いや、女房や子供とも離れていったから、家族もだ」
俺は自虐気味に笑った。「身から出た錆びだ。半年間の療養生活とサラリーマンとしての別の人生。野球を失った俺は、アルコールに呑まれた。そして、女房も死んだ――」
身動きしたとき、背中に鋭い痛みが走った。俺は息を詰めた。
「痛むのですか?」
福井が訊いた。
「ああ――おしゃべりはおしまい。福井さん――口でやってくれるか」
俺は、隆起しかけた分身を、老人の柔らかい尻に押し付けた。
福井は、しばらく何の反応も見せなかった。やがてこちらに向き直って、毛布の中で体をずらせた。ほどなく俺の分身が、湿った温かいものに包まれた。心地良い快感の中で、俺はいつしか眠っていた。

光の道が海に向かって、一直線に伸びていた。濃紺の空には無数の流れ星が尾を引いて、押し寄せ、流れ去った。
俺は流れと一体化し、浮揚感を満喫していた。
光の筋が両サイドをすさまじい勢いで流れ、風が吠えたてた。音と光が車内にあふれかえった。
ふいに全てが静止した。
まわりは漆黒の闇。静寂が訪れた。
聞こえるのは密やかな息遣いだけ。それにしめやかな泣き声が加わった。細く尾をひいて、低く、高く――。
若い女がダッシュボードに寄りかかって、泣いていた。彼女は訴えるように俺のほうを見た。痛い――痛いのよ。
突然、女は血の涙を流しだした。血の筋が頬を伝い、あごの先を滴り落ち、胸の窪みに溜まっていく――。
[17/07/07 07:50 神亀]
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